妻のためにナプキンを作る男性を描いた映画『パッドマン』を見て、妻のために布ナプキンを洗う男性が限りなくモヤモヤした理由

2018/12/08 20:00

※本記事はネタバレを含むため、ご注意下さい。なおレビューはあくまで「映画の評価」であって、モデルとなったムルガナンダム氏への評価では「一切ない」ことを、強調しておきたく思います。

 妻が茶の間でつけっぱなしにしているムービープラス(映画専門CSチャンネル)から本作『パッドマン 5億人の女性を救った男』の試写会情報が流れるのを見て、思わず目が釘付けになった。

 制作国は、凄惨な集団強姦事件やガオコル(月経期間の女性を隔離された小屋に閉じ込める慣習)など女性の人権問題が取りざたされることの多いインド。そんなインドで、高価な既製品の生理用ナプキンを購入できない愛妻のために、自作でナプキンを作ることに挑戦した男の物語だという。

 これは、「日本中の男は妻の布ナプキンを毎月手洗いしたほうがいい」というちょっぴりラジカルな提言を地味発信している我ら夫婦が観に行かずに誰が観に行くのか!? ということで、くじ運力が半端ではない妻に応募してもらったところ、すんなり当選。試写の機会に恵まれた。

男性が生理に興味を持つのはタブー?
 事情にさほど明るくなくとも、「インドで男性が愛妻のために生理用ナプキンを自作する」という時点で、悪戦苦闘の物語であることは容易に想像できる。けれど、ヤバいこれ絶対号泣するアレやと覚悟しつつ妻と試写室に向かうも、2時間17分の物語に、最後まで号泣することはなかった。全編に渡ってちょいちょい目頭が熱くなるシーンはあったものの、終盤ではむしろ、冷めきった気分になっていた。

 限りなくモヤモヤした気分が、胃の上の方にモッタリと残った。

 物語のあらすじは、書いてしまえば即ネタバレになるほどストレートなもの。

 主人公ラクシュミは、インドの地方村で腕の良い溶接工として慎ましい生活を送る、妻にゾッコンの愛妻夫。そんな彼は、愛する妻が高額な既製品の生理用ナプキンを購入できず、衛生的とは言えない布で代用していることや、そうした衛生管理によって感染症を患ったり命を落とす女性も少なくない事実を知ると、持ち前のクラフトマンシップで身近な素材をかき集めて既製品の模倣=自作ナプキンを作ろうと立ち上がる!

 だがそこは迷信(信仰)厚く女性の人権後進国でもあるインド。ラクシュミの挑戦を阻むのは、妻自身からも家族からも、周囲の村人からも、男女両サイドから叩きつけられる「男が女性の月経に興味を持つことそのものへの猛烈な禁忌感情」だった。

 扱いようのない変質者として、ついには生まれ育った村をも追われるも、それでもめげない不屈の男ラクシュミは、借金を重ねつつも独学で「素材の選択、加工方法、滅菌処理」を学び、安価で安全で清潔なオーガニックナプキン(セルロース吸収体の)を作るハンドメイドの製造機の完成にまで漕ぎ着ける。

 そして、偶然にも知り合った巡業公演をする女性ミュージシャンであるパリーに完成品を使ってもらう機会に恵まれたことで、ラクシュミの挑戦は加速する。製造機はインド国内の発明コンペにて優勝。さらに彼はその技術を特許として大手企業に売り渡すビジネス展開を頑なに拒否し、パリーとともにインド中にこの製造機を配り回ると同時に、機械の操作技術を地域の女性たちに指導することで、「女性が作る女性のためのナプキン製造事業」として広めていくのであった。

 当然尊重されるべき女性の生理の衛生と健康と、女性の雇用をも両立する。それがラクシュミの挑戦の終着点だったのだ。

生理は穢れではないと知った女性たち
 長い作品中、いくつも胸に迫るシーンはあった。初めて主人公が作った試作品を妻に渡した時の、恥じらいとはにかみと感動の入り交じった妻の表情。月経中は5日間居室に入ることを禁じられる、インドの女性が置かれた立場(ガオコルとは別の慣習か)の描写や、夫に「奇行をやめて欲しい」「女にとって恥は死ぬことよりつらい」と懇願する妻の涙には、植え付けられた月経の穢れ意識の深さに溜息が出た。

 一方で、初潮を迎えた少女を集落の女性皆で祝い踊るシーンは、女性の人権が尊重されない理不尽な社会だからこそ生き残っている女性の互助社会の力強さに、その美しく暖かく、晴れやかで、慈しみ合いに満ちた空気に、純粋に胸を打たれた(この集団の中にいたらうちの妻は排斥される勢だな、とか思いつつも)。

