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レズビアン死亡症候群、サイコレズビアン…ステレオタイプなマイノリティ描写はなぜ問題?

2019/11/10 20:00
サイゾーウーマン編集部(@cyzowoman

 このところ、日本では『おっさんずラブ』(テレビ朝日系)や『きのう何食べた?』(テレビ東京系)など、ゲイの男性に関するテレビドラマがいくつか出てきて話題になっています。日本は英語圏に比べると、いくつか例外はあるにせよ、ゲイ男性を主人公とするテレビドラマが発達するのが遅かったのですが、それでもこのような番組が出てきたのは表現の多様化という点で歓迎すべきでしょう。

 一方、ゲイの男性に比べるとまだあまり日本のテレビドラマに大きく登場していないのがレズビアンの女性です。おそらくこれからは出てくるのではないかと思いますが、その前に、これまで英語圏のテレビや映画でレズビアンの女性がどのように描かれてきたのかということをおさらいしておいてもいいかな……と思うので、今回の記事ではレズビアンのステレオタイプについて扱います。

 ここで紹介するのはほんの一例で、他にもいろいろあるhttps://www.advocate.com/arts-entertainment/2017/8/29/17-lgbt-tropes-hollywood-needs-retire#media-gallery-media-7のですが、手はじめにいくつか、21世紀の作品にもしばしば見受けられるものを紹介していきたいと思います。

とにかく不幸

 英語圏で少し前によく言われていたステレオタイプとしては、レズビアンはみんな見た目や振る舞いが伝統的な男っぽさに倣っている、というものです。髪が短いとか、あっさりしたユニセックスな服装を好むとか、男性の間で流行っているような趣味を愛好している、というのがその例です。もちろんそういうレズビアンもいるし、性的指向にかかわらず、伝統的に男性に人気があるもののほうが趣味にあうという女性はたくさんいます。一方、とくに男っぽい服装などに興味のないレズビアンもいるので、画一的なイメージばかりが流布するのはよくありません。

一方、このようなステレオタイプについては、おそらく日本の今後のテレビ番組ではそんなに出てくることがないのではないか……と私は勝手に予想しています。というのも、日本の社会は見た目に関して保守的なところがあるので、テレビ製作者がレズビアンのドラマを作るとしても、視聴者受けを考えて伝統的な女性っぽい可愛らしさを備えた登場人物を出すほうを選ぶのではないかと思うからです。男っぽい服が好きなレズビアンよりも、女の子っぽいオシャレをするのが好きなレズビアンを多く見かけることになるかもしれません。

 英語圏の同性愛表象で2010年代に問題になったのは、レズビアンにかぎらずセクシュアルマイノリティの登場人物がとにかく不幸になる話が多いhttps://www.theguardian.com/film/commentisfree/2018/oct/31/lgbt-cinema-still-needs-more-happy-endingsということです。この話の型は「ベリー・ユア・ゲイズhttps://tvtropes.org/pmwiki/pmwiki.php/Main/BuryYourGays」(“Bury Your Gays”,「ゲイ埋葬譚」くらいの意味)と言われています。昔の作品では登場人物が性的指向のせいで殺されたり、自殺したり、破滅するなど、まるで同性愛が悪いことで不幸の根源なのだというような表現が散見されます。古典的なところでは、同性愛の噂を立てられたせいでヒロインたちの人生が崩壊していく様子を描いたリリアン・ヘルマンの戯曲『子供の時間』(1934)とその映画化『噂の二人』(1961)などがあります。

おそらくこの変形と言えるもので、女同士の恋は真正のものではないから不幸な結末を迎えるだけで、本来、女性は男性を必要としているのだ、というオチになるものがあります。たとえばグレタ・ガルボが実在するスウェーデン女王を演じた『クリスチナ女王』(1933)では、ヒロインのクリスチナは侍女のエバに恋をしていますが、エバには実は男性の恋人がおり、クリスチナは手ひどく裏切られます。クリスチナは結局、男性であるスペイン大使アントニオと情熱的な恋に落ち、その結果退位します。この映画はガルボの演技と中性的な魅力が素晴らしい作品ですが、レズビアンの恋は不幸なだけで結局は女と男の恋こそがホンモノ、みたいな物語はこの後もずっと作られることになります。

同性愛が不幸な結末を迎える傾向は、同性愛自体の描き方があまりネガティヴでなくなってからも長く続きます。メジャーなハリウッド映画として初めてゲイの男性を主人公にしてヒットを飛ばした『フィラデルフィア』(1995)では、主人公がエイズで亡くなります。ゲイの恋愛ものとして画期的だった『ブロークバック・マウンテン』(2005)も主人公のひとりが死んで終わります。

レズビアンについては「デッド・レズビアン・シンドロームhttps://medium.com/@aferricks/dead-lesbian-syndrome-how-tragic-tropes-continue-to-misrepresent-queer-women-9f0a1ead9b2c」(“Dead Lesbian Syndrome”、「レズビアン死亡症候群」)という言葉があるくらい深刻です。とくにアメリカのテレビドラマに登場するレズビアンの女性は死亡率が高いことで有名https://lgbtfansdeservebetter.com/all-dead-lesbian-and-bisexual-women-on-tv-2016-2017/で、2015-2016年のテレビドラマシーズンで死亡したキャラクターのうち1割がセクシュアルマイノリティの女性https://www.vox.com/a/tv-deaths-lgbt-diversityでした。統計の取り方が若干異なるので単純比較はできませんが、このシーズンのテレビドラマのメインキャストのうち、セクシュアルマイノリティの人物は6.4パーセントhttps://www.glaad.org/whereweareontv15だったことを考えると、アメリカのテレビドラマに出てくるセクシュアルマイノリティの女性登場人物は死ぬ確率がかなり高いことになります。

