[サイジョの本棚]

『子育てとばして介護かよ』『親の介護をしないとダメですか?』:同居も無理もしない介護のリアルを描く

2019/11/23 17:00
保田夏子

介護の現実と共に知られるべき、自分の老い

 大学院で老年学を研究している島影氏と、過去にホームヘルパー2級を取得している吉田氏。ある程度の知識があるといっていい両者が、エッセイを通して強く訴えているのは、介護において「自分(もしくは家族)が『少し無理すればなんとかなる』」という考えの危うさだ。

 別居したまま、義父母の介護の窓口となった島影氏は、「少し無理すればできること」を重ねて、次第に精神的に追いつめられる。彼女は、介護への対応を強制されたわけではない。しかし、周囲の空気を読んで「自分がやったほうが早い」と対処しているうちに、無意識のうちに抱えきれない負担を抱えてしまう。そのような状況は珍しくはないだろう。そんな彼女が、小さなことからでも周りに「できない」と発信することで、新たな選択肢が増え、環境が変わった過程も丁寧につづられている。

 一方、『親の介護を―』は、「同居介護はしない」「介護はその道のプロに任せるべき」という著者の姿勢は当初から一貫している。しかし、著者の母の根強い「夫の介護は妻がやるもの」という意識を変えることは難しい。病に倒れて身動きが取れなくなった両親を助けながら、安易な「自宅介護」が、悲劇を生み出す種になり得ることに警鐘を鳴らす。

 「自分がやらなくては」という精神は一見美徳だが、“火事場の馬鹿力”は永遠には出せない。介護者が疲弊してしまえば、最終的には被介護者も十分なケアを受けられなくなってしまう。被介護者のためにも、持続性のある介護環境を作るために、どのように情報を集め、公共サービスをどのように活用していくか、両作にはその対策がちりばめられている。

 手続きや費用面の解説など、実用的に役立てられる面も多くあるが、両作の一番の魅力は、「要介護」に至る前の段階から、日常生活を送ることが困難になるまでの「老い」の実態の一端が、美化されず、深刻にもなりすぎずに具体的に描かれている点だ。『子育て―』には、身体的には健康で一見何の問題もないように見えるのに、会話に妄想が入り込む「認知症」と向き合う難しさが、『親の介護を―』には、身体的な衰えに加え、好奇心旺盛だった父から「文化」が削がれていくさまがつづられる。

 老化とは、普通にできたことが、まだらに欠けていくこと。本人も自覚しないまま、約束や待ち合わせが守れなくなる。理路整然と会話ができているのに、行きたいところに自力でたどり着けなくなる。それまで好きだった娯楽が楽しめなくなる。予備知識なしに直面すると戸惑ってしまうような、わかりにくい老化を、両者とも時にユーモアを交えながら描写することで、さりげなく読者が「老い」に向き合う心構えをも軽くしてくれる。

 老化は、生きていれば誰もが通過する自然現象だ。さらに言えば、自分もいずれ歩む道でもある。親も、自分自身も、できないことが増えていく中、限られた時間で何ができるのか改めて見直すきっかけにもなるだろう。

 現在進行形で別居介護に直面している人にとっては、心強い友人を得たようなエッセイになっているであろう両作。しかし私は「介護はまだ先の話だから」と、親の老いの兆しと向き合うことそのものも先送りにしている人にも、読んでおくことを勧めたい。ある日突然、「親 介護」「両親 認知症」で検索する必要に迫られる前に。
(保田夏子)

この記事も読まれています

明るく聡明な母で尊敬していたが――「せん妄」で知った母の本心
認知症の母は壊れてなんかいない。本質があらわになっただけ

【介護をめぐる親子・家族模様】シリーズ

最終更新:2019/11/23 17:00
アクセスランキング