「わいせつ表現」規制と女性差別克服は関係ない? 憲法学者・志田陽子氏インタビュー

2016/12/27 20:00

スクール水着の少女が「養って」とお願いする鹿児島県志布志市のPR動画「UNAKO」。太ももと下着のラインがスカートからすけているようにみえる東京メトロのイメージキャラ「駅乃みちか」。これらは、「性的な表現がふさわしくない」として批判をうけ、「UNAKO」は公開中止、「駅乃みちか」はデザインが一部変更されました。

このような事態を疑問視し、「過剰な規制は、表現の自由に反するのでは」といった意見を持つ人もいます。賛否両論が沸き起こる性表現。表現の自由と、表現への批判、この二つは対立する概念なのか。そして、表現規制は、女性差別に効果があるのか。憲法学者の志田陽子さんにお話を聞きました。

批判は表現規制なのか?

――女性差別に関係するものに限らず、特定の表現に対して批判がおこると「表現規制ではないか」「表現の自由を侵害している」という声が少なからずあがります。ある表現への批判は「表現の自由」を侵害していると言えるのでしょうか。

志田:批判すること自体は、表現の自由を侵害しているとは言えません。批判の自由も表現の自由のひとつだからです。また批判された側がそれをどう受け止めるのかも自由です。ただ、批判する側が法規制を求めていたり、あるいは相手の表現を封じられるほどの権力性をもっていたりする場合は、対等な関係とは言えず、表現の自由と緊張関係に立つことになります。

――そもそも「表現の自由」とはどういうものなのか教えてください。

志田:日本国憲法の21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」とあります。つまり「一切の表現の自由」が保障されていることになっています。ただ、実際の裁判などでは「公共の福祉による制限がある」という言い方で規制を認めています。

たとえば、刑法175条には「わいせつ物頒布等の罪」があります。有名なD・H・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』も、昭和30年代には、性秩序を乱すため「公共の福祉」に反するとの理由で、訳者と版元が有罪判決を受けました。そのほかにも、『悪徳の栄え』『四畳半襖の下張』といった文学作品が有罪判決を受けてきましたが、今はビジュアル(視覚)表現のほうが中心で、こうした文字表現が起訴されることはまずないと言えます。

――実際に人物が出演している場合はどうなるのでしょうか?

志田:被写体が無理やり出演させられた、出演契約時になかった性的シーンを強要された、などの実害がある場合は、まず表現の問題以前に「強制わいせつ」になります。また、18歳以下のポルノを提供・保持していた場合にも「児童ポルノ所持提供」として刑罰があります。出演者が18歳以上かつ撮影に同意している場合には、「表現を過剰に規制する法律ではないか」という問題になってきます。

――18歳以上、かつ同意のときに、「わいせつか? 表現の自由か?」という議論になるのですね。表現の自由や表現規制について国ごとで考え方が違うのですか。

志田:「表現の自由」が厚く保障されている国でも、ヨーロッパ型とアメリカ型ではかなり違いがあります。

ヨーロッパ型は表現の自由を保障しつつも、弱者を傷つける表現は厳しく規制します。ヘイトスピーチ規制も、早くからドイツで認められ、現在ではフランスでも認められています。「共存社会を目指すのであれば、声のあげづらい弱者に配慮した政策をとろう」というのがヨーロッパ型の考え方です。

一方、アメリカは「思想の自由市場」と言われる考え方があります。表現物の受け止め方は人それぞれ。基本的には、表現は可能な限り自由な状態にしておいて、政府が良し悪しについて格付けをしない。その土俵の上で、ある表現を批判するのも自由。その市民の意識がかなり強く、それがローカルな自治体の条例に反映されることはあります。結果的に批判によって、ある表現がダメになったとしても、それは自由市場の決めたことであり、法はその成り行きに手出しをしないという考え方をしています。ただし、アメリカでも、「わいせつ」や暴力を挑発する言葉は例外とされてきましたし、ヘイトスピーチはマイノリティの声をあげる自由を奪う、つまり「表現の自由市場を阻害するもの」なので規制するべきだとする考え方があります。

――アメリカは子どもの番組などの表現規制が厳しいイメージがありますが……。

志田:「思想の自由市場」は、あくまで十分な判断能力を持っている大人の世界の話です。未熟な子どもはチャイルドポルノから保護しようという考えの方が強く、規制もあります。また、自由市場といいつつも、アメリカのほうが日本よりもポリティカル・コレクトネス(PC)に敏感です。アメリカでは、市民が声をあげることは当たり前という風土があるので、自由市場の結果、自然にそうなっていったのでしょうね。

――日本はヨーロッパ型とアメリカ型のどちらなのですか?

