無自覚な性差別を強化する広告は、そこに描かれた「人間」を見る者もまた「人間」であることを失念している

 若い女性を主人公に起用した広告・PR(2015年の『ルミネ』や昨年の『資生堂 インテグレート』CM、鹿児島県志布志市のふるさと納税PR動画『少女U』(うなぎのうな子)、昨年より展開している東急電鉄の社内マナー啓発キャンペーン『私の東急線通学日記』等)への批判が吹き荒れる昨今。イラストとして描かれた東京メトロのイメージーキャラクター『駅乃みちか』や三重県志摩市の観光PRキャラクター『蒼志摩メグ』(海女さん)といった萌えキャラへのバッシングも相次いだ。

 上記事例の批判内容の大枠は、女性への性差別的・性的な表現、表情に対する反発である。それらが“公共の場に現出する”事実への非難、嫌悪、問題視等を加味すると、事例が広告・PRだからこそ寄せられた批判といえる。

 我々は、スクール水着姿で「養って」と訴えるうなぎ少女や、アダルトゲームの登場人物のように見える(その可能性を伴う)キャラクターが、公の場にしれっと登場する社会で生きている。件のCMは、社会人経験の少ない若い女性が、自らの年齢や容姿を悲観する(男性上司によって悲観させられる)描写をフックに、ファッションや化粧品の購買を促す。広告の都合でわざわざ“残念バイアス”をかけられた虚構の女像が、企業利益や市政のプロモーションに利用価値を見いだされる。そのような残念な状況に対し、抗議の声があがらない方がおかしいと、当方は捉える。

 とはいえ、主にインターネット上にて可視化される意見は、批判ではなく個々の感想であったり、言い掛かりや憂さ晴らしの投稿も含まれていたりと、とかく雑多である。個々が問題視する焦点も、インターネットとの向き合い方も、当然ながら人それぞれに異なる。その実に多角的な各論の紹介については、すでにインターネット上で散見されるので控え、この場では“上記事例が広告だからこそ嫌われる理由”を考察してみたい。

疑いも意図もない性差別広告

 まず、上記事例は、ジェンダーギャップがなかなか解消されない日本人の気質の映し鏡である。その気質とは、男尊女卑の潮流をくむ性差別の精神そのものではない。社会に実在する性差別を前に、「それが差別」と気付かぬまま、自覚も悪気も意志もなく、公然と性差別を行うに至る“無頓着さ”を示す。

 上記事例には、批判の声があがってようやく広告主が性差別の観点と対面した共通点がある。各位は批判を受け、「性差別の意図はなかった。配慮が足りなかった」と釈明した。それが本意ならば、問題の根幹には、事例の表現と性差別の接点を想像することさえできない“疑いのなさ”がある。

 広告制作者は、社会に実存する偏見や性差別に疎いのだろうか。しかし、多くのスタッフが関わる制作過程において、インターネットであっさり炎上するほど安易な表現に対し、疑問をもつ者もいたのではないかと推測する。その際、企画の再精査はしたのか。危機管理の観点も含めて、異議を唱える者はいなかったのか。仰る通り配慮が足りないとはいえ、それなりの配慮は一応したのか。検討の必要性はなしと判断したのか。必要性があるという発想自体、なかったのか。「性差別の意図はない」というが、それでは一体、どのような意図があるかといえば、もちろん“広告”である。

 昨今の広告・PRは、インターネット上での話題性を重視している。よって、有象無象の反応が現出することも織り込み済みのはずである。特にメディアにおける女性の扱い方、そのデリカシーのなさについての様々な意見は当のインターネット上に所狭しと氾濫している。事前に、それこそ意図的に参照しない手はない。参照した結果、話題作りの炎上狙いで、性差別表現を利用したならば、正々堂々「悪用だ」と糾弾できる。が、特に意図も作為も疑問もなく、無頓着に“性差別”に接触した挙げ句、怒られてしょんぼり撤回した広告群には、「だったら、はなから作るなよ」というセンスのない悪口以外、かける言葉が見つからない。意図せずとも、性差別表現であると指摘される広告を世に放った事実は揺るがない。

無意識に性差別に加担する広告

 自らの言動が性差別(表現)につながる疑いをまるでもたない者が、性差別に加担する。疑問をもっても無視する者が、社会に性差別を放置する。この差別の当事者意識の欠落が、日本の男女格差問題に通底するポイントであると私は捉える。

