「ドS彼氏」は人間じゃない!? 何者でもないオンナノコの成長物語『GIRLS』

◎「男って本当に変な生き物!」

現在、日本の少女マンガや恋愛映画では「ドS彼氏」が人気なのだと言う。平凡で気弱なヒロインをいじめたり貶める言動をする美形の相手役が魅力的な男性として登場し、単なるモラハラとしかとれない言動を「好意を素直に見せられない不器用さ」として解釈しているようだ。ヒロインを「自分のモノ」だと言い切り、傲岸不遜に相手をふりまわす男になぜ少女たちは惹かれるのだろうか。

ゼロ年代に大ヒットした海外ドラマ『SEX AND THE CITY』(以下、『SATC』)は「何者かである」女性たちの物語だった。署名記事を新聞に連載しているコラムニストやハーバード・ロースクール出身の弁護士である彼女たちは住宅事情の悪いNYで広々としたアパートメントにひとり暮らしし、ハイブランドの服を日常着とする生活を実現している。そんな「生まれながらに(なぜって私たち視聴者は彼女たちがそれを獲得した過程を全く目にしていないのだから!)」多くを持った彼女たちを唯一悩ませるものは恋愛であり、ドラマの起伏を形作るのもそういった男たちとのあれこれである。

シリーズ開始時など、このドラマは、ボーイフレンドカタログと言わんがばかりに毎回毎回キャリーやその友人たちが様々な職業、個性の男性たちとデートしていた。そして初めは魅力たっぷりに見えても30分のドラマの終わりには彼らの本性を暴くオチが必ずついてその短い恋は終わる、いわば恋愛ショートショートといった体をとっていた。そう、この『SATC』に登場する女性はみな「何者かである」のに対して、男性たちはその内面がまるで見えない「他者」であるのだ。恋愛における数々の奇行を披露する彼らがなぜそんな男になったかにこのドラマはまるで興味を持っておらず、それはヒロインたちも同様だった。男がそれまでひた隠しにしていた秘密を知ったとたんドン引きしてサヨウナラだ。男って本当に変な生き物!

それは交際相手も同じである。このドラマにおける「いい男」の象徴、Mr.ビッグはまさに“内面の見えない男”で、むしろそれこそが男性的魅力であると描かれている。彼はパリに転勤になることもキャリーに相談せず、距離をおいたたった数カ月の間に出会ったばかりの他の女性と結婚してしまう。キャリーは振り回されながらも、心を開いて付き合ってくれる素朴な男エイダンでなく結局Mr.ビッグを選ぶ。なぜならこのドラマではそれこそが“男”だからだ。考えてみると、キャリーに冷たい仕打ちを繰り返すこのMr.ビッグこそが、「ドS彼氏」の典型であるかもしれない。冷酷さという鎧で自分の内面を見せない男に惹かれるのは少女たちに限らないのだ。

『SATC』はそれまでの男の物語で「女は怖い」「女は男とは別の生き物だ」と描かれていた女性像をそのままなぞって男を描いているにすぎない。相手の内面など分からないのだから理解し合うことなどそもそも彼女たちは求めていないのだ。むしろこちらに内面を見せてくる男は異性と思えなくなってくる。実際にドラマの中でも「ソウルメイトは女友だちなのだ、男はその時々の楽しみにすぎない」とのセリフが言われる。だからこそその相手の愛情を測るのが、「照明付きのシューズラックのある巨大なウォーク・イン・クローゼット付き高級アパートメントのプレゼント」になるのだ。すでに「何者かであった」はずのヒロインが男に望むものが「惜しみなく自分に金を使ってくれること」である映画版のラストを見て私は正直落胆した。

(注:これから『GIRLS』のネタバレに入ります。気になる方は本編をご覧になってからお読みください)

◎男性を人間として描いたリナ・ダナムの『GIRLS』

『SATC』から10年が経ち、同じHBO制作の新たな女性像を描くドラマが現在米国で大ヒットしている。現在シーズン5が放送されている『GIRLS』だ。ジャド・アパトーに見出され、脚本・演出・主演の三役をこなし20代という若さで初のドラマシリーズを大成功させたリナ・ダナムはまさに「何者かである」才女だ。この作品のメインキャラクターである作家志望で頑固者のハンナ、優等生で美人のマーニー、夢見がちな女性大生ショシャンナ、奔放でアーティスト肌の美女ジェッサの4人に共通するものは、いまだ何者でもなく、何者かになれそうでなれずにもがき続けていることだ。