 最大の見どころはなんといっても、パリーをパートナーにインド各地の村々で製造機を普及させていくシーンだ。旧弊な禁忌感情と抑圧の中にあった女性たちが、自らをケアする尊厳を初めて獲得し、仕事の誇りにも目を輝かす。宗教的な戒律や月経の穢れ感情から解放されていく女性たちの笑顔、笑顔、笑顔! ひとつひとつの輝く笑顔が、それまでの彼女らの尊厳を奪っていた抑圧の大きさを改めて感じさせて、全ての笑顔に涙がこみ上げた。

 けれど、残念なのは、そこから繋がる作品のクライマックスでは、胸一杯の感動をモヤモヤした気持ちが一気に浸食し、すっと涙が引いた。

 クライマックスの舞台は、それまでの舞台であるインドを遠く離れた、ニューヨークの国連本部だ。ラクシュミとパリーの挑んだ、女性を救う製品の普及と女性の雇用創出を両立させた事業は、国際的な評価を受け、ついにラクシュミは国連の招聘を受ける。

 このシーンに一気に冷めた理由は、ニューヨークの街を睥睨する国際連合本部ビルのホール(ロケ地はモノホンの国連本部)でラクシュミの振るった熱い演説が、この物語のテーマとメッセージにも関わらず、あまりにも「男性的」であったことだ。

「俺様節」のサクセスストーリー
 要約するとそれは、こんなものだった。

<教育も資本もない、英語すらたどたどしいインドの地方から立ち上がった男が、お金稼ぎではなく人のためになる社会事業に情熱を貫いた結果、いまこうして世界のど真ん中で演説をしています!>(どや!!)

 長回しで俺様俺様を繰り返すその演説に、ホールの聴講者はスタンディングオベーション。この瞬間、せっかくの物語は「不屈のマッチョ魂を持った男の成り上がりサクセスストーリー」に、一気に貶められてしまった。非常に男性的で、ある意味アメリカ映画的な「俺様節」……。

 そして物語は、国際的な評価を受けたラクシュミを、彼を変質者として排斥した村の人々が手のひらを返したように地元の英雄として讃え、「おまえはやる奴だと思ってたよ」系の花びらが舞う中を晴れやかな顔でラクシュミが凱旋して、大団円を迎える。おまけのようにして、互いに恋心の芽生えたパリーをポイして、愛妻の元に戻る主人公の描写である(溜息)。

 本作は実話を元にした物語であり、モデルになったムルガナンダム氏は2014年米国タイム誌の『世界で最も影響のある100人』に選出されてもいる成功者だ。彼の偉業は、間違いなく称えられるべきものだと思う。

 けれども映画として、主人公ラクシュミに演説して欲しかったのは、いかにインドの、そして世界中の女性が、月経の禁忌感情に呪われ、それを解放することがいかに重要なのかという根源的なテーマだ。

 世界の人口の半数である女性の多くが、自らの生理現象を理不尽に封じ込められている状況に疑義を投げかける演説こそ、この物語に欲しかったものだ。

 いやいっそのこと、氏の受けた国際的評価は「後日談」程度のものとして、映画内では終盤にオムニバス的に短いカットで描写された、各地域での製造機の普及活動と、そこに存在した女性たちが自らに刷り込まれた禁忌感情を解放していく物語にこそ、焦点を置いてほしかった。

 女性が「自分自身のことを大切にしていいんだよ」という、当たり前のことを許されたときに溢れた笑顔を物語の骨子として描いてくれたなら、多分ハンカチではなくタオルが必要な作品になったに違いないのに……。

ことさらに「世界の中心アメリカのさらに中心の街を睥睨するホールで演説する、ゼロから立ち上がった男!」を強調するマチズモ全開の場面に、冷え冷えした気持ちでそんなことを考えた。

「布ナプも俺が洗おうか」
 いやはや我ながら見事な酷評ネタバレレビューだが、これが号泣覚悟で挑んだ本作が全然泣けなくて、全然感動できなかった理由だ。

 もちろんこんな感想は、あくまで色々と激しく拗らせている僕に限られたものかもしれない。試写会などを観た視聴者からはおおむね良好な感想が上がっている模様でもある。けれども、どうにもやっぱり大いに腑に落ちないので、少々パーソナルな話を交えつつ、引っかかる部分に突っ込まさせていただきたい。

 そもそも本記事冒頭にリンクしたように、僕は毎月妻の経血に手を染めながら、妻の使った布ナプキンの手洗いをしている。こんなことをするようになってからまだ一年だが、リンク記事もたいがい長いので経緯を要約すると、きっかけは生理中の身体不調やPMSが激しくて家事の手伝い(我が家では妻の発達障害特性や健康上の問題があって全家事の主体が僕で、妻は補佐役)ができなくなってしまう妻に、「布ナプも俺が洗おうか」と思い付きで提案をしたのがきっかけだった。

 普段から洗濯一切を僕に任せている(畳んで仕舞うのは妻担当)妻はそれまで、布ナプキンだけは自分自身で洗っていたのだが、「僕が洗おうか?」の提案をした時の妻の表情ばかりは、多分一生忘れることがないと思う。その表情は、パッドマン、ラクシュミの妻が夫のお手製ナプキンを渡された時の比ではなかった。

