【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!

金も、仕事も、家族との絆も失ったニセ天皇──マスコミにすら見向きもされなかった熊沢天皇の末路【日本のアウト皇室史】

2020/07/18 17:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

金も、仕事も、家族との絆も失ったニセ天皇──マスコミにすら見向きもされなかった熊沢天皇の末路【日本のアウト皇室史】の画像1
1955年に発行された雑誌「アサヒグラフ」(朝日新聞社)では、戦後を賑わせた人物として紹介された。(所蔵:大宅壮一文庫)

――前回までは、天皇になろうと右往左往した熊沢寛道ですが、いよいよ首が回らなくなってきた……というお話でしたね。結局、熊沢天皇はどこまで一般的な支持を集められたといえるのでしょうか?

堀江宏樹(以下、堀江)知る人には知られている程度、でしょうか。「人気」という点でいえば、さらに微妙なところなんですね。実は、今回のコラムのために世田谷にある「大宅壮一文庫」の所蔵する膨大な雑誌のデーターベースを使って、熊沢天皇などのキーワードで検索してみたのです。すると彼の存命時から現代に至るまで、検索結果はなんと20件しか出てきませんでした。

――えっ、意外に少ないですね。

堀江 しかも扱われているページ数が少ない。おそらく大手媒体からは雑誌の企画が不足した時、おもしろおかしく、いじられるだけが関の山だったのではないでしょうか。

 「大宅壮一文庫」は、戦後のドサクサにまぎれて発刊された劣悪な情報誌である「カストリ雑誌」などはあまり所蔵していないようで、カストリ雑誌の愛読者には熊沢天皇は有名人物であった可能性があるのですが……。

 雑誌より、スポーツ新聞で熱心に取り上げられていたという情報もあるにはあります。ネットを検索していると、その名も「実話雑誌」というカストリ雑誌の情報が出てきまして(笑)、その昭和25年(1950年)5月発刊の「初夏新緑号」には熊沢天皇のお宅訪問記事ほか、何名かの天皇候補者の情報が掲載されています。

――民間からの天皇候補者がまだまだいたってすごいですね。

堀江 「天皇だらけの座談会」くらいやっててほしかったですよね~(笑)。ただ、この雑誌自体、ホントに取材したの? と思えるような文章ばかりで、熊沢天皇のお宅訪問記事も、売れない作家を称する主人公による小説仕立てです。本当に取材したのかどうか……。

 ちなみに熊沢天皇は愛知弁丸出しの冴えないおじさんとして描かれています。同じように、天皇候補者リストにはフィクションとは思うのですが、たとえばこんなすごい「女帝」が……。

蝉花女帝 松江の美容院主で、銀杏返しの三十年増。町では色キチガイで通っており、常に男出入りが絶えないというパンパン型女性である。(記事より引用)

――うわぁ、これ完全にアウトですね!!

堀江 この雑誌、「大宅壮一文庫」には所蔵されておらず、つまり資料価値なし……ということなのかもしれません。いずれにせよ、マスコミからは「時々」お声がかかって、取材を受ける程度の知名度になるのが、熊沢天皇の人気の限界だったようですね。

――熊沢天皇はどうやって生計を立てていたのでしょうか?

堀江 これがよくわからないのですが、親戚からの借金と、支持者への寄生。このふたつのような気がします。

 例の吉野旅行の翌年である昭和25年頃には、親戚一同を回って金を借りたり、浅草の山口屋という甘味屋さんの新聞広告では落ち目のタレント的に名義貸しする仕事までしていたそうですよ。

 その山口屋の看板メニューは「びっくり大福」で、12個の大福を完食できたらタダになるのだとか(笑)。食べるごとに大福はどんどん巨大になっていって、文字通り「びっくり」してしまうという仕掛けでした。その広告には「熊沢天皇の子孫も召し上がっておられる」……熊沢天皇、お子さんを連れて山口屋を訪れたのでしょうかね。ともかく、そういう広告が全国紙に載ったそうで。

 ただ、これを恥ずかしがった親戚筋からは「もう来ないでくれ!」と言われてしまい、孤立を深めるのでした。

 この頃、すでに地元・愛知に熊沢天皇の居場所はなく、大阪で一家は暮らしていました。しかし昭和30年頃、熊沢天皇は最後のひと旗をあげるべく、家族を大阪に残し、単身で上京しています。

――悲壮な「上京物語」ですね。

トンデモニセ天皇の世界
なんともあっけないラストでした
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