[連載]崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

歴代4位の韓国映画『国際市場で逢いましょう』が、韓国人の心をかき乱す理由――「歴史の美化」と「時代に翻弄された父親」の残像

2020/01/31 19:00
崔盛旭

再会後には「悲劇」も待ち受けていた「離散家族探し」

 3番目は「ベトナム戦争」だ。よく知られているように、パク政権はアメリカの求めに応じて、64~73年にベトナム戦争に参戦した。建前は「南ベトナムの自由民主主義を守るため」とされたが、延べ32万人もの兵士を送り込んだパク政権の狙いは、アメリカから「戦闘手当」として支給される莫大な額のドルだった。構造自体は西ドイツの場合と同じだが、今回は兵士の命と引き換えにお金をもらったのだ。このお金がソウルと釜山をつなぐ京釜高速道路の建設にも使われたとされ、「国土開発の象徴」だったこの道路は、「血の高速道路」とも呼ばれるようになった。

 朝鮮戦争時に日本経済が朝鮮特需に沸いたからだろうか、パク政権は映画にも登場する「現代(ヒュンダイ)建設」をはじめ多くの会社を巻き込んで、軍事物資の輸送や戦闘施設の建設といった「ベトナム特需」も狙った。ドクスのベトナム行きは、兵士としてではなく、ベトナム特需での一儲けを狙った会社の技術者としてであるが、戦闘に巻き込まれて重傷を負って帰国する。それでもドクスは、命を懸けて稼いだお金で叔母の店を守ることができ、妹の結婚資金にも充てられ、「よかった」と満足するのだ。

 最後は「離散家族探し」である。公共放送局「KBS」では83年6~11月のおよそ半年間、『離散家族をさがします』なる番組が放送された。朝鮮戦争で生き別れになり、互いの生死すらわからずにいる家族の再会を放送の力で実現しようとしたもので、この番組を通して1万人以上の離散家族が30年ぶりの再会を果たしたのである。15年にはユネスコの世界記憶遺産にも登録されたこの放送によって、劇中のドクスもまた興南撤収で生き別れた妹マクスンと再会し、観客の涙を誘う。放送時、中学2年だった私は番組にまったく興味を持たなかったが、両親がテレビを見ながらまるで自分のことのように笑ったり泣いたりしていたのはよく覚えている。85年に実現した南北の離散家族再会にも、この番組が大きな役割を果たしたといわれる。

 ただ再会の裏では、思わぬ悲劇も起こっていた。30年ぶりに再会したのはよかったものの、離れていた間に生じた「格差」が問題となったのだ。裕福な兄と再会した貧乏な弟が金ばかりせびるとか、会ってみたら息子は暴力的な人間になっていたために両親の方から連絡を絶つ、といった事件がたびたび起こった。再会後の問題については、イム・グォンテク監督の『キルソドム』(85)に詳しいが、結果的にこの番組は「朝鮮戦争の爪痕が残る韓国を舞台に、監督をKBSが、主役を離散家族が、そしてその他の国民が脇役を演じた、壮大なスケールのメロドラマ」だったといえるだろう。

 こうして4つの歴史的な出来事を振り返ってみると、「歴史の美化」という批判はうなずけるように思える。この映画には、経済開発を最優先にして国民を犠牲にする「開発独裁」の影はみじんも見当たらない。西ドイツやベトナムでの出稼ぎは、実際には「金」と「国民の犠牲」を引き換えにしたも同然なのに、映画ではただ主人公にとっての大金を得る「チャンス」としてしか描かれない。「あんなチャンスがあったからこそ家族を守ることができた」と満足げに過去を振り返るドクスには、そんな歴史を疑問視する視点が欠けている。

 と批判をしている私でさえも、映画を見ていて何度も涙が出そうになったことは否定できない。どうしても父の姿が見えてしまうからだろう。だが、その姿に79年10月27日の朝、前日に起きたパク・チョンヒ暗殺のニュースをラジオで聞きながら号泣していた「パク・チョンヒ信奉者としての父」が重なるのも、やはり否定できないのだ。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正  戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻  スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

最終更新:2020/01/31 19:28
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