昔話の女たちは、バチバチにキレていた——『日本のヤバい女の子』はらだ有彩さんインタビュー

2018/07/05 20:00

今年5月、初の単著である『日本のヤバい女の子』(柏書房)を刊行されたはらだ有彩さん。浦島太郎の乙姫や虫愛づる姫君、道成寺の清姫にイザナミといった、昔話に登場する女の子たちを取り上げた新感覚のエッセイとして、今話題を呼んでいます。

彼女たちはみんな怖い。残酷だったり気まぐれだったり横暴だったり見た目が整っていなかったり、とてもじゃないけれど“よい女の子”とは言えない人たちばかり。「女性は淑やかで従順であるべき」「か弱く、男性より劣った守られる存在であるべき」「男性のために見た目に気を配るべき」……今も昔も“女”に課せられるレギュレーションを、次々にぶち壊していきます。『日本のヤバい女の子』は、彼女たちの「ちょっと聞いてくれる?」に耳を傾け、想像を巡らせ、「今の時代にもこんなヤバいことがあってさぁ」と文句を言い合い、慰め合い、そして涙を拭きながら励まし合っていくような一冊です。

昔話の世界に見る「風潮に流される」ことの恐ろしさ、現代において矮小化される女性の怒り、苦しさを抱えて現実を生きる私たちに、物語がくれるもの。また著者はなぜ、昔話を今の時代に新しく語り継ぐのか。“ヤバい女の子”たちの究極の女友達であり、永い時間の流れに思いを馳せるストーリーテラーであるはらださんに、お話を伺いました。

“男が女に助けられる=恥”という風潮
——『日本のヤバい女の子』は古くから伝わる民話や伝承のエピソードを参照しつつ、そこに現れる女の子たちを単なる登場人物ではなく、血の通った一人の人間として描いています。さまざまな役割を負わされつつ、その枠組みを破壊していく彼女たちの姿にシンパシーを感じる読者も多いと思いますが、なぜ昔話を題材にされたのでしょうか。

はらだ:大学を卒業して社会に出てから、「ままならないなぁ」と感じることがたくさんあって。たとえば会社でのハラスメントとか、それまで言葉や対話で解決できると思っていたことが全然通用しなくて、周りも特に疑問を持っていない、みたいなこと。でもそういうのって時代が進むにつれて改善されてきているから、今はたぶん歴史の中で一番マシな状態のはずだと思ったんですよね。そうしたら「今でさえこんな感じなのに、昔の人って大丈夫だったん!?」って心配になってきちゃって……。昔話を読んで調べてみることにしたんですけど、案の定大丈夫じゃなかった。

——この本は、鎌倉時代の夫婦の逸話「おかめ伝説」から始まっています。大工の夫・高次が犯した失敗を優れた助言でリカバーしたおかめは、しかし「女の助言で仕事を成功させたなんて知られたら、夫の名誉に傷がつく」と自害をしてしまう。これは“男が女に助けられる=恥”という当時の風潮によるものですが、今の時代では考えられないことですよね。だけど現代においても、理不尽な風潮というものは確かに存在する。

はらだ:おかめの話を読んだとき、本当に「なんで!?」って思ったんですよね。でも私自身、ごく最近までそういう風潮みたいなものに流されまくりだったところもあって。それこそ“大学を出たら就職するもの”って思って就職をしていたし、ブラック企業で結構ひどい目に遭ったにも関わらず“就職したら三年は働くもの”って思い込んでそのまま働き続けていた。別に嫌ならさっさとやめればいいし、誰もそうしなきゃいけないなんて言っていないのに、疑うことをまったくしてこなかったんです。26歳くらいになってようやく自我というものに目覚めた、みたいな感じで……。「今まで信じてたのは何だったんや!?」ってなって、仕事もやめて、これまでなんとなく従ってきたものに反抗しようと思って文章を書き始めました。

——明らかに理にかなっていないことでもなぜか固定された価値観としてあって、しかも当事者もそれを知らぬ間に内面化している、ということがありますよね。夫の窮地を機転で救えるほど聡明な女性だったおかめでさえ、歪な価値観を飲み込んで自害してしまった。だけど高次は妻に助けられたことを本当に恥だと思っていたのか。“世間は”じゃなく“高次は”どう感じるのかを確かめられていたら、と歯がゆい気持ちになりました。

はらだ:高次はきっと風潮に従うよりも、おかめが生きていてくれる方を望んだはず。じゃなかったら、妻がああいう形で死んでしまったことを後世に残る形で語ったりしないですよね。それでもおかめが「高次に恥をかかせたくない」って思い詰めて自害してしまうくらいには、“女に仕事を助けられるのは恥”って感覚がみんなの中に浸透していたんだと思います。でも後世の、社会の風潮が変わった後の私たちから見たら本当にやりきれない。今だったらありえないし、じゃあ彼女の死ってなんだったんだろうってなる。だから「今みんながそうだから」という理由で何かをするっていうのは、すごく怖いことだなって思います。