別に、恋が不幸な結末を迎えたり、登場人物が死んだりするからその作品がダメだ、というわけではありません。異性愛のロマンス映画である『カサブランカ』(1942)や『ローマの休日』(1953)は悲恋物ですが名作として名高く、『ブロークバック・マウンテン』もそういう悲恋映画の古典のひとつに数えられるでしょう。さらに、エルトン・ジョンの半生を描いた『ロケットマンhttps://saebou.hatenablog.com/entry/2019/09/13/225920』(2019)のように、ゲイの主人公の恋がうまくいかなくてもかなりポジティヴに終わるという斬新な作品も登場しています。

問題は異性愛に比べて同性愛のほうがやたら悲劇的な扱いを受ける例が多いことです。ひとつひとつの作品ではなく、全体的な傾向が重要だと言えます。同性愛者の恋人同士も幸せになれる、というポジティヴなモデルを提示する作品が少ないのです。さらに、プロットが複雑なテレビドラマなどでは、シスジェンダーで異性愛者の登場人物のプロットを進めるためにセクシュアルマイノリティの登場人物、とくに女性が犠牲になるのが問題視https://glaad.org/files/WWAT/WWAT_GLAAD_2017-2018.pdfされています。

しかしながら、このやたらとレズビアンが不幸になる傾向は、女性同士のカップルが別れそうで結局別れない様子を描いた『キャロル』(2015)あたりから変わってきています。2017年頃から、アメリカのテレビドラマでセクシュアルマイノリティの女性が死亡する事例は減少https://www.autostraddle.com/in-2018-tv-got-even-better-for-lesbian-and-bisexual-characters-444171/しています。レズビアン死亡症候群はだんだん改善の兆しを見せているようです。

サイコレズビアン

 もうひとつ、かなり根強いステレオタイプが「サイコレズビアンhttps://tvtropes.org/pmwiki/pmwiki.php/Main/PsychoLesbian」です。同性愛者は悪人である、というのは古くから存在するステレオタイプで、やたらと他の女性に執着したり、ねたんだりして悪事に手を染めるレズビアンというのはお決まりのキャラクターです。これは「女は陰湿で精神不安定」というジェンダーに基づく偏見に、「レズビアンは他の女性に対して変態的な執着心を抱いている」というようなセクシュアリティに対する偏見が絡んだステレオタイプと言えます。

おそらく最も古典的なものは『レベッカ』(1940)です。マンダレイ邸の主人であるマキシムの後妻になった「わたし」(ジョーン・フォンティン)を、先妻レベッカの忠実な召使いであった家政婦長ダンヴァース夫人(ジュディス・アンダーソン)が執拗にいじめるという話なのですが、この作品のダンヴァース夫人はレズビアンで、亡きレベッカに強い執着心を抱いています。ネタバレで恐縮ですが、ダンヴァース夫人は不幸な最後を遂げることになります。

この手の作品はとてもたくさんあります。穏健なところでは『イヴの総て』(1950)のイヴ(アン・バクスター)から、もうちょっと穏やかでないものとしては『乙女の祈り』(1994)、『バタフライ・キス』(1996)、『あるスキャンダルの覚え書き』(2006)などです。

変わったところでは、2015年にアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』がBBCドラマになった際、登場人物のひとりであるエミリー(ミランダ・リチャードソン)がサイコレズビアン的な役になりました。これは原作に明示されていないので、原作を刷新しようとしてステレオタイプになってしまった例かと思います。こうした作品群の中にも出来が優れたものはたくさんあるのですが、やはりやたらと悪いレズビアンが出てくる全体的な傾向に問題があると言えます。

じゃあ人格に問題のあるレズビアンを映画やテレビに出してはいけないのか……と思う人もいるかもしれませんが、全くそういうわけではありません。既に、けっこう人格に問題のあるレズビアンやバイセクシュアルの女性が出てきているけれども、女性嫌悪や同性愛嫌悪があまり感じられない、奥行きのある作品というのはいくつか作られています。

バイセクシュアルの女性たちが18世紀の宮廷で右往左往する時代もの『女王陛下のお気に入り』(2018)は、アン女王の寵愛をめぐる女官たちの争いを単なる「女は陰湿」というステレオタイプに陥らないブラックユーモアと深みを持たせて描いた政治諷刺劇です。『ある女流作家の罪と罰』(2018)は実在するレズビアンの犯罪者リー・イズラエルの半生をメリッサ・マッカーシー主演で描いた作品ですが、あまり人好きのしないワルな女を、平面的でない人物として丁寧に描いています。工夫次第でいくらでも、ステレオタイプを避けつつ複雑な人物を描くことができるのです。

ここまで見てきた通り、ステレオタイプというのは個々の作品を見ているだけではよくわからず、多くの作品から傾向を抽出すると見えてくることが多いものです。特定の人々に特定のネガティヴな性質や展開が結びつけられ、その後に作品を作る人たちもついつい昔からあるアイディアに頼ってしまう……というようなことが繰り返されて、だんだん陳腐なステレオタイプが力を伸ばすことになります。見ている人たちのほうも、そうした描写を見慣れていると、現実に生きている人々にステレオタイプを投影しがちになります。さらに、差別されている属性の人たちがステレオタイプを内面化し、悩んでしまうこともあります。ステレオタイプを避けるには、周りを良く見て、面白いことをしようとして実は古くさいことを繰り返していないか、内省することが必要です。

なお、このあたりに興味のある方は、ハリウッド映画におけるセクシュアルマイノリティ表現を分析したドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(1995)を是非ご覧下さい。『フィラデルフィア』あたりまでの映画史を丁寧にたどった作品です。

最終更新:2019/11/10 20:00
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