【連載】別れた夫にわが子を会わせる?

「病人なのに見捨てちゃいけない」離婚後、脳梗塞で車椅子生活となった元夫との関わり

2018/11/08 15:00

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第19回佐々木久美子さん(仮名・70代後半)の話(後編)

 高校卒業後、ラジオの真空管の工場で働いていたが、通勤電車で知り合った市場勤務の男性と昭和40年代初めに恋愛結婚。2人の娘を授かり、仲良く暮らしていたが、突然夫が仕事を辞め、夫婦で食堂を始めることになった。しばらくはうまくいっていたが、浮気を疑いだした夫の嫉妬がひどくなり、食堂の経営にも支障が出るようになったため、家を出た。

前編はこちら:昭和40年代、DV・モラハラという言葉がなかった時代の「夫からの恫喝と暴力」の悲劇

■小学生の娘を置いて家を出た

――別居したのが42年前とのことですが、とすると1976(昭和51)年ですね。別居するとき、2人の娘さんは、どうされたのですか?

 家を出るとき、連れていこうと思っていました。ところが「子どもは置いてけ!」と、また怒鳴られてしまって。怖くなって、1人で家を出てしまったんです。

――とすると、その時点ではシングルマザーではないですよね。その後、どういった経緯で娘さんたちを育てることになったんですか?

 実は1週間後に、子どもたちと一緒に住むことになったんです。私はそのとき一番上の兄が継いでいたこのお寺に一時的に滞在していて、ちょうどその頃、子どもたちは夏休み。娘は8歳と9歳の小学生だったんです。

――娘さんたちは、どうやってお寺へ来ることになったんですか? 普通に考えると、警戒され、家から出してもらえないんじゃないかと思うんですが。

 主人はその頃、私がいなくても店を切り盛りできるようになっていました。料理は作れるし、仕入れとか、計算とかも1人でできた。娘たちは主人が食材の仕入れに出た隙を見計らって、2人でこのお寺までやってきたんです。このお寺のことは、以前にも連れてきたことがあったので覚えていたんですね。

 もちろんその日のうちに、主人は気がついたはずです。このお寺の場所も知っているから、それこそ私たちを殺しに来るんじゃないかって怯えました。結局、来なかったですけど。でも、お寺にいると、親族の好意に気を使ってしまうでしょ? だから、どうも居心地がよくなかった。そうした事情から、1カ月ほどで出ていきました。

――次は、どこで暮らしたんですか?

 学生時代の恩師の家です。恩師は病気を患い、体が不自由になっていました。身の回りの世話をするという条件で、子ども2人と共に住まわせてもらうことになりました。結局そこには2年半住んだのかな。その恩師が亡くなったから、また引っ越しです。

――そしてまた別のところに、娘さんたちと共に引っ越しをされたと。

 働いて子どもたちを育てていかなければならない。そこで、寮のある病院で働き始めました。昭和55年のことです。親子で寮に暮らしながら、私は日中、看護婦(看護師)見習いとして働き、夜は看護学校に通いました。学校を2年かかかって卒業して資格を取って、正規の看護婦になりました。

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