[連載]崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

韓国現代史最大のタブー「済州島四・三事件」を描いた映画『チスル』、その複雑な背景と「チェサ」というキーワードを読み解く

2021/06/25 19:00
崔盛旭(チェ・ソンウク)

『チスル』加害者も鎮魂する、韓国の伝統的法事「チェサ」に沿った構成

1.「神位」=「魂を召喚する」

チェサでは白い紙に死者の名前を書き、供え物を用意した壁に貼っておくと、魂がそこに降りてくるようになっている。映画の冒頭、冬を迎えた済州島に、まるで神位に降りてくる魂のように、村人や軍人たちが現れる。悲しい歴史が始まろうとしていることが暗示されると同時に、犠牲者の魂を召喚し、鎮魂しようとする儀式=映画の幕開けが告げられる。

2.「神廟」=「魂がとどまる場所」

神廟は先祖を祀る祠堂を示す。これは本を取りに行って軍人に捕まり、輪姦された末に殺されるスンドクによって象徴的に描かれる。殺害された彼女の裸体は、島の中山間地域に広がるなだらかな稜線とオーバーラップし、その瞬間、島全体が神廟となる。静かだが力強いそのメタファーは、映画全体の白黒の映像と相まって、水墨画のような美しさを放つ。

3.「飲福」=「魂が残した食べ物を分け合って食べる」

チェサが終わると、供え物を皆で分けて食べるのだが、映画でこれはムドンの母を通して描かれる。身重の妻を抱えるムドンは、足が悪いからといって一人家に残った母を心配し様子を見に戻ると、西北出身と思われる軍人に殺され、家ごと焼き払われていた。ムドンは母が最期に残したジャガイモを洞窟に持ち帰り、何も語らずに皆に配って食べていた。死んだ母が残したジャガイモは、飢えた村人を救う糧になる。

4.「焼紙」=「神位を焼きながら願いを訴える」

チェサの最後に行われる焼紙は、神位で名前を書いた紙を焼きながら、魂が天に向かって煙のように飛んでいくことを願う儀式である。ここに至ってやっと、監督が意図した「犠牲者の鎮魂」は無残に殺された島民だけではなく、激動の歴史の中で加害者にならざるを得なかった軍人たちの慰霊も含められていたのではないかと気づく。映画に描かれたように軍の内部には実際アカ狩りに反感を持つ者も多く、あまりにも容赦のない上官の命令に反発して逆に上官を殺すという事件も起きていた。ある意味では彼らもまた犠牲者であり、一人ひとりの死者に舞い降りる「神位」を「焼紙」していくラストシーンには、そうした監督の心の内が投影されているように思える。

 本作のタイトル「チスル」とは、「ジャガイモ」を意味する済州島の方言である。「命の糧」の隠喩とも捉えられる本作で、チスルは村人同士が大事に分け合うだけでなく、軍人たちにとってもまた大事な食糧として描かれる。村人にも軍人にも死者に対しても分け隔てなく与えられるチスル(=命)には左も右もなく、人間の命はイデオロギーによって失われるべきではない――済州島出身の彼だからこそ到達できる境地が、この映画を作らせたといえるだろう。

 済州島は、地理的な特徴や朝鮮とは異なる独自の文化や言語を持っている点、そして何より悲劇的な歴史の記憶を持ち、国内においても本土のスケープゴート役を押し付けられてきた点において、沖縄と似ているところがある。沖縄の言葉を用いて沖縄で映画を撮り続ける高嶺剛という映画作家がいるように、オ・ミョル監督もまた済州島を撮り続ける作家であってほしい。監督は「僕にとって済州島は物語の宝箱」だという。彼にとって唯一無二の存在である済州島を描く作品を心待ちにしたい。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

最終更新:2022/11/01 14:45
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