高野山奥之院へ参拝

ジャニー喜多川さんのお墓参りガイド【高野山奥の院|場所&正しい参拝ルート】

2022/07/30 14:00
上江洲規子(かみえしゅう・のりこ)

――ジャニー喜多川さんが眠る高野山の奥之院。パワースポットや観光地としても有名な高野山の歴史や参拝ルールについて、神社仏閣の歴史や神話、民俗学に詳しく、書籍も数多く手掛ける上江洲規子氏がガイドする。

 ジャニーズ事務所の創業者であり、トッププロダクションに育て上げ、2019年7月9日にこの世を去ったジャニー喜多川氏。彼の墓所は高野山の山深く、いわゆる「奥之院」と呼ばれる場所にある。

 ジャニー氏の安寧の邪魔になってはいけないが、命日にもお盆にも近いこの時期、静かにお参りをしてみるのも良いかもしれない。

高野山と空海の歴史

参道(写真:サイゾーウーマン)

 まず、高野山の歴史をひもといてみよう。高野山の母神は「丹生都比売(にうつひめ)」であるとされる。天平時代に書かれた祝詞「丹生大明神告門(にうだいみょうじんのりと)」によれば、天照大神の妹神で大和や紀州に農耕を広めた女神だという。この地を修行の場として開いたのが、平安時代の高僧、弘法大師空海だ。

 空海は遣唐使として唐を訪れ、密教を持ち帰る。遣唐使についての研究はまだ十分とはいえないが、数年の短期滞在で帰国が許される還学生(げんがくしょう)と、20年は帰国が許されない留学生(るがくしょう)は、待遇が違ったとされる。

 空海は留学生だったが、密教の金剛頂経と大日経を統合した第一人者でもある恵果から、直接両部を伝授されて多大なる成果を得て、たったの2年で帰国を許される。

三鈷の松(写真:サイゾーウーマン)

 先進国の唐においても最先端だった密教を持ち帰った空海は、都で大歓迎を受けた。空海の名言通り、「虚往実帰(むなしく往きて満ちて帰る)」である。帰国した空海は東寺などを経て高野山を開き、一大霊場に育て上げて栄華を誇った。

 現在の高野山は、根本道場である「壇上伽藍(だんじょうがらん)」を中心に、金剛峯寺をはじめ、寺院が百以上も存在する。これらの寺院は、罪を犯した貴人や謀反の疑いをかけられた武将が蟄居(ちっきょ)させられた歴史を有するものも少なくない。

壇上伽藍(写真:サイゾーウーマン)

 かつては女人禁制で、女性たちが留まった女人堂もあり、多くの人が高野山を目指したことが偲ばれる。

女人堂
Dokudami, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

奥之院には、今も空海が生きていると信じられる

 武将たちの信仰も篤く、奥之院には織田信長や豊臣家、徳川家のほか、武田信玄や上杉謙信、伊達政宗など、錚々たる武将が眠っている。武将たちだけでなく喜多川家の墓所もある奥之院は、空海が入定(にゅうじょう)している聖地だ。入定とは「禅定に入る」ことで、禅定とは、心の動揺が鎮まった状態を指す。

 空海は奥之院で永遠の瞑想をしていると信じられているわけだが、正確には“未来永劫”にではない。大乗仏教では釈迦が入滅(死去)したのち、56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に現れて、人々を救済すると信じられている。弥勒が現れるまでの間が、空海の瞑想期間だ。

Kobo Daishi (Taisanji Matsuyama)
Anonymous Kamakura-period artist, Public domain, via Wikimedia Commons

 だから高野山では空海は今も生きていると信じられており、一日に2回、維那と呼ばれる僧職の者が、空海が入定している御廟に、毒見の済んだ御膳を運んでいる。この儀式は「生身供(しょうじんく)」と呼ばれ、承和2年(835年)に空海が入定してから、1200年近く続いてきた。御膳は主食のご飯と一汁、そして三菜で構成されている。

 高野山は人気観光地でもある。かつて「目の青い人が高野山に足を踏み入れると雨が降る」という迷信もあったが、政府によるインバウンドの取り組み以降は外国人観光客もたくさん訪れている。目抜き通りにはお土産物屋や食事処が建ち並び、精進料理の一種であるごま豆腐は、高野山でも人気の食べ物で、作りたてのごま豆腐を楽しめるお店も多い。

 宿坊を併設する寺院もたくさんあるので、宿泊してのんびり観光しやすいのもうれしいところだ。

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