ジャニーズ問題対談

ジャニーズ暴露本『光GENJIへ』から35年、ゴーストライター・本橋信宏と鹿砦社が見つめるジャニーズ問題

2024/02/01 19:00
太田サトル(ライター、アイドルウォッチャー)
左から『ジャニーズ帝国60年の興亡』(鹿砦社編集部、鹿砦社刊)、『ジャニーズと僕』(本橋信宏、イースト・プレス刊)

 2023年、ジャニーズ事務所の創業者、ジャニー喜多川氏による未成年者への性加害行為が事実と認められた。それよりさかのぼること35年前。元ジャニーズ・北公次の自伝本『 光GENJIへ』(データハウス)が出版され、世間に衝撃が走った。その後も『二丁目のジャニーズ』『SMAPへ』(ともに鹿砦社)など元ジャニーズによる告白本が続き、それらはジャニーズ暴露本ともいわれるように。

 これらを手掛けてきた鹿砦社代表・松岡利康氏と、『光GENJIへ』ゴーストライターの本橋信宏氏が今回、初めて対面を果たした。ジャニーズとの接点や暴露本出版の原動力について、2人に聞いた。

——1988年に本橋さんが手掛けられた『光GENJIへ』がデータハウスより出版され、ベストセラーになりました。ここから一連のデータハウスによる暴露本シリーズが始まり、そしてその後は、鹿砦社からも数々の暴露本が刊行されることに。松岡さんは『光GENJIへ』を最初にご覧になったとき、どんな印象をもたれましたか?

松岡利康氏(以下、松岡) まず私ね、北公次がいたフォーリーブスのデビューシングル「オリビアの調べ」を当時買ってるんです。

本橋信宏氏(以下、本橋) えええっ! それは驚きです。

松岡 私は1951年生まれでフォーリーブスの青山孝(当時。のちに孝史に改名)と同い歳なんです。 ちょうど高校生のときに彼らがデビューして、レコードを買いました。「ドーナツ盤」ね(笑)。

本橋 いや、僕ね、松岡さんは実は“隠れジャニオタ“なんじゃないかとずっと思ってたんですよ。好きじゃないとあんなにたくさんの本おやりになれませんもん(笑)。

——ジャニーズファンだったんですね。

松岡 いい曲でしたよね、「オリビアの調べ」は。その後、フォーリーブスはずいぶんと活躍して。私はほかに「ブルドッグ」とかも買ったんじゃないかな。初代のジャニーズが好青年路線だったからか、フォーリーブスも初めはそういう路線で売り出してましたね。

本橋 たしかに名曲ですね。作詞は北公次とありますが、実はジャニー(喜多川)さんが書いてたんじゃなかったかな。いやそれにしても、松岡さんがフォーリーブスのファンだったというのを語られるのは初めてじゃないですか?

松岡 どうでしょうね、そうかもしれません(笑)。

本橋 これは大スクープですよ! 「鹿砦社社長、実はジャニオタだった!」って(笑)。鹿砦社という、もともと政治色の強い左派系出版社がジャニーズの本をたくさん出すのはミスマッチなんじゃないかと思っていたのですが、納得いきました。そんな私も、自慢じゃないけど田原俊彦のデビュー曲「哀愁でいと」は買いました(笑)。

松岡 その後、フォーリーブスが解散して、たまにテレビつけると(おりも政夫が)通販番組に出てたりするのを見て、がんばっているんだなと思っていたようなところに『光GENJIへ』が出て。驚くばかりでした。あのころこんなに苦労していたのかって……。しかしそれにしても、『光GENJIへ』は文章がうまいね。ぐいぐい引き込まれちゃう。

本橋 いやいや。でも私も、今回の騒動になってそれこそ30何年ぶりに読み返してみたんですけど、期間が空いてるぶん第三者の視点で読めるのか、なかなかいいんですよ。このころの俺、まだちゃんとしてたんだなって(笑)。

