【特集:安倍政権に狙われる多様性ある社会】

女性やマイノリティの権利、女性運動はなぜ“後退”したのか――バックラッシュ~現代に続く安倍政権の狙いを読む

2019/12/19 21:30
小島かほり

保守派が「慰安婦」問題を否定する理由

――バックラッシュとは、どの期間の流れを指すのでしょうか?

山口 男女共同参画行政へのバックラッシュは、99年の男女共同参画社会基本法の成立がきっかけとなり、実際に運動が起きて広がったのが00年からでした。基本法は理念が書かれたもので、これに基づいた条例が各自治体で制定されていきました。ちょうど02~05年が一番バックラッシュの激しかった時期ですね。そこで攻撃に利用されたのが、95年に東京都の外郭団体だった東京女性財団が発行したパンフレットの中で提起された「ジェンダー・フリー」という概念でした。「ジェンダーにとらわれない態度や意識」といった意味合いで使われ始め、その後、主に行政のパンフレットや講座などを通じて広がった概念でした。ですが、定義が曖昧なカタカナ語だったこともあり、2000年代に男女共同参画へのバックラッシュが本格化した際に、保守派によるバッシングの格好のターゲットになってしまいました。保守派は「ジェンダー・フリー」概念の曖昧さにつけ込んで、「性差の無視」「人間を中性化し、カタツムリ化をめざす」「ひな祭りなどの伝統を破壊する」、さらには「日本社会全体の解体」をめざす、などと解釈します。そしてそれを右派論壇で拡散し、条例制定に反対する議会質問でも活用するなどと、攻撃に利用していったのです。

 そして05年には政府が第二次男女共同参画基本計画を出し、「『ジェンダー・フリー』という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」として、「ジェンダー・フリー」という用語は国としては使用しないという趣旨の文言が入れられたことで、保守派にとっては一定の満足ができる内容になり、バックラッシュの動きが落ち着いてきます。でも、日本軍「慰安婦」問題に目を向けてみると、90年代半ばからすでに反動の動きが始まっていました。もうひとつ、96年に法制審議会から選択的夫婦別姓に関する民法改正の答申が出たことも、背景としては大きいと思います。日本会議の前身となる運動は、95年に「夫婦別姓に反対し家族の絆を守る国民委員会」を結成して、大規模な集会や署名集めなどを始めていました。

――「慰安婦」問題が一般的に表面化したのは、91年に金学順さんが「慰安婦」として初めて名乗り出たことです。これは保守派にとっても大きな衝撃だったのでしょうか?

山口 名乗り出自体には、実はそれほど大きな反発はなかったように思います。それよりも、96年に中学校用歴史教科書に「慰安婦」の記述が掲載されたことに保守の人たちは危機感を覚えたようです。同年には「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、つくる会)が生まれ、それまで保守の運動にかかわったことのない人、例えば漫画『新・ゴーマニズム宣言』(小学館)で歴史認識問題を取り上げた小林よしのりさんらが参加するなどの動きもあり、地域レベルでも保守の運動に参加したことがなかった市民が、つくる会の教科書運動に関わり始めるなど、運動の広がりを見せました。教科書採択は市町村の教育委員会が担当するため、運動も地域密着にならざるを得ない。すると各地を結ぶネットワークが生まれてきます。これが現在に至るまでの保守派の大きな流れのひとつになっています。

――「慰安婦」否定や教科書問題、男女共同参画へのバックラッシュに関わっている人物は重なり、安倍政権に近い人が多いですね。例えば八木秀次・麗澤大教授は「つくる会」から分かれた「日本教育再生機構」の理事長を務め、安倍政権のブレーンとも言われる存在。バックラッシュ当時は、統一教会(現「世界平和統一家庭連合」)系の雑誌「世界思想」(世界思想社)のインタビューで「(ジェンダー・フリーには)ポストモダン思想や新左翼の過激思想が入り込んでる」と批判的な発言をしています。また、安倍首相が推進議員連盟の会長を務めていた、「親学推進協会」会長の高橋史朗・麗澤大特任教授は、性教育や夫婦別姓、男女共同参画への批判記事を書き、「つくる会」では副会長を務めていました。さらに高橋氏は現在も「慰安婦」問題など歴史認識に関わる国内外での動きにも深く関わっています。

