ODや病気、交通事故に射殺……悲劇の死を遂げた人気ラッパーを振り返る!

2019/08/12 18:00
堀川樹里

 

3月に殺害されたニップジー・ハスル

 3月31日、カリフォルニア州クレンシャーでラッパーのニップジー・ハスル(享年33)が銃殺された。彼は、アフリカ系アメリカ人の2大ストリートギャングのひとつ「クリップス」を母体とした「ローリン60sネイバーフッド・クリップス」の一員だったが、抗争や暴力、犯罪は推奨せず、平和を愛し、地元の子どもたちのためによりよい未来を築こうと呼びかけてきた男だった。

 ニップジーと同じくカリフォルニア州を拠点に“西海岸”の看板を背負い活動していたラッパーの2パック(享年25)も1996年9月13日、移動中の車内で銃殺されているが、2パックはもともとニューヨーク出身。「西海岸で生まれ育ち、成功してからは地元に恩返ししてくれていたラッパー」が、事もあろうに地元で射殺されたのはニップジーが初めてとなる。そのため西海岸のギャングたちはもちろんのこと、住民たちは彼の死を深く嘆き悲しんでいる。

 2パックとビーフ関係にあったノトーリアス・B.I.G.も、移動中に銃殺された。2人ともまだ20代半ばだったこと、犯人が逃走し今も捕まっていないことから、ラップ界最大の事件だといわれている。

 活躍が期待されていたのに命を落としてしまったラッパーは、ニップジーや2パック、B.I.G.のほかにも、実はたくさんいる。今回は、そんな悲劇の死を遂げたラッパーたちを紹介したい。

オール・ダーティー・バスタード(ODB)

 1968年11月15日、ニューヨークのブルックリンにラッセル・タイロン・ジョーンズとして誕生。すさんだ地区の貧しい家庭に生まれた彼は、いとこのRZAことロバート・ディグス、GZAことゲイリー・グライスと仲が良く、共にラップを聴いたり、カンフー映画を見たりしながら育った。自然な流れで3人は独自のラップスタイルを確立。インペリアル・マスター、オール・トゥギャザーというグループ名で活動を行い、92年、複数人に声をかけ、香港映画『少林寺武者房』(84)にインスパイアされた「ウータン・クラン」というラップグループを結成。デビューアルバムはヒットし、おしゃべり好きでお調子者のODBは、グループの顔となり、多くの人に愛されるようになった。

 「Brooklyn Zoo」「Simmy Shimmy Ya」などのソロ曲もヒットし、95年にはマライア・キャリーの「Fantasy」リミックス盤に客演する。キャリアの成功を収め、金銭的にも余裕が出てきたが、ODBの私生活は荒れていく。6人の女性との間にもうけた13人の子どものうち3人への養育費未払い、配偶者への暴力、DUI(アルコールや薬物の影響下の運転)、コカイン所持、500ドル(約5万5,000円)持っていたにもかかわらず50ドル(約5,500円)のスニーカーを万引した罪などで逮捕。グラミー賞で最優秀楽曲賞を受賞したショーン・コルヴィンの受賞スピーチを妨害する騒ぎも起こした。

 収入が上がるにつれ、飲酒、ドラッグ乱用も増え、99年夏にはリハビリ施設に入所することに。同年9月にソロでのセカンドアルバムを発売するが、数週間後にはクラック(コカインの塊)所持などで逮捕。リハビリ施設入所の判決を受けたが、00年10月に施設から逃亡。11月に逮捕、禁錮2年の判決を受け、刑務所内で骨折するほどのリンチを受けた。あまりにもやりたい放題のODBに愛想を尽かしたウータン・クランのメンバーは、誰一人として面会に行かなかったという。

 03年に保釈され、実家に戻ったODBは、ロッカフェラ・レコードと契約を結ぶ。再起するかと思いきや、04年11月13日にレコーディング・スタジオで突然倒れ、病院に救急搬送されたが帰らぬ人となった。死因は複合薬物の過剰摂取。36歳の誕生日まであと2日だった。

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