「この風潮はおかしい」と書き記した人がいた
——昔の“そういうもの”が今では“ありえない”になるように、時代が移り変わるにつれて、人々の間にある価値観も少しずつ更新されています。ですが逆に「これは昔の方がマシだったな」ということはありましたか。

はらだ:昔話を読んでいると、女性が“人ならざる力”みたいなものを持っている存在で「怒らせると大変なことになる」っていう描かれ方をされているんです。それはすごくいいなって思いました。能面において、鬼になったときに角が生えるのは基本的には女の人の面だけらしいんですけど、強大な力を発揮したり、何か別の存在に変化したりする力があるものとしてみんなが認識しているわけですよね。たとえば道成寺に伝わる『安珍・清姫伝説』の清姫は、自分を騙した男を大蛇に化けて焼き殺すし、『鬼神のお松』は夫を亡くし、知人の男に裏切られた怒りと悲しみで復讐の鬼になる。「どうせ何もできやしないだろう」という認識によるキャラクター設定ではなくて、最終兵器を持っている存在としてそこにいるのがよかった。

——今の日本って女性の怒りというものが矮小化されているというか、「女は何があってもじっと耐え忍ぶべき」とか、「女の怒りはただのヒステリーで、取るに足らないもの」というような認識が広くあるように感じます。

はらだ:「保育園落ちた日本死ね」って、ありましたよね。あれを釣りだと思ってる人、おそらく男性っぽいアカウントが、インターネットに一定数いたんです。「女性がそんな乱暴な言い方するわけないだろう。これは釣り、俺には分かる」みたいな感じで。「いやいやいや、あるでしょ!?」って思ったんですけど。昔話にはバチバチにキレてすべてを破壊し尽くす乱暴な女性がたくさん登場するので、それがどうして消滅していったのかが分からない。

——一方で「女は怖い」ふうの言説も存在するけれど、それはそれで“女の敵は女”系の、男性たちが掌握できて、笑って許せたり面白がれたりするものでしかない気がします。

はらだ:「想像できる範囲の怒りでしかないだろう」という感じはあるかもしれないです。この間も「日本のヤバい女の子」のweb連載で書いたんですけど、能に『竹生島』っていう演目があって、そこは弁財天、つまり女の神様が司ってる島だから、女の人は入ってはいけないっていう決まりになっている。お参りにきた男性二人が、地元の漁師と一緒にいた女性の船に乗せてもらって島に行くんですけど、さあ上陸しましょうっていうときにその女性も一緒に入ろうとするので、「ここは女人禁制だけど大丈夫? 神様が怒らない?」と尋ねたら、「いや、そんなんまったく怒りませんけど」って答える。実はその女性こそが弁財天の化身だったんです。周囲は“女の敵は女”みたいに勝手に決めつけているけど、実際にそんなことはないのにねっていう話なんですよ。

——かなり進んだ考えが導入されていますね。

はらだ:「能の演目が作られた当時にその概念がすでに存在していたんだ、どこかに『みんなこう言ってるけど、なんかおかしいんじゃないか』って思って書き記した人がいたんだ」ってびっくりして。ちょっと元気が出ますよね。にも関わらず、その学びが現代に全然引き継がれていない。そういうのも興味深いし、不思議だなって思います。

「“女の子”という言葉が示す意味そのものが変化していけばいい」
——本に登場するヤバい女の子たちは、“女らしさ”のレギュレーションを次々に破壊していくヒーロー/ヒロインのようにも思えます。表現の世界で見られるヒロイン像も、たとえば“戦うヒロイン”の登場のように、男性から守られるお姫様的なものから、自力で戦うヒーロー的なものへと変遷が見られますが、そうした女の子たちについてどう感じられていますか。

はらだ:女性がヒーロー化するときって、必ずと言っていいほどドレスアップしますよね。『美少女戦士セーラームーン』もそうだし『プリキュア』シリーズとかも。『プリキュア』は女の子が肉弾戦をするという点ではたしかにエポックメイキングだけど、ドレスアップもするし、服飾とかお菓子とかの“女の子らしさ”と紐付けされたものと結びつけられるから不思議だなと思っていて。だけど歴史の中ではドレスアップ=着飾ること自体が男性の目を惹くという要素と密接に関わっていた瞬間もあったわけで、それと切り離されたヒロインっていないのかな、と考えたりもします。