 ちなみに僕が書いたのは、この最初の一冊だけなんです。自叙伝を出すという公ちゃんの夢はこれで果たせたので。その後の『光GENJIへ』シリーズは別の人間が書いてるから、文体も違うんですよ。本来なら、ゴーストライターとして『光GENNJIへ』を私が書いたことは封印すべきなんですが、北公次に無理矢理言わせたというデマが一部に流れたので、ここは歴史の偽造を防ぐためにあえて名前をさらして『僕とジャニーズ』(イースト・プレス)という書き下ろしを出したわけです。

『光GENJIへ』出版のきっかけは田原俊彦

——かつてフォーリーブスのレコードを買ったりしていたような松岡さんが『光GENJIへ』を読んでそのぐらい驚かれたわけですが、ジャニー喜多川氏が少年愛者であることそのものも、『光GENJIへ』以前は世の中にあまり知られていなかったのでしょうか?

松岡 私も具体的に知ったのは『光GENJIへ』が最初でしたし、一般的にもそうだったのではないでしょうか。

本橋 業界内で、知る人ぞ知る、という感じだったと思います。本が出た翌年の89年に、ビデオ版を撮ろうということになったんですよ(映像版『光GENJIへ』)。発売元の「パワースポーツ」ビデオは村西とおるの会社です。

 そのビデオ版の冒頭で、渋谷と新宿、銀座で通行人にインタビューしているのですが、そのインタビュアーが、当時33歳の私です。ドラマ『教師びんびん物語』(フジテレビ系)でトシちゃん人気が最高潮のころで、通行人の女の子たちはみんな『光GENJIへ』に書かれたことは知っていました。本が出てびっくりしたとも言ってましたね。それが、こうしてジャニーズ問題につながるのですから、本を出すきっかけになった話は運命的でした。

——そもそもどのようにして『光GENJIへ』は出版されたんでしょうか。

本橋 もともとは村西監督が沖縄ロケで梶原恭子という新人を撮ったとき、撮影の合間、彼女が「わたし、トシちゃんと寝たことがあるんです」と何気なく言った一言から始まったんですね。作中でそのことを話して、村西とおるが準レギュラーだった日テレの『11PM』(日本テレビ系)で紹介したのです。そしたら担当ディレクター2人が飛ばされてしまった。

 「週刊ポスト」(小学館)でも、田原俊彦という実名ではなく、Tというイニシャルで梶原恭子の告白を載せたところ、ジャニーズ事務所から強硬なクレームが入り、発行元に抗議にやってきたんです。

 村西とおると梶原恭子が呼ばれ、そこにメリー喜多川副社長、娘のジュリー景子さん、広報(当時)の白波瀬傑部長、田原俊彦本人という豪華メンバーがやってきた。さらに田原俊彦の親衛隊の女性たちも5、6名。「やった」「やらない」の水掛け論になり、話は決裂します。

 そして村西とおるは「ジャニーズ事務所マル秘情報探偵局」という、ジャニーズに関する情報を電話で募るシステムを開設します。88年当時、まだSNSもない中です。そこに北公次と事務所社長との深い関係に関する情報があった。

 それで北公次の暮らす故郷の和歌山県田辺市に行って、無職状態だった北公次を説得して東京に呼び戻した。北公次とジャニー喜多川との関係を告白する本を出そうとして、連日インタービューしました。それこそ「オリビアの調べ」誕生秘話というか、ジャニーさんと北公次が二人三脚でスターを目指そうという感動的な部分もあったわけなんですよ。

——世の中に社会問題として問いかけようという、スキャンダルありきで始まったものではなかったわけですよね。

本橋 そうですね。私は人の半生を聞いたりするのが好きでしたから。それで3日ぐらい話してもらってだんだん打ち解けてきたところ、4日目に、突然ジャニーさんとの深い関係を堰を切った切ったように語り始めました。それまでは知る人ぞ知る、まさに都市伝説のような感じだったものが、大変なスキャンダルとして、彼の口から告白されました。

SMAPメンバー個人から出版差止め要求

『SMAP大研究』をめぐる騒動もあった(写真:サイゾーウーマン)

