なぜ「若いうちに産んだほうがいいよ」と言ってはいけないか/『文科省/高校「妊活」教材の嘘』

2017/06/16 20:00

卵子の老化。妊活。不妊治療。卵子凍結保存。ここ数年でホットになった妊娠・出産をめぐるトピックだ。きっかけは2012年6月23日に放送されたNHKスペシャル『産みたいのに産めない~卵子老化の衝撃~』。番組でライトが当たったのは30代後半~40代のいわゆる高齢出産に該当する世代の女性たちだった。肉体的には健康であるがなかなか妊娠しない、おかしいと思い産婦人科を受診して初めて「卵子が“老化”しているため妊娠の可能性が低い」「女性の卵子は年齢とともに年を重ね、35歳の女性が出産できる可能性は20代の半分」という事実を知り悲嘆に暮れる、というものだ。女性たちが無知によって「産みたいのに産めない」状況に陥らないよう、啓発する内容。一方で、「卵子が若いうちに産めない」のは社会的要因が複雑に絡み合っており、一概に女性の無知が原因とは言えないことも指摘されてきた。

6月2日に厚生労働省が発表した平成28年の人口動態統計(概数)によれば、出生数は前年比2万8698人減の97万6979人で過去最少、初の100万人割れとなってしまった。女性が生涯に産む子供の推定人数を示す合計特殊出生率は1.44で、前年を下回り2年ぶりのマイナス。厚労省は「20代後半~30代前半の出生率が減った」とコメントしている。出産世代の女性人口は減少の一途。これ以上の少子高齢社会化を防ぐ対策が急務だということは分かる。労働人口が減り、経済規模が縮小し、社会保障制度も維持できなくなると予想されているからだ。であれば日本は「産みやすい社会」ひいては「子育てしやすい社会」に変革していかなければならないのだが、その課題解消の目途も立たないのに「とりあえず若者に産ませよう」という思惑ばかりが先走っている印象を受ける。

2015年8月、文科省が発行した高校保健体育の副教材『健康な生活を送るために(平成27年度版)』は、少子化対策を盛り込んだものだったが、そこには前述の“思惑”が凝縮されていた。この問題を徹底的に検証したのが、『文科省/高校「妊活」教材の嘘』(論創社)だ。かねてよりSNS等で同教材の問題を指摘してきた「高校保健・副教材の使用中止・回収を求める会」の活動記録である。

件の副教材は、妊娠・出産や性教育に特化したものではない。交通安全、生活習慣病、喫煙や飲酒、薬物乱用などに合わせて、性感染症の防止や妊娠・出産に関連するページがもうけられている一冊だ。しかしこの副教材に掲載されている「女性の妊娠のしやすさの年齢による変化」グラフは改ざんされたデータであり、妊娠・出産に関するページには他にも複数の間違いや不適切な記述が見られた。本書『文科省/高校「妊活」教材の嘘』は、「その分野の専門家たちが関わっていながら、なぜ改ざんや間違いは見過ごされたのか?」検証し、経緯と内容を明らかにした一冊だ。同時に、この副教材を現政権(第二次安倍政権)が文科省と連携し「早めの結婚・妊娠・出産を仕向けるよう、関連のページを強化した」プロパガンダであると見て警鐘を鳴らしている。

国の「産ませる」という政策的な意図と、学術・専門家団体の権力への欲望が結び合うとき、「科学的知識」に何が起こり、それは社会の中でどのように機能するのか。専門家たちによって権威付けられた「科学的知識」が正しいのか歪んでいるのか、それを誰が確認できるのか。教育現場の教員や生徒たち、そして市民はいかにより適切な情報にアクセスできるのか。これらについて考えるための材料を提示することが、本書のもう一つの目的である。(まえがきより)

