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日本社会が抱いていた「同じ価値観」の幻想、なぜ多様化が怒りを生むのか

2019/11/04 20:00
サイゾーウーマン編集部(@cyzowoman

 世の中、どうしてこれほどまでに怒りにまつわるニュースがあるのだろうか。いつから私たちはこれほどまでに怒りにまみれた社会に暮らすようになったのだろうか。あおり運転、いじめ問題、キレる高齢者、芸能人のゴシップ、増税、隣国との関係、暴行事件等々、怒りにまつわるニュースは枚挙にいとまがない。

 怒る必要がある事件が増えたということであろうか。あるいは、私たちが年々怒りやすくなっているということだろうか。それとも社会として犯罪が増えていて、そのことに対して人が怒るようになっているのだろうか。

 ここで法務省の犯罪白書を見てみる。バブル期の昭和63年度版では刑法犯の認知件数は2,132,592件、検挙件数は983,891件となっている。それに対して平成30年度版では刑法犯の認知件数は915,042件、検挙件数は327,081件となっている。

 この数字だけを見ると、日本の社会はこの30年で刑法犯は半減し、とても平和になってきていると言えそうである。平和な社会になれば、人は穏やかになりそうなものだが、実際のところ、私たちは怒りにまみれた生活をしている。

怒ることは必要なことである
 私の専門はアンガーマネジメントである。アンガーマネジメントとは1970年代にアメリカで生まれた、怒りの感情と上手に付き合うための心理トレーニングと呼ばれている。

 もともとは犯罪者に向けられた矯正教育プログラムとしての側面が強かったが、時代の変遷とともに一般化されていき、今では企業研修、青少年教育、一般的なカウンセリング、コーチング、アスリートのメンタルトレーニングなどに幅広く応用されるプログラムになっている。

 アンガーマネジメントは怒らなくなることが目的ではなく、怒る必要のあることは上手に怒り、怒る必要のないことは怒らなくて済むようになる、その線引きができるようになることを目指すものである。

 決して怒らなくなること、怒りという感情をなくすというものではない。怒ることは必要なことであり、怒りという感情は上手に付き合うことができれば、人生をより豊かにすることができると考えることが前提にあるのである。

 こうした背景もあり、私は何か大きな事件があるたび、「人は怒りやすくなっているのか、どうして人は怒るのか」という取材をよく受けている。

人は「〜するべき」が裏切られた時に怒る
 人が怒りやすくなっているかどうかについて、「日本の多様化」が大きく影響していて、そのことにより人は怒りやすい環境にあると私は見解を述べている。なぜならば、人は自分とは違うもの、自分が理解できないもの、自分が受け入れられないものについて怒りを感じるからである。

 ごく簡単に言えば、人は自分の信じている「〜するべき」が裏切られた時に怒る。たとえば、「マナーは守るべき」と思っている人はマナー違反を見ればイラッとするし、「働くとはこうあるべき」と思っている人がそうではない働き方をしている人を見れば腹が立つのである。

 これまでの日本は良くも悪くも、社会全体として「働く」ということについて一つの大きな共有できる価値観があった。従業員は長時間労働をはじめ、人生の優先順位の高さを会社に提供する代わりに、会社は終身雇用制度の下にその人の生涯を保証するというものである。

 実際、この仕組みの下、日本経済は戦後世界に類を見ない成長を遂げた。ところが平成の30年間の間、その仕組みでは上手くいかないこと、成長し続けることができない現実を嫌というほど、味わってきた。

 そこで政府は働き方改革を提唱したのである。働き方改革とは、厚生労働省によれば以下の通りである。

 ”我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。こうした中、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題になっています。「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。”

 お題目としては素晴らしいし、正面きって反論するのは憚られるようなものである。性別、年齢、学歴、キャリアなど一切関係なく、誰もが活躍できる社会である。平等であること、公正であることは多くの人が望むことであろう。

 ところが、これはまさに総論賛成・各論反対を生むものであり、さらには怒りを生みやすい環境をつくっているといえるのである。

多くの人にとって自由であることは苦痛でしかない
 考えてもみてほしい。あなたの隣にはあなたが理解できない人、なぜこんなことをするんだ?なぜそんな風に考えることができるんだ?と思う人が働くことになるのである。毎日、理解できないこと、受け入れたくないことを目の当たりにすることになる。

