[連載]崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

村上春樹原作・韓国映画『バーニング 劇場版』、『パラサイト』につながる“ヒエラルキー”と“分断”の闇

2020/06/12 19:00
崔盛旭(チェ・ソンウク)

『バーニング 劇場版』「ベン」という名に与えられた意味

(c)2018 PinehouseFilm Co., Ltd. All Rights Reserved

 ひとつは「名前」である。原作では登場人物はすべて「私」「彼女」「彼」という代名詞で書かれ、名前を持っていない。それに対して映画では「ジョンス」「ヘミ」「ベン」という名前が与えられている。短編小説と長編映画の違いを考えると当たり前かもしれないが、この「名前を与える」ことこそが、物語の展開において非常に重要なメタファーとなるのである。

 原作は名前がないゆえに、世界中の誰もがそれぞれの生活や環境に合わせて、物語を解釈できる。つまり原作が普遍性を獲得しているのに対して、映画では具体的な名前を与えることで「韓国」という文脈を付与している。そして、「ジョンス」「ヘミ」というありふれた名前と、「ベン」との間には、決定的な格差が横たわっている。

 日本人にもすぐにわかるように、「ベン」はいわゆる韓国人の名前ではなく、英語では「Ben」とつづられる外国人の名前である。つまり、得体の知れない不思議な男「ベン」は、在米韓国人(または帰国者)と推測できる。

 韓国には、今に至るまで、「在米韓国人」への憧れが根強く残っている。実際に成功したかは別として、韓国人にとっては「アメリカン・ドリーム」を叶えた成功者そのものなのだ。数多くのドラマや映画で「在米韓国人」は、おしゃれで金持ちで社会的地位の高いキャラクターとして描かれてきた。高級マンションに住んで高級外車を乗り回し、パーティと大麻の日常を送る「ベン」もまた例外ではない。「ベン」と名付けることで、彼について多くを語らずとも、韓国社会に根強く残る「羨望の眼差しを向けられる在米韓国人」のイメージを植え付けることができる。

 そんな「ベン」と、大学は出たものの就職もできず、小説も書けず、アルバイトをしながらトラブルメーカーである父親の裁判を見守る「ジョンス」との間には、到底乗り越えられない「格差」が存在している。それは、借金返済のために安っぽいダンサーのバイトをしながら空虚な日常を送る「ヘミ」(その空虚さは、彼女が習っているというパントマイムに象徴される)も同様だ。

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 近頃、韓国の若者の間では、「금수저(クムスジョ=金のスプーン」「흙수저(フクスジョ=土のスプーン)」という言葉がはやっている。それぞれ「金持ち」と「貧乏人」を意味し、経済的に困窮している若者たちが自嘲的に使うものだ。“高嶺の花”である「クムスジョ」=ベンと、ご飯すらろくに食べられない「フクスジョ」=ジョンス。若者の失業率が最悪な状況に陥っている今の韓国社会には、「ベン」よりも「ジョンス」や「ヘミ」が圧倒的に多いのは言うまでもない。

 本作には「ベン」という象徴的な名前が入ることで、3人の登場人物の間に明確なヒエラルキーが生まれ、原作には描かれなかった「名前」が、多くを語るメタファーとなっているのだ。

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