【連載】別れた夫にわが子を会わせる?

「病人なのに見捨てちゃいけない」離婚後、脳梗塞で車椅子生活となった元夫との関わり

2018/11/08 15:00

3年かかって離婚、面会は子どもの意思を尊重

――その頃、離婚は成立していたんですか?

 いいえ、まだです。というのも、調停が終わらなかったんです。昭和51年に別居して、離婚調停が始まりました。ところが不調に終わったため、裁判に移行して和解しました。それが3年後の昭和54年でした。「両親で子どもを養育する義務がある」ということで、養育費は父母に課せられました。子どもが2人の場合は、父親が3万円、母親が3万円、というような感じです。ですから私は主人の養育費負担分の3万円を毎月、受け取っていました。

――当時の家庭裁判所はどんな感じだったんですか?

 今から40年以上前、裁判では親権は夫側に認められるほうが多かったかな。生活費があって育てられるほうに親権を認める傾向がありました。ただ私の案件を担当してくれた裁判官は、生活費のことだけではなく、どちらの親が親権者として相応しいかを総合的かつ冷静に見てくれました。実生活に関しては、病院で働きだしてから2年後に、看護婦の資格を得て、それ以来は同じ病院でずっと働きました。途中、子どもたち2人と住むための家も建てました。

――別れた後、元の夫に子どもを会わせるようなことはあったのでしょうか? 当時だと離婚=親子の別れ、と捉え、会わないのが普通という傾向が今よりもさらに強かったのでは?

 ほかの家はそうかもしれませんが、少なくとも私は、子どもたちの意思を尊重しました。だけど、子どもたちが会いに行くかどうかは別。というのも、長女は浮気してできた子どもだと主人に思われて、勝手に疎まれてたんです。後で長女本人が言っていましたね。「妹と全然対応が違っていた」って。そうした苦い経験から、長女は決して会いに行くことがなかった。

 一方、次女は、ちょくちょく会いに行っていたようです。父親に対しての愛情も次女は持っていて、彼女が20歳になったとき、「お父さんがひとりでかわいそうだから、私一緒に住んであげるの」。そう言って私の元から離れてきました。成人していたから、そこでもまた本人の意思を尊重しました。

――下の娘さんのほうが自発的に、父親のところへ戻っていったんですね。

 それから数年後に、長女と次女が立て続けに結婚しました。主人は長女の結婚式には出ませんでしたが、次女の結婚式には「お前は出るな」と言ってきてモメめました。ところがそんな折、主人が50代後半に脳梗塞で倒れて、車椅子生活になりました。平成に入って間もなくの頃ですか。そのとき私、主人に対して「病人なのに、見捨てちゃいけない。この人は、私への嫉妬心はあるけど、それ以外はすごくまっとうな人なんだから」と思いました。私がそんなふうに思うのは、私がお寺出身だからなんでしょうか。個人的な恨みよりも慈悲の心を大事にし、世の中を平たく見る癖がついているということかもしれません。

――下の娘さんの結婚式は、どうなったんですか?

 普段、同居して世話をしている次女の代わりに、私がずっと結婚式で主人に付き添いました。それで復縁しようとか、また愛情が芽生えたかですって? とんでもない。ただ人として、やっぱり看てあげないとって思ったんですよ。そうした考えなのは先ほども申し上げたように、私がお寺の育ちだからかもしれませんが。結婚式を挙げた後は、次女が中心になって、私も時々加わりながら、主人の世話をするようになりました。だけど、長女だけは加わらなかったですよ。

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