◎間違いだらけの教材に、不信感が募る

高校保健体育の副教材『健康な生活を送るために(平成27年度版)』は、後述するイデオロギーの問題だけでなく、ミスが非常に多いものだった。まず「女性の妊娠のしやすさの年齢による変化」グラフは、女性は22歳をピークに妊娠しやすさが低下すると示していたが、出典をたどると明らかに不適切な曲線の改ざんがなされていることがわかった。のみならず、これは女性が各年齢で結婚期間や相手の年齢にかかわらず子供を産む能力(妊孕力)を求めようとしているものではなく、妊娠する可能性のある女性について一カ月以内に妊娠する確率がどれだけあるかを求める(結婚期間等の影響を取り除いていない)ものだ。かつ、半世紀以上前のデータであるが、それを隠して、新しい研究成果であるかのように出典が示されている。つまり信用に値するグラフではなかったということだ。にもかかわらず当該グラフは、今回の副教材より以前から、産婦人科界隈の一部や厚生労働省の広報制作物で繰り返し使用され“定番アイテム”と化していたこともわかった。誰も誤りに気付かなかったのか、それとも意図的な改ざんだったのだろうか。

また、「子供はどのような存在か」なるグラフの数値は間違っているし、「不妊で悩む人が増加している」という見出しで掲載されたグラフも誤り。さらに、「日本の若者は生殖知識が不足している」(=だから若いうちに産まないのではないか)という説の根拠として内閣府少子化危機突破タスクフォースが利用した「スターティング・ファミリーズ」調査という国際比較調査の結果もまた、信頼度の低いものであった。この調査は、まず英語版の質問文が作成されたのちに12言語(日本語版を含む)に翻訳され各国で実施されたものだが、翻訳の精度等に問題があり、英語との文法的・語彙的な共通性の低い言語が使われている国では軒並み正答率が低くなっている。また、国ごとに対象者の抽出方法も異なり、社会調査パネルを使った国と、不妊関連サイトなどからのオンライン調査・不妊治療クリニックに通院する人に回答させた国とでは後者の調査結果の方が妊娠リテラシーが高くなるのは必然である。そもそも調査のスポンサーである製薬会社(不妊症の治療薬も開発・販売している)がプレスリリースで調査結果について「必ずしもその国を代表するものではありません」と注意書きしているのに、日本の国会ではあたかも「日本人の妊娠リテラシーは低い」ことを示すものとして議論の根拠にされた。国会だけではない。産婦人科団体は積極的にこの調査結果を利用して「日本人の妊娠リテラシーは低い」と煽ってきた。専門家たちが、質の低い調査を精査せず、あるいは問題点を把握しながら悪利用する形で、お墨付きを与えてきたのである。こうしたデータの誤りや不適切な使用を、丁寧に明らかにしていく本書の執筆陣には頭が下がる。

アカデミックな業界に籍を置かない人間(の一部ではあると思うが)は、専門家(研究者)が調査し提示したデータや学会発表はすべて無条件に信用できる、と誤解している節があるように思う(評者自身も……自戒を込めて)。しかしそのデータがどのような文脈で利用されているか、本当は注意深く見なければいけない。たとえば『ためしてガッテン』『ホンマでっか!?TV』のようなバラエティ番組も、“わかりやすい演出”が加えられた恣意的な制作物だ。

さらに政府や省庁が公開する資料もまた、受け取り手は無条件に「正しいデータで作成されている」と認識してしまいがちだ。だが今回の副教材には、前述のように複数の間違いがあり、制作過程におけるチェック体制が機能していないことがはっきりしてしまっている。決して「高校生にもわかりやすいようにグラフを整えてあげました~」というレベルの話ではない。

そして単純なミスだけでなく、イデオロギー的問題も孕んでいる。<人生のいろいろな可能性や選択肢がある10代の女性に対して、結婚・妊娠・出産をしたほうがいい、それもなるべく早く――そう誘導しようとした>(p162)のだ。このような誘導によって若い世代にそうしたライフスタイルが模範的なものと刷り込まれ、あるはずだった彼ら彼女らの可能性・選択肢が失われていく。教育機関にあるまじきことだ。