志田:日本の表現の自由は理論的にはアメリカ型の色彩が強いです。しかし、実際には保障のレベルが低いのが現状です。

アメリカ型の考えかたでは、もし表現規制するならば「どうしても必要だと言えることに限り」「最低限」の規制にとどめることが鉄則になります。ドイツ流の考えかたでも、規制は、その必要性と釣り合う限度までだと考えられています。たとえば、インターネット上のいじめをなくす法規制を考えるとしましょう。そのとき、インターネットの利用そのものを全面禁止すれば、インターネットでのいじめはなくなりますが、インターネット上にある他の正当な表現もつぶしてしまうことになり、それは憲法違反となるはずです。このように、規制をするのであれば、必要最低限の規制でなければいけません。

しかし、日本の裁判では、「最低限」の法規制とは何なのかという理論的な線引きのツメがまだ甘いのです。今年5月にヘイトスピーチ対策法が成立しましたが、少なくない憲法学者がヘイトスピーチ規制に慎重でした。理由はいくつかあるのですが、私はこのことが大きな理由だと思います。弱者を追い込む表現は許されるものではない、という理解は共有しているが、理論的な線引きのツメが甘い日本でヘイトスピーチを規制する法律が成立すると、「国会前のデモが気に入らないから禁止しよう」といった恣意的な運用をしようとする政治家に格好の根拠を提供することになってしまうかもしれません。表現の自由を考えるときには、規制が権力によって悪用されてしまう可能性も考えなければならないのです。

なんのためのわいせつ規制?

――2016年のはじめに、「日本の漫画やアニメが女性に対する性暴力を助長させている」と国連の女子差別撤廃委員会から指摘がありました。日本にはわいせつ表現への規制があるにもかかわらず、なぜこのような批判を受けるのでしょうか。

志田:まず「性表現」と、性差別を固定・助長すると考えられる「性差別表現」は別物です。性表現は必ずしも性差別表現ではありませんし、性表現のかたちをとらない性差別表現もあります。「わいせつ表現」は性表現のうちの露骨すぎるもの、ということで、差別表現とは異なるカテゴリーです。その両方に該当するような表現は、「ポルノグラフィ」として深刻に問題視されるカテゴリーです。

日本は性表現の規制はあるのですが、性差別表現の規制はありません。性差別に限らず、差別表現に関して規制する法律は作らず、メディア(放送・出版)の自主規制に委ねています。「放送コード」といわれるものは、放送業界の自主規制です。ヘイトスピーチ対策法は、そうしたこれまでの枠組みを踏み出して、国家が一般人の表現を規制する、というものなので、大きな議論を呼びました。

日本では、青少年を有害表現から守るという観点からの規制は多く行われています。性表現かつ性差別的な表現のかなりのものが、これによって抑制されているということはできそうです。しかしこれはヨーロッパのように「差別や虐待にあたるポルノグラフィを規制しよう」という発想ではありません。日本にその発想がないために、日本の表現が海外に輸出されたとき、眉をひそめられてしまうことがあると言われています。

日本がこうした海外の問題意識からズレた性表現の取り締まりをやっている例として、芸術家のろくでなし子さんの事件があります。ろくでなし子さんの場合、逮捕の対象となった作品の一部は無罪となりましたが、自分の女性器をスキャンし、3Dプリンタで出力することが可能なデータをインターネット上にアップロードした件では「わいせつ電磁的記録媒体頒布罪」として有罪とされました。彼女は自分で納得して、アートとして活動しているので、どこにも被害者はいませんし、性行為そのものを扱っているわけでもありません。いわば人体模型のようなものです。この逮捕・有罪判決は、弱者を守るための表現規制とは関係ないでしょう。

――なんのための規制かよくわからないですね。

志田:わいせつなものに厳しい一方で、児童の保護に本当に真剣か、疑問があるのが日本の現状です。日本は小さな子どもも利用するコンビニの店舗に、性的な商品を置くことが許されていますよね。読みたい人の権利はもちろんありますが、見たくない人の権利や子どもに見せたくない親の権利も考える必要があります。

――コンビニにエロ本を置くかどうかには、様々な意見がありますが、表現の自由を守るためにはどうすればいいのでしょうか?