 基本的に「全家事の主体が夫の僕」でも大してありがたい顔もしない妻が、この時ばかりはそれまで見たこともないような心底から感謝の表情で「ありがとう」と言ったのだ。

 そして、滅多に見せない妻の真摯な感謝の表情に、僕が発した問いが「生理とインフルエンザだったらどっちが辛い?」 続く妻の即答は「生理の方が辛い」(ガチ真顔)だった。

 凄まじいスケールの慙愧の念が僕を襲った。

 家事全般の主体であり稼ぎ手でもある「立派な夫ヅラ」していた僕は、見事に糞夫であった。

生理のつらさを口にできない日本
 旅行とかイベントとかのタイミングで生理が始まった妻に「なんでこのタイミングで」と不機嫌な声を出したことは数限りなくあった。薬局で生理用品を買う時に、値段の高さをボヤいたときもあったし、紙ナプキンによる痒みや経血量の問題から布ナプキンに移行した際にも「どうしてそんなに高いの?」と不平を漏らした。

 生理期間中にベッドから起きて来れない妻を、トイレを出た廊下で力尽きて横たわっている妻を、冷たい目で見下した僕は、同棲から結婚を経て20年近くに渡って、毎月数日「インフルエンザよりつらい症状になる」妻を、ケアしてこなかったのだ。

 ということで、そんな己が激しい自省を記事にして寄稿した際の女性読者の反応も、また忘れえない。同じく生理痛やPMSが深刻にもかかわらず周囲から理解されない女性たちの切々たる訴えや、婦人科にかかるなど八方手を尽くしてなおインフルエンザよりつらいという我が妻より「さらにつらい」の訴えの数々。
それ以上に何より平常心ではいられなかったのは、「記事を読んだら、なんでか分からないけど涙が出た」という、複数の読者からの感想だった。

 全日本の糞夫を代表して土下座したい気分になった。他人のご家庭で四十路のオッサン夫が妻の布ナプキンを洗っているという記事を読んで、「涙が出る」。それはその女性が、それほどに抱えた苦しさを無視され、配慮されることがなかったということ。そしてさらに我が妻と同様に、その辛さを口にすることを、社会から、家庭から、親から、教育から、あらゆる場面で「封じられ、抑圧されてきた」からこそ、零れた涙なのだと思う。

 どうだろう。本作パッドマンに描かれるのは、結果として「月経時の衛生面の担保」に過ぎない。けれども、ことさら宗教的禁忌や慣習に縛られるでもないこの日本で、この映画を見た視聴者が「凄い男もいたもんだなー」で終わらされて堪るか!というのが、本作を見ての本音の評価なのだ。

 そもそも、衛生面が担保されれば、それで女性が月経から自由になったなんて思われたら堪らない。

 インドを始め女性の人権後進国は大変だなあ、というのも、耐え難い感想だ。生理の重い女性のケアは、日本においてもまったくされていないし、そういう意味で言えば女性の人権先進国なんか世界中のどこにも存在しそうにない。日本でもまだまだ、「女性は生理であっても仕事をし、家事をし、育児をし、その辛さを表情に出さず、いつも通りでいるべきだ」という理屈はまかり通り、ジェンダー的役割の中に「生理による心身の影響を我慢して、平然といつも通りに動く」ことが組み込まれている。

上映中に笑いが起きたシーン
 けれども、少なくともパートナーの生理について配慮しその期間を支えるということならば、日本中のすべてのカップル、すべての夫婦が、来月からでも始められること。女性の月経への配慮をそこにまで昇華せず、女性の人権後進国の「男のサクセスストーリー」として描くにとどまった本作は、やっぱりどんなに頑張っても評価の対象にすらならないのだ。

 唯一本作に評価が与えられるなら、本作を観た視聴者が「どう感じるか」が、ほんとうに世界中の女性が置かれている「月経にまつわる理不尽」をどう思うかの、バロメーターになるという一点のみにおいてだろう。

 作品冒頭、薬局で妻のために既製品の紙ナプキンを購入しようとする主人公ラクシュミに、薬局の主人が密売品を売り渡すようにこっそりと渡すシーンに、試写会の会場では笑いが起きた。日本の薬局でも生理用品をわざわざ不透明な袋に入れて不可視化することにいちいち苛立ちを感じている勢としては、「そこはイラっとくるか呆れて溜息のシーンだろ!」と血圧が上がったが、笑い声の主は中年女性のグループだった。

 妻は試写会後の女子トイレで「自分の夫がアレだったら気持ち悪いわ」という女性の声を聞いて、眉毛をハの字(ヤンキー的な)にして出てきた。

「これじゃインドと変わんねーよ」(妻)

 この作品をどう思うのか、ジェンダー意識のリトマス試験紙として、劇場にて確認してみてほしい。

(鈴木大介)

最終更新:2018/12/08 20:00
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