◎なぜ誘導してはいけないのか

けれども一方で、「それのどこが悪いの?」と思う人もいるんじゃないか。しかも、たくさんいるんじゃないか。評者は、まったく邪気なく「女の子は若いうちに産んだほうがいいんだよ」と考え、若い女子にそう伝える大人はとてもたくさんいるだろうと思っている。

「産めない年齢になってから後悔しても遅いんだよ」「老後が淋しいよ」と、女性個人のためを装った言葉から、「女性なのに産まないなんてもったいない」「孫の顔が見たい」といった具合の押しつけ、さらに直接的に若者にこう言いはしないだろうが、「少子化で国が大変になるのに産まないなんて」「今の若い人はわがまま」「甘えている」……。そんなふうにうっすら思っている“大人”たち、身の回りにいないだろうか? そうした無意識の集合が、若い女性への“産めよ増やせよ”圧力になっていく。しかもその圧力をかける側は、ほぼ善意のつもりでいる。女性個人への善意、社会への善意。これが非常に厄介だと思う。

産む産まないは個人の権利。産まない選択もひとつの権利で、産まない選択をする成人女性が増加して日本の若者人口がいっそう減少したとしても、女性に「国のために産んでほしい」などとは口が裂けても言ってはならない。同様に、女性との間に子を持つ選択をしない男性にも、強要してはいけない。なぜなら「どう生きるか」を決めるのはその人だからだ。しかし高校保健体育の副教材『健康な生活を送るために(平成27年度版)』は、ワンパターンな人生設計しか見せようとしない。子供を産まない選択があることは教えてくれない。そのことが性的マイノリティをはじめ、いわゆる「男・女・子」の家族設計を持たない児童に対して苦痛を与えることは想像に難くない。

また、どう生きるかの想像をごく狭い範囲に限定させ、若い世代の可能性の芽を摘み取っていては、結局日本の経済成長も望めないだろう。この副教材は「幸せな生涯」を規定し、10代の選択肢と多様性を奪っている。

◎誰しも第三者が踏み込んではいけない領域がある

6月3日に東京・神谷町の東京麻布台セミナーハウスで、『文科省/高校「妊活」教材の嘘』出版記念シンポジウムが開かれた。同書の編者であり青山学院大学・慶應義塾大学等で非常勤講師を務める西山千恵子さんは、「でも(出産適齢期の)知識は必要でしょう?」という声にどう応じればいいのか触れた。いわく、性行為やわいせつ発言については“セクハラ”だが、同じようにプライベートな話題であるにもかかわらず結婚・妊娠・出産については踏み込んで良いという共通認識が社会にある。「生殖ハラスメント」という概念を流通させ「それは他人が踏み込んではいけない領域なのだ」と浸透させていくことが必要ではないか、という。

そのとおりで、この副教材にしろ、官製婚活にしろ、結婚や出産というごくごく私的な領域に第三者がズケズケと踏み込むことをこの社会は容認している。他方、育児や介護に関しては「家庭でカバー」することが望ましいというダブルスタンダードだ。産め、増やせ、産まないとつらいぞ、老後が孤独だぞ、淋しいぞ、貧乏になるぞ……様々な方向からの脅しが私たちを蝕む。

しかし10代という未知の可能性を持つ世代の人々にもっとも大事な保健体育の知識は、「自分の体も、相手の体も大切に」ということではないだろうか。少なくとも「大切にするとはどういうことか」を知ること。すると自ずから、「プライベートな領域について、第三者に抑圧されるべきでない」ことに気付けるだろう。生まれながらにして、自分はその権利を持っている。押し付けられても拒絶することができるし、自分で判断して良いのだ。そのことに気付かれては、困るのだろうか?

■ヒポポ照子
東京で働くお母さんのひとり。大きなカバを見るのが好きです。

最終更新:2017/06/16 20:00
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