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素晴らしかった歌舞伎「風の谷のナウシカ」、”優しい女性”が主人公というレア度

2020/01/08 20:00
サイゾーウーマン編集部(@cyzowoman

 劇場へ足を運んだ観客と演じ手だけが共有することができる、その場限りのエンタテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。

 年が明けた今年、2020年は、東京オリンピック・パラリンピックの開催が控えています。世界中からの来日客を迎えるに際し、舞台の世界でもインバウンド需要を見越した取り組みが多種企画されていますが、その最たるものが、日本の誇る伝統芸能の歌舞伎。

 昨年末には、同じく日本が誇るコンテンツ産業のアニメで世界的に評価の高いジブリ映画の代表作「風の谷のナウシカ」が新作歌舞伎として上演されました。

 主人公ナウシカ役を務めた歌舞伎界の御曹司、尾上菊之助は、同時期に放送されていたTBS系ドラマ『グランメゾン東京』で木村拓哉演じる主人公のライバル役でも強い印象を残し、また、開幕直後に公演中の事故で骨折しながらも翌日には復帰し出演を強行したガッツでも話題になりました。

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歌舞伎の懐深さを示す「風の谷のナウシカ」
 ハリウッドからの実写化の要望や舞台化のオファーをことごとく遠ざけてきたというジブリの舞台化があえての歌舞伎、というインパクトの大きさはもちろんですが、純粋に演目として、歌舞伎の底力を見せつけた非常にエポックメイキングな作品になっていました。すでに確立された伝統芸能も令和の時代に挑戦しつづけていると実感できるナウシカ歌舞伎を振り返ってみたいと思います。

 ジブリ映画「風の谷のナウシカ」は、監督の宮崎駿自身による同名の長編漫画が原作です。映画制作時にはまだ漫画は連載中だったため、途中までを再構成して作られましたが、歌舞伎版は映画では描かれていない原作全7巻をすべて舞台化。

 歌舞伎は通常、1日に2回昼の部と夜の部の公演が行われ別々の演目が上演されますが、ナウシカ歌舞伎では昼と夜を通して、約8時間の通し狂言(一本の物語)になっています。

 「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」など歌舞伎の古典として有名な作品なども本来は非常に長い物語で、そのうちの名場面だけを抜き出して公演されることも多いのですが、物語として楽しむならば(座りっぱなしでお尻は痛くなりますが)通し狂言の上演は観客としてうれしいものです。

 昼の部は3幕に分かれており、映画で描かれていた部分は最初の「序幕」のみ。2幕め以降は映画には登場しない、トルメキアと敵対する土鬼(ドルク)諸侯国連合帝国との戦いと、そこに巻き込まれながら人類が生き残れる未来へと奔走するナウシカの葛藤が描かれていきます。

 序幕冒頭では、映画でも登場する「腐海」や「火の七日間」などの神話のタペストリーが引幕として掲げられ、用語解説とともに世界観を説明。舞台背景の腐海のセットや、飛び交う蟲たちの造形の再現性は「素晴らしい」の一言! 原作の中央アジア風の無国籍な雰囲気を残しながらも、衣装などは歌舞伎ならではの日本風にアレンジされ、長年どんな題材でも取り込んできた歌舞伎の懐深さをうかがうことができます。

 映画では、幼い王蟲をえさに王蟲の大群を呼び寄せていたのは、トルメキアへの復讐を目論むペジテ市の残党でしたが、歌舞伎版では原作同様、土鬼諸侯国連合帝国の仕業になっていました。土鬼は王蟲を兵器として用いるために「旧世界の悪魔の法」と呼ばれる技術を使い、王蟲を培養しています。剣士ユパ・ミラルダ(尾上松也)とアスベル(尾上右近)による培養槽の破壊は、本水(舞台上を大量に流れる本当の水)の使った立廻り。