ハンナはe-bookで本を出す企画が持ち上がるが頓挫、GQで雇われライターになっても、著名作家の登竜門である名門アイオワ大学院の創作コースに合格しても、そのチャンスを自ら手放して、現在は公立校の非常勤講師を務めている。マーニーは勤めていた画廊をリストラされ、くすぶりながらも昔からの夢であった歌手活動を始め、色男デジとデュオを組んで評価を受けるが、彼女持ちのデジの二番手にされてしまい釈然としない日々。ショションナはNY大に通う真面目な大学生であったのが、単位を落とし留年。仕事に何を求めるかわからないまま大企業狙いの就活で苦戦中。

中でも、若い女の、自分はまだ「何者でもない」苦しみを秀逸に表現していたのはジェッサのエピソードで、これを見て私はリナ・ダナムの才能を確信したのであった。ジェッサは高等遊民を気取って世界中を旅して廻り、その美貌と猫のような不遜な態度で男たちを翻弄する。大学の美術科を中退しているため就ける職はベビーシッターくらいだ。だがジェッサはそんな自分に引け目などまるで感じてないかのように自信満々に過激でやや的外れなご高説を周囲に垂れるのである。

その彼女がベビーシッター先の母親の前では様子がおかしい。妙にシュンとしておとなしく文字通り借りてきた猫のようになる。その母親は容姿こそ地味であるが、短編映画監督の仕事で成功し夫と二児の家族を養っている、まさに「何者かである」女性だった。あたかもその反動であるかのように、ほぼ無職であるその夫に対しては、ジェッサは余裕たっぷりの態度だ。彼が女としての自分に惹かれていることをよく知っており気があるそぶりをして楽しむが、彼が中年にもなって「何者にもなれない」苦しみをいざ吐露するとみじめな彼の姿に自分を見たような気持ちになりそれを受け止められない。

ジェッサにとって耐えられないことが起こったのはその後である。ジェッサと夫の関係を知った妻が、怒りをぶつけてくる代わりに、彼女を憐れむ目で見つめ「なぜ自分がトラブルを起こすか知ってる? 本当の自分から逃げているからよ。理想的な自分じゃなかったとしても、もっと真剣に生きれば変わるわ」と語りかけるのだ。その言葉を聞くジェッサの表情はまるで深く傷ついた少女のようだった。その直後、彼女は知り合って間もない、ダサめのしかし若くしてリッチな金融ディーラーと電撃結婚する。すでに「何者かである」女が「何者かになりたい」ともがく女に「そうなれなくても人生は生きる意味があるのよ?」と教え諭すことはひどく残酷な復讐だ。その敗北感を拭い去ろうとするかのようにジェッサはてっとり早く結婚を選んだ。「何者かになる」ほど特別な人間になれないのならば、誰かの特別な存在になることが容易い逃げ道であるからだ。

これは「何者かである」女たちばかりが出てくる『SATC』では決して描けない物語である。あの世界でこの構図は、“未婚女性と既婚女性の対立”としてしか捉えられないだろう。しかしリナ・ダナムが描いた「何者でもない/何者かである」という構図は性別を超えて起こりうるものだ。そしてこれは、男性を内面を持たない「他者」にしない、女性を何を考えているかわからない「別の生き物」にしない、人間としてお互いを分かり合える構図でもある。

リナ・ダナムが描く構図が性別を乗り越え、それぞれの性を「人間」として描いている証拠として、ジェッサとは全く違うタイプでありながら、同じ苦悩を抱えている男性登場人物を紹介しよう。

20代の登場人物が多くを占める中でいまだモラトリアム続行中のカフェの雇われ店長である30代男レイという人物がいる。彼は高い知性を持ちながら、世俗的なものをけなしまくり、いつまでも人生という舞台に乗り出そうとしない。ブルックリンで芸術家たちに囲まれることで満たされた自尊心を無傷のままでとっておこうとするこの男は、それゆえかまだすれていないショシャンナにも、どっぷりセックスに浸りあったマーニーにも真につきあうに値する男としては結局選ばれないのだ。

