【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!

皇族の知られざる素顔――48歳年下の養女に手を出すトンデモ天皇がいた!? 【日本のアウト皇室史】

2019/06/29 17:00
堀江宏樹

“モテにモテた”結果のトンデモ天皇

―――モテた結果のエピソードですか? なんだか不穏な空気が出てきましたね。

堀江 そうですね(笑)。でも、その前に、少し真面目に歴史の中の白河天皇について見てみましょうか。

 平安時代の天皇家といえば、天皇家をもしのぐ権力を手に入れた藤原家に押されがちというイメージがあるかもしれません。しかし平安後期の白河天皇は、相続争いで内部分裂した藤原家から権力と富を皇室に奪い返した帝として有名です。

 白河天皇の思い通りにならないものは「加茂河の水、双六の賽(さい)の目、山法師」の3つだけという言葉が伝えられています。出典は『平家物語』、つまりフィクションですから、確実に言ったという証拠はありません。しかし、これは白河法皇の絶対権力についての「キャッチコピー」として伝統的に使われている言葉なんですね。

 加茂河(現在の鴨川)の水は「自然現象」、双六の賽の目は「運」、そして山法師は当時の大寺院・延暦寺などが雇っていた「僧兵」、つまり僧の姿をした兵士たちを意味しています。僧兵は政治に気に入らないことがある度に、都にやってきて暴れまわるのですが、「天罰」があるので原則、天皇でさえ処罰の命令をくだせません。白河天皇からしたら、実に厄介な存在(笑)!

  さて……白河天皇が退位、上皇になったのが応徳3年(1086年)11月のこと。天皇在位期間は13年でした。ちなみに平安時代(9世紀~12世紀)くらいの天皇の平均在位期間は約12年ほどですので、それより少し長いくらいですね。

―――生前に譲位するのが、この頃は一般的だったのですね。

堀江 はい。この頃は、基本的にそうなります。白河天皇は譲位した後「上皇」となりますが、その後、永長元年(1096年)に出家したので「法皇」を名乗ることになりました。天皇は定員一名だけですが、上皇や法皇は複数存在していてもOKなのです。

 そんな白河法皇には、同い年で長年の友人がいたのですが、それが血縁的には従兄弟にあたる、藤原公実(ふじわらのきんざね)。藤原公実は、藤原家の中でも特に家柄が良く、権力にも近い「閑院流(かんいんりゅう)」とよばれる血筋に生まれました。そして……閑院流には美男美女が多いといわれてきたのです。

―――白河法皇は、イケメンかつ家柄も良い友達と長年つるんできでたわけですね?

堀江 そうそう。藤原公実もとびきりの美男だったこともあり、白河法皇からそれは大事にされてきたといいます。歌人としても、勅撰和歌集に歌が選ばれるほど優秀でした。勅撰和歌集とは、天皇もしくは上皇・法皇の命令によって作られた和歌集です。現在の歌会始めに自作が選ばれる以上のものすごい名誉だったんですね。

―――勅撰和歌集のすごさが、いまいちピンとこない……現代の媒体でたとえるなら?

堀江 そんな……たとえることなんてできません! 大変、名誉なことですし、言葉が悪いかもしれないけど、雑誌や新聞って基本的にすぐに読まれなくなるでしょう。個人で歌集を出版しても同じ。でも、勅撰和歌集に自作が掲載されるということは、歌人として未来永劫、歴史に名前が残るのです。そもそも、皇室が率先して作らせている媒体=勅撰和歌集なので、それに掲載してもらえるなんて「ありがたや~、ありがたや~」と思わずにはいられないでしょ。

 ただ……藤原公実は政治家としてはイマイチなんですけどね。だから、高い地位を彼が守り続けられたのは白河法皇と藤原公実が男色関係にあったからという人も多いですし、僕もそう考えています。

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この時代にマスコミがなくてよかった……
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