【連載】別れた夫にわが子を会わせる?

「病人なのに見捨てちゃいけない」離婚後、脳梗塞で車椅子生活となった元夫との関わり

2018/11/08 15:00

離婚なんかすべきじゃなかった

――娘さん2人を嫁がせた後は、どうされたんですか?

 結婚して1年ぐらいたってから、長女と次女がそれぞれ、交互に子どもを産み始めました。姉妹は仲が良かった。それに子どもたち同士の交流もあったので、主人の家に子どもを連れて長女が行くこともありました。長女と次女の子どもたちはすごく仲が良くて、ほとんど兄弟姉妹のような関係です。

 主人は、生きたいという執着がすごく強かった。必死になってリハビリをして、膝を曲げてすり足で、不自由ながらもなんとか歩く練習を家の中でしていました。孫たちは、足を引きずって歩く主人の後ろについて、歩き方をまねしながら歩いてましたね。今では、孫が7人います。

――ご主人は、今もご健在なんですか?

 3.11の後までは生きました。つまり、倒れてから20年後に亡くなったんです。お葬式は、私が次女と一緒に出しました。主人が残した財産については、すべて行き先が決まっていました。というのも、食堂の土地の名義が次女の名前になっていて、振込先とかそういうものも含めて、すべて次女のものになってたんですよ。それが約1,000万円分あったのかな。いわゆる生前贈与ってやつでしょうか。そこにもやはり長女の名前は一切なかったです。

――とするとご主人は結局、ありもしない元妻の浮気を本当のことだと信じ切って、長女は自分の子ではないと思い続けて亡くなったんですね。なぜ何も確かめずにそこまで思い込んで亡くなっていったのかが、これまで話を伺っていて、わからないままです。

 実は別れる前から、精神科の先生に相談はしていたんです。するとはっきりとした病名はつけられなかったけど、こうしたこだわりは治らないと。「本来なら患者側の立場に立つべきだけど、奥さん、これは別れたほうがいいよ」と言われたんです。私も相当、ひどい目に遭ってきてこりごりでしたから、別れました。彼は病気だったというだけです。だから、恨みはまったくないです。結婚はすぐにできるけど、離婚は簡単にはできません。子どもが生まれたわけだし、子どもたちには何の責任もないわけです。本当だったら、離婚なんかすべきじゃなかったですね。

――今は、どんな生活をされてるんですか?

 看護師をしています。具体的に言うと、病院で勤務したり、デイサービスの仕事をしたり。年金ももらってますよ。主人は必死になってリハビリをしたりして、生きることに執着していましたが、私はそんなに長生きしたいとは思いません。そこは仏様の判断に任せたいです。

***
 離婚をすると、多くの場合、母親に親権が行き、生活が不安定で貧しいながらも母子家庭で暮らしていく。その一方で、元夫は孤独感に耐えながら元妻に頭を下げ、子どもにはたまにしか会えない。そのような現在の一般的な離婚後の元夫婦の姿が、かつては違っていたということがよくわかった。

 当時はまだDVという言葉もなく、面会交流という言葉もなかった。どちらに生活力があるかという、いわば現実的な判断に任されていた。それは、家制度を守るという意味もあったのかもしれない。それと同時に、女性の権利が認められていなかったともいえるのだろう。私感では、双方の権利が認められるべきと考えている。子どもからすれば、どちらかしか親を選べないというのは、酷なことだからだ。

 今回お話しいただいた方は、持ち前の粘りと力強さによって、子どもを育て上げた。その力強さと、仏教的な考えがバックグラウンドとなっての慈悲深い心があったからこそ、ひどい仕打ちを受けた元夫の面倒を見られたのだろう。しかし、これはなかなかできることではない。今後、彼女やお子さんたち、そしてお孫さんたちの健やかな生活を願っている。

西牟田靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『〈日本國〉から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

最終更新:2018/11/10 11:47
わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち
長女が可哀想すぎる
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