年を取って諦めることだけは得意になったレイは平気な顔をして日常を過ごしていたが、あるとき信号配置のミスが原因で頻繁に起こる家の前の交通渋滞を町議会に訴え、それをきっかけに行政に問題を感じ、町議会議員として立候補、見事当選を果たす。現実の自分に向き合うことを恐れ何も始めようとしなかった男が、自己に「変革」を希求しとうとう地に足がついた人生の第一歩を踏み出したのだ。

レイをショシャンナの“バービー人形の恋人・ケン”としてだけでなく、内面や未確定な可能性を持つゆえに成長もする「人間」として描いたリナ・ダナムは、まさに新世代の作家である。

◎「何者かである」ことよりも価値のあること

男性を「人間」とみるからこそ生まれる成長の可能性がある。

エキセントリックで身勝手でハンナを性欲の捌け口のように扱っていたかに見えた恋人のアダムが初めて内面を見せたのは、従来の女性ドラマではあまり見られなかった切り口だった。

友人たちには周知の事実だった、アダムが長年、断酒会に通っていることを知ったハンナは「なぜ(彼女であるはずの)私に大事なことを話してくれないの」と彼を責める。するとアダムは「お前が聞かないからだ! お前、俺のことは全然興味ないだろ! お前が興味あるのは、自分が俺にとってどんな存在であるかだけだ!」という意味のセリフを吐く。この時、「女にとって男は生まれついて『他者』であるわけではない、女が男を『他者』として扱うから男は『他者』になるにすぎない」という事実をリナ・ダナムはこちらに突き付けている。男だって内面を持っている。しかしこと恋愛になると女は男を映し鏡にして自分がどれだけ愛される価値のある人間かということばかりを覗こうとする。だから相手の人間性が見えてこないのだ。

それ以降、ドラマの中のアダムの人間性はがらりと変わる。別人ではないかというくらいハンナに向き合い、自分の意見を表明し、非常識な出来事には動揺する。だがこれはアダムというキャラクターが変化したのではなく、ハンナのアダムに対する見方が変わったことを示しているにすぎない。謎だらけのよくわからない男だったのが、自分を愛しているかいないか吟味するためのフィルターを外した途端、その内面が見て通せるようになったのだ。

冒頭で、なぜ「ドS彼氏」が人気なのだろうか、と書いた。逆説的ではあるが、凡俗さや迷い、逡巡といった普通の人間としての内面を見せず、相手を支配する強さのみ見せる男に少女たちが心惹かれるのは、彼の中に被支配という形で愛されている自分をうっとりと見つめるためなのではないだろうか。自分を特別な男に愛されるに値する存在だと考えるためには男の凡庸な内面などむしろ邪魔でしかない。

『GIRLS』の4人の女の子たちは今も何者かになろうともがいている最中だ。その取り組みはお世辞にも恰好のいいものではなく傍から見ていると紆余曲折が過ぎて彼女たちが何を求めて格闘しているのかわからなくなるほどだ。でもその過程で彼女たちは少しずつ人生を学んで行っている。ハンナがアダムとの恋愛を通して男を他者にしていたのは自分自身であったことを知ったように、マーニーは見かけ倒しの男デジといることで逆に自分ひとりの足で立つ経験を積んだ。ショシャンナは元彼レイの地道な選挙活動を見て就活の対象をベンチャー企業に変え、新天地東京で生活を始める。ジェッサは皆がパニックに陥る中、アダムの姉の出産トラブルを的確に解決しそこに自分の能力を見出す。

最終的に彼女たちが「何者かになれる」かどうかはまだわからない。しかしたとえその終着点が彼女たちの心に描いていたものそのままでなくても、その過程で見るであろう様々な風景はきっと人生を生きるに値するものだ。少女たちよ、あきらめずもがくのだ。もがきながら見る風景は空虚な他人の心の中に映る自分の姿よりも広大で豊かで、その中には思ってもみなかった多くの発見があるに違いない。『GIRLS』を見ていると、その時手に入れたものは「何者かである」ことよりももっと価値ある何かなのだと思える。
(パプリカ)

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