 そうなれば、怒りの感情を持つなということのほうが無理である。自分と同じ価値観の人が隣で働いていれば、阿吽の呼吸ですむことも、お互いに理解し得ない者同士が働いていれば、これくらいわかって当たり前という前提が成り立たないところで働き、成果を求められることになるのである。

 仕事が終わっていないなら、終わらせてから帰るのが常識。自分に与えられた仕事は最後まで責任をもってやり遂げること。月曜日の納期に間に合わないことが金曜日にわかっているのであれば、休日出勤してでも仕事を終えるべき。同僚が困っているなら助けるのが普通、などなど。

 こういった期待をことごとく裏切ることが起きるのである。しかも、働き方改革、多様性なのだから、それを受け入れなければいけない。

 では、働き方改革以前、多様性の概念が広まる以前は、人々は同じ価値観を共有していたのだろ実は私は、これまで日本人が同じ価値観を共有できていたというのは、ただの幻想でしかないと考えている。

 もともと価値観は人それぞれであるし、十人十色という言葉もある。ところが、社会的に成長する仕組みの中で、個々人はバラバラだけど、そこには目をつむり、価値観は一緒、大切なものは同じということにして、やり遂げていこうという乱暴なやり方がまかり通っていただけに過ぎない。

 それはある意味、楽な社会であったといえる。哲学者のサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言った。多くの人にとって自由であることは苦痛でしかないのである。だから、自分の価値観とは違っていたとしても、社会が、会社がそういうのであれば、細かいことを考えるのは止めて、従ったほうが楽と思っていたのである。

優先順位を決めたら、低いものについては手放すこと
 では、多様性が求められる社会において、どうすればムダにイライラせずに生き、働くことができるのだろうか。それには、自分にとって優先順位を明確にすることが重要である。優先順位を明確にするとは、自分が関わりたいこと、関わる必要がないことを区別することだ。

 私たちは一日に数千回とも数万回とも言われる決断をしている。それだけの回数決断をするだけで相当なストレスであるのに、自分が関わる必要のないことでいちいち決断をしていては、心身ともに健康を保つのは難しい。

 人は余裕がある時は寛大な考え方、対応ができるが、いわゆるいっぱいいっぱいな状態になれば、普段許せることも許せなくなるし、狭量な判断、行動をすることになってしまうのである。

 心に余裕を持ち、落ち着いて考え、判断できるようになるためにも、自分にとって優先順位が高いのはどれかを決めることが大切だ。そして、優先順位を決めたら、低いものについては手放すことである。手放すというのは、関わらないということだ。

 たとえば、職場の人間関係がストレスだ、人間関係でイライラするという人は多い。この場合、職場で欲張りすぎていないか考えてみる。職場での優先順位は一体何が一番高いのだろうか。仕事で成果を挙げることなのだろうか、それとも人間関係を築くことなのだろうか、あるいは生活の糧を得ることなのだろうか。

 仕事で成果を挙げるためには、人間関係が良くないと難しいから、人間関係にも気を使うようにしているという声も聞こえてきそうだが、本当にその因果関係は正しいのだろうか。

 何も人間関係を一切無視して、成果だけを挙げようというのではない。仕事の成果に関係あると思っている人間関係への気配りが、実は成果には直接結びついておらず、結びついていないどころか、自分を苦しめるものにしかなっていない可能性はないのだろうか。

 多様性とは、どのような考え方の人も受け入れられるということである。あなたが誰に気を使うでもなく、あなたの信じる優先順位の高さに従って働くことも受け入れられるのである。

 怒りの感情に振り回され、自分の人生に集中できないようであれば、それは残念としか言いようがない。

 自分を怒らせるのは自分しかいないのである。誰もあなたに怒れとは命令をしていない。あなたにとって本当の優先順位は何だろうか。そこに向き合うことが、ムダにイライラせずに生き、仕事をしていく大きなヒントになると考える。

 本連載では様々な事件に絡め、「怒り」のマネジメントについて考えていきたい。

最終更新:2019/11/04 20:00
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