再演を熱望する声
 また、土鬼諸侯国連合帝国の皇帝で超能力を持つ不死の神聖皇弟ミラルパ(坂東巳之助)と、その兄で彼を暗殺し皇位を簒奪する皇兄ナムリス(坂東巳之助の二役)の、舞台上に同じ俳優が2人いるかのように見える入れ替わりや、ナウシカの衣装が王蟲の血に染まり一瞬にして青くなる早替えの技法「ぶっ返り」、そして主人公ナウシカが、王蟲の暴走を止めるためにメーヴェで旅立つ宙乗りと、歌舞伎らしい演出法が網羅されており、それまで歌舞伎になじみのなかった層に対して、そのすごさや魅力を余すことなく伝える構成に。

 また、ナムリスの死の場面は古典「義経千本桜」の「渡海屋・大物浦の段」の名場面、平知盛の死にざまを思わさせる演出になっており、歌舞伎ファンにとっても胸が踊るものでした。

 なかでも特別に素晴らしかったのは、舞踊です。

 歌舞伎舞踊の見方について、演者たちは「深く考えすぎず美しさを堪能して」とよくいいますが、それなりに歌舞伎に親しんでいても心から理解し楽しむのは、率直にいうと少しハードルが高いもの。今作中では、王蟲の暴走を止められなかったナウシカが、王蟲とともに死に腐海の一部になろうとする心情を表す踊りと、物語終盤に土鬼の聖都シュワで世界の秘密を握る「墓の主」(中村歌昇)と巨神兵(尾上右近)の精が対決する場面が舞踊で表現。絶望にかられつつも他者を慈しむナウシカの優しさが一番伝わってきたのは、この舞踊での菊之助の儚い美しさと所作からでした。

 墓の主と巨神兵は「連獅子」の拵(こしら)えと振り付けで、クライマックスに相応しい勇壮さで見応えがあるだけでなく、ジブリ世界の壮大さを何より体現しており、哲学的で複雑な物語の展開や登場人物たちの心情が、どんな台詞での説明よりも雄弁に心に届いたように思います。

 もっとも、逆をいえば台詞にはただの説明が多く、そのとばっちりを食ってしまったのが、他ならぬ主人公のナウシカだったかもしれません。脚本にジブリのスタッフが入っているためか、話の展開が映像的で、舞台らしい緩急に乏しく、原作の膨大な要素の盛り込み方も粗(あら)が多くて、ナウシカがただ超常的な力を駆使してすべて解決していくだけのように見えてしまったのは残念。

 本来ならトリウマ(馬のような架空の動物)に乗って花道から舞台へと駆けていく合戦の場面が、開幕直後の事故の影響もあり、トリウマを曳いて歩いていくだけの演出になってしまったり、宙乗りの回数が減ってしまったりしたのも、アクシデントで仕方がなかったとはいえ、よりナウシカがただ周りに流されるだけの人に見えてしまったように思います。

 一方で、中村七之助が演じたトルメキアの皇女クシャナは、女性であるからこそ耐えざるをえなかった辛い過去や、優れた人格やカリスマ性から将軍として性別に関係なく慕われるさまの描かれ方が秀逸で、むしろ主人公はクシャナでいいのではなかったのかという印象も……。

 これは脚本の問題が大きいのですが、歌舞伎の特性も大いに影響しているように思います。

 歌舞伎の演目は時代背景の設定上、主人公は男性が中心。坂田金時の母親が主人公の「嫗山姥(こもちやまんば)」や、「暫(しばらく)」の女性版「女暫」など、強い女性が主人公の演目もあるにはあるのですが、美貌のあまり恋人や運命に翻弄されるわけでなく、ナウシカのように自分で道を切り拓く上に「優しい」女性が主人公となる作品はかなりレア。しかも恋愛物語でないといえば、ジブリという看板以上に、歌舞伎の世界にとってチャレンジングな取り組みだったのではないでしょうか。

 事故の影響で、決して万全の上演だったとはいえなかったナウシカ歌舞伎でしたが、再演を望む声はすでにあちこちから聞こえてきます。その時はきっと、さらに歌舞伎の魅力が伝わるものにブラッシュアップされていると信じたいです。

最終更新:2020/01/08 20:00
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