——『光GENJIへ』をきっかけに、ジャニーズの暴露本が世の中に多数放たれました。鹿砦社も、それらを出した代表的な出版社です。

松岡 原吾一の『二丁目のジャニーズ』(95年)や『ジャニーズおっかけマップ』(2002年)シリーズ……ネットがまだ発達していなくて紙の出版物しかない時代でしたからね。大半が初版で2万部でした。

本橋 初版2万ですか! 書籍の勢いがあった時代でしたね。

——鹿砦社としては、それだけ「売れるぞ」という自信があったということでしょうか。

松岡 それ以上にね、書籍『SMAP大研究』(1995年)をジャニーズ事務所に潰されたものだから、売れる売れないというよりも、「売られたケンカは買う!」といったところがありました(笑)。

——『SMAP大研究』は、なぜ出版差し止めになったのでしょうか。

松岡 そもそも、とりわけすごい内容というわけではないんですよ。メンバーの発言やエピソードを複数の掲載誌から抜粋して取り上げたものでした。

本橋 差し止め請求については、ジャニーズ事務所からだったんですか?

松岡 最初は事務所からで、その後にSMAPメンバー各個人。そこからジャニーズと仲のいい出版社、主婦と生活社とかマガジンハウス、学研とかだったかな。主婦と生活社など、その後、カレンダー利権を捨てジャニーズ事務所と訴訟合戦をやり、最近また水面下で和解したのか、ジャニーズのカレンダーを出し始めました。クソッですね(笑)。甘い汁は忘れられないということでしょうか。

——本の出版を知られていたということなんでしょうか?

松岡 それがね、本に載せる画像の掲載許諾を取ろうと、担当編集者が事務所に電話しちゃったんですよ(笑)。「内容がわかるもの、ゲラなどを送ってほしい」ということで、私が知らないところでゲラも送っちゃって。それが証拠資料となって東京地裁に差し止め仮処分を起こされた。

本橋 ゲラ送ったんですか?

松岡 そうそう(笑)。それで訴訟になって、600万円ほど負けました。そこから、これはもう裁判の結果云々よりも徹底抗戦しないといかんと、どんどんジャニーズスキャンダル本を出す流れになったわけです。

僕は初代ジャニーズから好きだった

——おふたりがそもそもジャニーズに興味をもたれたきっかけは?

松岡 僕は最初の、初代ジャニーズから好きだったんですよ。そのバックを務めていたのがのちのフォーリーブス。

本橋 デビューした先輩のバックにつかせて人気を高めていく。光GENJIのバックを務めたスケートボーイズがのちのSMAPになるようなジャニーズ方式は、初めからあったわけですよね。

松岡 ビートルズとベンチャーズが登場したあたりで日本のポップスも大きく音が変わった印象があります。グループ・サウンズが出てきて、そしてフォークソング、そうした流れからジャニーズも誕生した。

本橋 松岡さん、日本の芸能史に詳しいですね。

松岡 僕は熊本育ちなんだけど、タイガースが来たときに見に行ったりしました。ビートルズが来日したのが66年。その翌年からグループ・サウンズがブワーっときて2年ほどで波が去りました。タイガースが解散したのが71年だったかな。それで沢田研二がソロでデビューするわけだけど。

本橋 「君をのせて」だ。やっぱりお詳しい! てっきり政治青年なんだと思っていました。

松岡 まあ、そういう時代だったんですよ(笑)。熊本という地方都市にも学生運動が波及し、結構盛んでした。鹿砦社は69年創業で最初に出した本が『マルクス主義軍事論』で、これに象徴されるように政治的な本を出す会社でしたが、私が引き継いでからジャニーズの暴露本をたくさん出すようになる。考えてみれば不思議というか面白い巡り合わせですよね。

太田サトル(ライター、アイドルウォッチャー)

太田サトル(ライター、アイドルウォッチャー)

ライター・編集・インタビュアー・アイドルウォッチャー(男女とも)。ウェブや雑誌などでエンタメ系記事やインタビューなどを主に執筆。

最終更新:2024/02/01 19:00
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