 差別意識がないまま差別に加担する者は、自分に意識はない事実を根拠に「自分は差別していない」と認識する。しかし、自分目線の事実(主観)を根拠に、大多数の人間によって構成される事実(世界)を無自覚的にスルーして良い道理は通用しない。

 主観と世界の往復によって、人間は客観を伴う当事者性を育成する。主観の意図と世界の解釈に隔たりが生じる時、集団の一員としての自分の立ち位置を俯瞰視してみると、これまで自分が見ていた主観の視野はまさしく狭小な世界の一部であり、肉眼視できない自分の背中やお尻も含めて、人々は自分を認識していることが明確に分かる。

 よって、自分の前面も背面も知る世界の人々に「おまえの背面はどうなっているのだ」と問われた際、「知りませんよ、だって私の目には自分の体の前面しか見えない」と言い逃れすることはできない。背面は確かに、世界に存在するのだから。

 人間は、世界の反応により、これまで主観の守備範囲には存在しなかった事象への“無関心”“無自覚”“無知”を知る。自分が、ある事象への差別や侮蔑を間接的に引き起こしていると気付いた時、世界の一部としての当事者性が研磨される。

 自分の背中で行われている事象に対し、当事者としての自覚を持たない者に、改善を促すことはなかなか難しい。促したところで、自分の背中は自分のものではなく、世界の他人事と認識する者の頭の中には、主観の“関心”はあっても、他者の目によって発見される“無関心”への気付きは存在しない。改善するべき問題自体も“見えない=ない”。存在していないので、疑問も生じ得ない。差別意識がない以上、自分の背中が性差別に加担していたとしても、自分自身は性差別の当事者ではない。かくして、他人事の透明マントで甘やかした当事者性の欠落が、この世に、広告に、性差別や男女格差を放置するに至る。

女性を貶める広告と人間の距離

 無頓着ゆえに炎上する種の性差別広告は、“広告”と大きく書かれた人体の前面、目視できる範疇のみを当事者として管轄する一方で、わざわざ“残念バイアス”をかけて貶めたスク水少女や萌えキャラや自己肯定感を社会に削がれた若い女性像を背面にがっつりと背負った当事者性を認めない。

 むしろ残念女性像を乱雑に捕獲し、その全面に乱暴な文字で“広告”と書き、首に紐を着けて世界を歩かせ、怒られたら文字のみ消してトンズラする、見世物搾取の感もある。なぜ、こうした広告・PRが横行するかといえば、制作当事者各位が、人間の雑な扱い方に疑問を感じていないからだ。あるいは、丁寧に精査する必要性がないと判断したからだ。なぜか。これまでの広告・PRの方法論は、そこまで熟慮しなくとも成立したからである。

 インターネットが普及する以前、広告と見る者の間にはそれなりの距離があった。テレビCMも街のPRポスターも“意図せずばったり遭遇する”類いの出会いものであり、能動的に遭遇するにはそれなりの労力を要した。人々は日常会話にて、話題の広告やその好き嫌いについて語り合うが、そのパーソナルな感想が制作当事者の耳目に触れる機会はないに等しい。

 個々の好き嫌いの範疇を越え、社会に悪影響を及ぼすと問題視された広告については、苦情、抗議の直電がクライアント企業やPR主の広報課の元へ寄せられる。結果、公開中止となった実例は数あるが、そもそも電話番号を調べ、かけ、ダイレクトに怒りをぶつける活動にはエネルギーがいる。そこまでするほどの執着がない場合、「普通に嫌い」といった悪口を言うのみで、気楽に無視をする。その程度の距離感が許された。

 インターネットを通じた情報化社会の発展に伴い、広告を含めた数多の情報と人間の距離はぐっと近づいた。企業は、既存媒体よりも安価に、より多くの人々に話題性を訴求できるインターネットでのPR展開に意欲を出す。広告代理店は、動画の再生回数やSNSでのリツイート数をもってクライアントに注目度の高さを証明する。

 そしてインターネットを日常利用しているユーザーは、かつてと変わらぬ日常会話をSNSで行い、ブログ等にて抗議も個人の感想も分け隔てなく発信する。もっともネット上の会話は、対面交流の建前が不要かつ匿名性や悪意の露呈も含まれるため、日常同様とは言い難い。が、多くの異なる価値観をもつ“モノ言う人間”の実態自体は何も変わらない。個々に異なる意見を一挙に見渡せる場が生まれただけだ。

