「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」――西加奈子『きりこについて』

「きりこは、ぶすである。」西加奈子の小説『きりこについて』(角川文庫)は、このような衝撃的な一文から始まります。空気を抜く途中の浮き輪のようにぶわぶわと頼りない輪郭。がちゃがちゃと太い眉毛。点のような目に、アフリカ大陸をひっくり返したような鼻。アラビア文字のように難解な生え方の歯。首も胴体のくびれもなく、足は立派な芋虫のよう。百人が百人「ぶすである」というであろう奇跡の女の子、それが、この小説の主人公・きりこです。

 マァマのお腹から生まれ出たときから、その「ぶす」さ加減で周囲を圧倒してきたきりこ。しかし、きりこのことを心から愛してやまないマァマとパァパの「可愛いなぁ」をたっぷり浴びせられて育った彼女は、自分が世間一般で言う「ぶす」であることに、つゆほども気づかないまま、すくすくと成長していきます。それどころか、自分のことを、「世界一可愛い」女の子であると信じています。いかなるときもふりふりの可愛い洋服に身を包み、目立ちたがりで、自分が大好きで、きまぐれでわがままで、でも心のやさしいきりこ。まだ幼く、一般的な「美醜」の判断基準をインストールされておらず、きりこの「ぶす」を「衝撃」としてしか捉えることのできない周囲の子どもたちは、彼女からあふれ出す自信(あまりにも自信たっぷりの「うちって、かわええやろ?」に、子どもたちはみな暗示をかけられてしまいます)や溌剌として大人ぶった態度に惹かれ、きりこをリーダーとして慕うようになります。そんなきりこと運命の出会いを果たすのが、この小説の語り部でもある、世にも聡明な黒猫・ラムセス二世なのです。

 ラムセス二世とともに日々を過ごし、小学五年生となったきりこにはある変化が訪れます。それは、初潮と、胸をえぐるような失恋、そして、周囲がきりこのことを「ぶす」と認識するようになってしまったことでした。初潮を迎えたきりこは、かねてから思いを寄せていた初恋の人・こうた君に愛を告白します。しかし、彼から返ってきたのは、「やめてくれや、あんなぶす。」という残酷な一言。同時に、これまできりこのことを慕ってきたクラスメイトたちも、「きりこちゃんって、ぶす、やわ!」と態度を一変させてしまうのです。しかし、生まれてからずっと、パァパとマァマの心からの「可愛い」を浴びせられて育ってきた彼女には、どうしても理解ができなかったのです。いったい、うちの、どこが「ぶす」?

 きりこは毎日毎日鏡に向かい、自分の顔のどこが「ぶす」なのかを、検証するようになります。しかし、そこに映るのは「ぶす」ではなく、「きりこそのもの」。ありのままの「自分」でしかないのです。「ぶす」の定義に悩み続けるきりこが決定的に自分を「ぶす」であると認識するのは、「ぶす」の正反対に位置する「可愛い」女の子像を発見したときでした。大きな二重の目、すうと通った鼻筋、口角の上がった桃色の唇……自分と同じように「ぶす」であるクラスメイトのみさちゃんが理想とするヒロインの姿であり、思春期を迎えた男の子たちにモテモテの「可愛い」すずこちゃん。彼女たちの顔が「可愛い」とされるならば、その対極にいる者は、「ぶす」だ! 自分が「ぶす」であることをはっきりと自覚したきりこは、その日から鏡を見ることをやめ、人の目を避け自室に篭もり、つらい現実から逃れるために眠り続けるようになります。ラムセス二世をはじめとする猫たちだけが、きりこが笑顔を向けられる相手でした。彼らにとっては、きりこが人間界で「ぶす」だと言われていることなど、まったくどうでも良かったのです。

 きりこは、自分が「可愛い」女の子になれないことに苦しんでいるのではありません。「自分」はどこまでいっても「自分」であり、ほかの誰かになることは不可能なのだということを、きりこはよく分かっていましたし、何より彼女自身がそうして生きていくことを望んでいませんでした。「きりこの体はきりこのもの」。だから、大好きな、自分の体と心が一番よろこぶ、可愛いお洋服を着て外を歩きたい。しかし彼女にぶつけられるのは、「ぶすのくせに」という心ない言葉ばかりでした。きりこのそんな姿が、そんな思いが、周囲から受け入れられないということに、彼女は絶望していたのです。

 長い間、部屋に篭もっていたきりこ。しかし、十八歳になった彼女に、外の世界へ出て行くことを決意させる、ある出来事が起こります。それは、同じ団地に住む、ちせちゃんという女の子が、強姦の被害にあったことでした。きりこはそれを夢の中で知ります。脚の間から血を流して「私は望んでいない」と泣く彼女を、どうにかして助けたいと、きりこは四年ぶりに太陽の降り注ぐ外へと出て行きます。ラムセス二世と、たくさんの猫たちを引き連れて。