志田:表現規制を考える際の鉄則は「最低限」ですので、その出版を禁止するのはやりすぎです。「コンビニにエロ本を置くのは望ましくない」と考えるのであれば、レンタルビデオ屋にあるような「18歳以上入室禁止」の暖簾をかけるといったゾーニングをするなどの工夫によって、見たくない人の権利を守ることができるでしょう。「それはコンビニのイメージダウンを招くので勘弁してほしい」とコンビニ業者さんが思うなら「現物は置かない」という選択をするのがスッキリするでしょう。商品カードをレジに持ってきたらレジで商品を出すという方法もあるでしょう。表現そのものを規制するような対策は、最後の手段にするべきです。

表現規制で女性差別は解消されるのか?

――わいせつ表現を規制することは、女性の差別撤廃に有効なのでしょうか。

志田:規制の推進を重要課題としている女性の法律家も大勢いて、私の見解のほうが少数説であることをお断りしておきますが、わいせつ表現を規制することは、女子差別の克服にほとんど効果はないと私は考えています。むしろ、規制による弊害のほうが大きいと思います。

わいせつな表現が今の日本において、性犯罪や性差別を助長させているのかは微妙な問題です。助長されている面もあれば、そういったコンテンツがあるおかげで実行に走らずにすんでいる人もいるかもしれません。むしろ日本においては、わいせつな表現そのものよりも、「よくできた嫁」とか「家族のために喜んで自分の人生を犠牲にする献身的な母」といったステレオタイプな表現のほうが、女性たちの生き方を拘束し苦しめていると感じています。

――では、表現規制の弊害とはなんですか?

志田:表現規制は取り締まる側にとって、一番やりやすい手段です。書店やネットで表現物を見つければ、それ自体が揺るがぬ証拠ですから警察だって実績を上げやすくなりますし、国にとっても「配慮しています」というアリバイになりますよね。

しかし、いま必要なのは「フィクション」の規制ではなく、虐待や差別で苦しんでいる「現実」の児童を救うことでしょう。たとえば、シングルマザーの貧困が進んでいるなら、支援のための法整備を進める。DVを受けている女性が相談できるところを増やす。虐待されている児童に手厚い保護ができるようにする、……などいろいろ考えられます。これは表現規制に比べて、デリケートで難しい課題です。だからこそ、養育能力を失っている家庭が支援を求める決心をするためには、処罰ではなく支援なんだ、という発想を前面に出すことが必要です。このような実際の問題にまっすぐ取り組むことが大切です。

――表現規制は万能薬ではないのですね。

志田:表現規制は間接的な効果を社会全体に期待するもので、根本の問題そのものに直接切り込む対処法ではありません。解決のためには上記のような直接の救済的対応を増やすべきで、表現規制は「それらをやっても効果が上がらない」となった時に、その後で考えることです。

表現の分野については、まず差別的だと思った表現に対して、批判すべきところを批判すること、また自分は被害者だと感じたならば訴えを起こす、といったアクションが重要でしょう。一般社会が、そうしたアクションを起こした人々をきちんとレスペクト(尊重)すること、揶揄・嫌がらせなどをしないことも必要です。そこをまるごと法規制に預けてしまうと、「批判をする」という表現の自由が、つまり社会全体の基礎体力が少しずつ奪われかねません。

一方で、批判を受ける側も、信念と理由があって公表したのであれば、批判に対してその信念と理由を説明したらいいと思います。とくに日本の自治体は批判に極端に弱く、一件でも苦情が入るとすぐに中止してしまいます。しかし、自信があるならば踏ん張ればいいし、その根拠をきちんと伝えるべきです。その上で、批判を受け入れたほうがいいなら謙虚に受け入れればいいのです。

表現の自由を守るためには、批判する側にもされる側にもある程度の強さが必要で、そのための啓発や教育が進んでほしいと思っています。その強さが明らかに足りない社会で表現への法規制を強めてしまうと、差別撤廃の本来の目的から焦点がぼやけ、表現の自由をただ手放すだけになってしまうおそれがあると思うのです。
(聞き手・構成/山本ぽてと)

最終更新:2016/12/28 21:29
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