 意見の発信も気軽に行えるようになった。その内容の是非はさておき。エネルギーを要する“抗議”(イベント)と気楽な“感想”(日常)の距離も解消され、暇つぶしのクレームを含めた多様な日常の声が、広告制作者やクライアントにも直接届く時代が訪れた。その批判的な反応(今に始まったことではない)に際し、「まさか、ここまで批判されるとは、予想もしなかった」と驚く制作当事者の反応こそが、街場の意見に頓着せずとも成立してきたこれまでの業態の日常の質を露にする。

当事者の主体を隠すな

 現在の広告屋が対面しているのは、媒体の確保や旧来のクライアントワーク、役所のPR課内の擦り合わせのみではない。「人間」である。特にインターネットユーザーは、双方向的なコミュニケーションに慣れている。広告もコンテンツも記事も私論も、すべて情報と看做し、SNS等での拡散や反応を介して人々と交流を行う。よって「人間」を無視した一方的な情報提供の方法論は、嫌われやすい。

 また、情報と人間、ユーザー同士の距離が縮まる交流過程において、各情報に現れる人物像との距離も近づく。好きなタレントやモデルといった実在の有名人のみならず、映画やドラマの主人公、虚構の二次元キャラ、その作者、匿名希望者等、インターネット上の日常で遭遇する人物像に身近さや愛着(時に粘着)を感じやすくなる。

 つまり、ユーザーは情報の中の人物像を、自分と距離の近い人間として見る。その前面に“広告”“虚構”と書かれていようとも、背面も含めた全体像が人間として不快ならば、「雑に扱ってくれるな。不快だ」と述べる。同時に、不快な描き方をする広告主や制作当事者にも、「人間性を疑う」と苦情が寄せられる。曖昧模糊としたイメージの印象操作は「胡散臭い」。そもそもユーザーはインターネットの利用者であり、特定の広告の消費者ではない。よって、利益誘導や話題性獲得のための広告メソッドをゴリ推しするPRは「おまえの商売のカモ扱いするな」と叱られる。

 良くも悪くも個々の人間性が丸出しになっている状況において、登場人物の女性をわざわざ貶める一方的な脚色が未だまかり通ると思っているのは、「人間」との距離が遠く、旧来の広告メソッドとの距離が近い広告屋のみだ。広告屋が残念女性像を担ぐのは、メソッドの慣習においては正当化されているからである。つまり、広告屋以外の人間には無効である。

 登場人物を貶め、辱める事態に無頓着でいられる者は、社会の格差や差別にも無頓着である。意識的・無意識的と関わらず、女性蔑視観をもつ者は、男性優位社会に慣れた男性のみとは限らない。冒頭の事例の中には、女性が指揮を執った案件も含まれている。

 明確な意志をもって蔑視する者もむかつくが、性差別の観点を疑わない無頓着さが性差別への加担を招く、無意識的なケースが個人的にはもっとも質が悪いと考える。なにより、当事者性が不明瞭なうえに、自覚も覚悟もない。ついでに責任も回避するゼロサムゲームの方法論が薄気味悪い。

 私は当事者である主体を隠さない。よって、最後に、冒頭に記した『若い女性を主人公に起用した広告・PR(中略)への批判が吹き荒れる昨今』の一文に訂正を入れたい。他人事を写生する記事文として「批判が吹き荒れている」と記したが、私は能動的に批判を行う当事者である。正しい表現は、「私が、批判を吹いて、荒らしている」となる。

 その他諸々、手前勝手な持論を展開しているが、私には執筆当事者としての自覚と責任がある。自分事の主体性を社会全体の森に隠し、「私が」の主語を「(その他多勢の)批判が」へとすり替え、社会の実状として発言する方法論は、言責を放棄したうえで自己正当化を企てる卑怯者の逃げ口上と心得る。

 もっとも広告は言論とは異なる大規模な宣伝媒体であり、大人の事情も守秘義務も生じる。さまざまな立場、セクションの人材が多勢集うグループワークである以上、誰か1人が責任を明示したくともできない状況は理解する。しかし、責任を明示しようがないからこそ、主体性を隠して責任回避して良し、当事者性も自覚も薄らぼんやりしたままで良しとする風潮がまかり通るようならば、一言お伝え申し上げたい、「大きな広告の森に隠れてんじゃねえよ性差別野郎、表に出ろ」と。

 この混沌とした情報化社会にて、「私は」、「捉え方はユーザーひとりひとりの解釈にお任せする。が、当方が責任と自信をもって発表する持論はこれだ」と記す。主体性を明示したうえで堂々と我が意を放つ。それが現代の情報発信者の誠意だ。

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