 セックスが大好きなちせちゃんは、自分の欲求を満足させるために、出会い系サイトを利用していましたが、相手はきちんと選び、「生理中はセックスをしない」「避妊具を必ずつける」といったルールを決めて、安全な性交を楽しんでいました。そんななかで、ある男が、「生理が始まったからしたくない」という彼女の言葉を聞かず、無理やりに挿入をしてくるという事件が起こります。ちせちゃんはそれを「レイプである」と警察や周囲の人々に訴えますが、挑発的な服装の、「ヤリマン」と噂される彼女の言うことを、誰も聞いてはくれません。出会い系サイトを利用して、不特定多数の異性との性交に励んできた、自分の体を大切にしてこなかったちせちゃんが強姦されるのは、「自業自得」だというのです。

 きりこは、必死に周囲と闘うちせちゃんについて、このように話します。「セックスをたくさんしてるから、体を大切にしてへん、のやなくて、ちせちゃんは、自分の体が何をしたいのかをよく分かってて、その望む通りにしてるんやから、それは、大切にしてる、ていうことやと思う。自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらんと思うから。」それはきりこ自身が、自分に対して言い聞かせた言葉でもありました。

ぶすって、何だ。

誰が決めたのだ。目が大きいのがいいって誰が? 顎の下がなだらかなのは、美しくない? では、美しさとは? 誰が決定する? 誰が?

 露出の多い服を着ていれば、ただちにレイプされるのか? レイプをされれば、心を奪われたことになるのか? セックスが好きなのは、自分の体を大切にしていないこと? 体の欲求に素直なことは、「自分を大切に」していると、言えないのだろうか?

 ふたりは約束をします。「自分」の欲求に、従うこと。思うように生きること。誰かに「おかしい」といわれても、「誰か」は「自分」ではないのだから、気にしないこと。

 きりこは、決して「きりこ」のことを否定しません。「ぶす」なきりこも、可愛いお洋服を着たいと思うきりこも、誰が作ったのかも分からない「基準」に傷つけられたきりこも、そして、「ぶす」な自分のことが大好きなきりこも、そのぜんぶが「きりこ」なのです。「可愛く」ならなければいけない、「ぶす」だから可愛いお洋服は着てはいけない、正しい「基準」に従わなければならない、「ぶす」のままの自分に、満足してはいけない。そんなふうに、誰もが心の中に抱えてしまう呪縛から、きりこは自由であろうとします。彼女はとてつもない「ぶす」ですが、「ぶす」の自分を受け入れ、愛することができました。しかし、きりこが「ぶす」の自分を否定していたら、どうでしょう。自分自身を「ぶす」という「基準」で否定するということは、同様に「ぶす」である誰か、「基準」にそぐわない誰かを、そのまま否定することにも繋がってしまいます。

 ではそもそも「自分」ってなんなのだろう? 数え切れないほど多くの要素――生まれ持ったもの、自らの手で選び取ったもの、そして誰かから押し付けられたもの――が、これ以上ないほど複雑に組み合わさって作られるものではないでしょうか。しかもそれは、刻一刻と変化し続けている。容姿も立場も考え方も、そのときどきで驚くほど簡単に変わってしまいます。そう考えると、誰が作ったのかも分からない外側の「基準」に判断をまかせようとするのは、あまりにも窮屈で乱暴なことだというのが分かります。そしてその「基準」というのも、実際のところ、時代や環境などのさまざまな都合で形を変えていく、不確かなものに過ぎません。「自分」にも「他人」にも、そして「基準」にも、「正しい」姿というものはないのです。だからこそ、いまここにある「自分」というものが、自分とは違う要素の組み合わせである「他人」に、そして社会の「基準」に受け入れられるという保証など、どこにもありません。

 「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」きりこの言葉は、ある意味とても孤独です。自分のことを本当に知っていて、受け入れられるのは、ただひとり自分だけ、ということなのですから。しかし、ひとりひとりが孤独であるということは、ばらばらで不確かなひとりひとりの存在が、確かに認められているということです。

 「ぶす」のきりこは今日も、大好きな、ふりんふりんの可愛いお洋服に身を包みます。誰が何と言おうと、それはきりこの心と体が、何よりよろこぶことだから。そして、そのことを本当に知っているのは、ほかならぬ「きりこ」なのだから。

 きっとこの小説を読み終わるころには、読者は「ぶす」という言葉の意味を見失っていることでしょう。そこには、ふりふりの黄色いドレスを纏い、ラムセス二世を腕に抱いて、がちゃがちゃの歯をこぼして笑うきりこの姿が、燦然と輝いているのです。

(餅井アンナ)

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