山口 以前、保守派の方に話を聞いたところ、歴史教科書の最初の採択運動が01年夏に失敗に終わり、彼らの中でも大きな喪失感が広がったようです。もちろん運動を離れた人もいましたが、「次は何をしようか」と目を向けたときに、よく知らない間に通っていた男女共同参画社会基本法があったと言っていました。そして、男女共同参画条例制定の動きが地域レベルでも起きてきたことで、危機感が高まりました。こうして保守派は男女共同参画の条例づくりへの反対運動を展開していったのですが、その際に教科書採択運動でできたネットワークが活用されたのだと思います。それを引っ張ってきたのが、「諸君!」(文藝春秋)や「正論」(産経新聞社)などの右派論壇や、保守系団体の機関紙などで活躍していた学者、評論家、ジャーナリストでした。

 もうひとつバックラッシュの動きを後押ししたのは、インターネットです。95年に発売された「Windows 95」によってパソコン、インターネットが多くの人に普及するようになり、99年には「2ちゃんねる」などの掲示板サイトが生まれました。バックラッシュの際には、「フェミナチを監視する掲示板」などの掲示板サイトや、活動家のブログが運動を助けました。また、この頃には産経新聞や世界日報など、右派メディアの情報もネット上で手に入れやすくなっていました。2000年代半ばになると、排外主義を打ち出す「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が生まれますが、彼らは動画やストリーミングなどを積極的に使ってきました。ネットの影響はすごく大きい。

――在特会もそうですが、保守派にとって「慰安婦」問題の否定は長年のテーマです。戦時性暴力の問題である「慰安婦」問題こそ、植民地主義やレイシズムの問題はもちろんのこと、女性の権利侵害を浮き彫りにする問題でもあります。

山口 第二次以降の安倍内閣は、「女性活躍」とか「女性が輝く社会」を打ち出しているので、フェミニズムへの反動性が見えづらいのですが、歴史を振り返ってみても、「慰安婦」問題否定の動きの裏には必ず安倍さんがいます。彼は93年に政界入りしてすぐに自民党の「歴史・検討委員会」のメンバーに名を連ねます。同会は、95年に「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」と主張する『大東亜戦争の総括』(展転社)という本を発売するのですが、その中にも安倍さんが出てきます。その後、97年に設立された「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(教科書議連)では事務局長を務め、同じ97年に日本会議が結成されるとその議連にも参加します。

 00年には、日本軍の戦時性暴力を裁く民衆法廷「女性国際戦犯法廷」(※3)が行われましたが、法廷を取り上げたドキュメンタリー番組を制作したNHKに圧力をかけて番組を改変させている。05年には自民党内に「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」が設置され、その座長を務めました。そして06年に第一次安倍内閣が成立し、07年3月には「慰安婦」の強制連行はなかったという発言もしている。だからこうしてみると、彼は「慰安婦」問題とジェンダー平等、両方へのバックラッシュにずっと関わっているんですね。

※3 元「慰安婦」らが日本で起こした裁判では被害の事実認定はされるものの、国家損害賠償は認められなかったことを受け、日本軍の戦時性暴力の責任の所在を明らかにするために行われた民衆法廷(抗議活動のひとつ)。「慰安婦」だけでなく、日本軍兵士だった男性が自ら行った強姦の事実について証言した。NHKはETV特集『戦争をどう裁くか』の第2夜放送「問われる戦時性暴力」(01年1月30日放送)でこの裁判を取り上げたのだが、最も注目を集めていた昭和天皇への有罪判決についてまったく言及しないなど、不自然な構成となっていた。05年には朝日新聞が、放送前に安倍氏と故・中川昭一氏がNHK幹部に圧力をかけて番組内容を改変させたと報じた。

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