——ディズニー映画に登場するプリンセスも、ヒロイン像の変遷する例としてしばしば取り上げられますね。

はらだ:プリンセス像が変化していくこと自体はいいことだと思います。だけど各々の“プリンセス像”が変化する反面、“プリンセス”という外枠のイメージは変わっていない気がするんですよね。「プリンセスみたいになりたい」って言うのと、「『アナと雪の女王』のプリンセスみたいに主体性を持ちたい」っていうのとは必ずしも一致しない人はあんまりいないんじゃないかな。しかも「女の子なら誰でも憧れるもの」みたいに表現したりするじゃないですか。

——たしかに、言葉が指す意味自体はアップデートされていない。“女の子”のイメージもそうですね。今も昔も“ヤバい女の子”はたくさんいるのに、“女の子”と聞くとなんとなく可憐なものが想像されてしまう。

はらだ:実は一人一人はちょっとずつ変化しているんだけど、それに私たちがついていけていなくて、古典的なイメージのままだったりするんじゃないかなって。アップデートされていないし、ダイバーシティに対応していない感じですよね。だから“プリンセス”や“女の子”という言葉の意味も、将来的に一緒に変化していったらいいなと思います。じゃあ何でタイトルで「女の子」と使っているのかというと、昔、あるメーカーさんで総合職の男性たちが一般職の事務の人たちのことを「女の子」という総称で呼んでいるのを見て、そりゃ確かにほとんど女性なんだけど、うーん…となったことがあって。「女の子」にもっと親愛の意味を込め直したかった、というのがあります。「女」「女性」「女の人」よりも近い、友達の感覚で使っています。

——はらださんが表現をされるとき、一番気を遣われているのはどういうところですか?

はらだ:私は「ニュートラルだとみせかけて実は根底が偏ってる」っていうのが一番ださいと思っています。たとえば「美人とかブスという指針を日常に持ち込むべきではない」という話をしているときに「そうそう、女の子はみんな可愛いんだから」って発言があったとしたら、それは大きな問題じゃないですか。「そもそも可愛くなくても問題ないはずだ」っていうふうに、できるだけ真理に近づいた状態で話をしたいと思っていて。

——フラットな状態で表現をするために、どういったプロセスを踏まれているのでしょうか。

はらだ:結局のところ他人のことは分からないから、なるべく私のジャッジを入れない、断言をしないようにしています。あとは自分で自分の間違いを注意するのは無理だから、信頼できると思う人を勝手に心の中に呼び寄せてみて、「この人だったらどう思うかな」って想像するようにする。たとえば私の母はゴリゴリのフェミニストなんですけど、口寄せみたいな感じで呼んでみて、できるだけ余計なことで苛立ちを感じさせたり、悲しませたりしないようにしようって思っています。

『日本のヤバい女の子』(柏書房)
「今生だけでは時間が足りないから」
——『日本のヤバい女の子』は、現代で生きづらさを抱える人たちを優しくお茶に誘い、心をすくい上げてくれるような本だと感じます。読者を苦しさから助け出したいという意識はありますか。

はらだ:助け出せるかどうかは、正直分からないです。自分にできることって限られていると思うから。たとえば身近に同性のカップルがいて、「結婚したいけどできないんだよね」という相談をされたとしても、私がすぐに解決してあげられることってたぶんないんですよ。そういうときに、ちょっと喋って楽になってもらう、みたいなことが本を通してできたらいいなと思って。

『馬娘婚姻譚』という話には、馬を愛して結婚したけれど、父親の手で馬を殺されてしまった女の子が出てくるんですけど、悲しみに暮れた彼女は馬の首とともに天に昇って、オシラサマと呼ばれる神となるんです、みたいな話をして、実際には無理なんだけど「そういう話もあるんだな」「最悪宙に消えればいいか」ってちょっと楽になってもらえたらいいなって思ってて。私はただ、「私やあなたのほかにも、同じ目に遭ってる人がいたんだよ」っていうことを書き残しておきたかったんです。それを読んでくれた人たちが「じゃあ私もこうしてみよう」、「状況は変わらないけどこう思う」とか、「いっそ状況を変えてみよう」とか、結果として思ってくれたらいいなって。

——本の序文には「私たちが昔話になる日を夢見て」というタイトルがつけられていますが、はらださんの文章からは、伝承を語り継ぐ流れに連なるような、後世に資料を残していくような印象を受けます。

はらだ:たぶんすでに社会にある問題を一つ残らず完璧に改善するには、今生だけでは時間が足りないので、「ちょっと間に合わなかったけど、あとよろしく!」みたいな感じで次の世代の人に引き継ぎをしたいという気持ちはあります。たぶんあと70年くらいしたら私たちって死んでいるし、この瞬間に生まれた人でもあと100年くらいしたら死ぬじゃないですか。連綿と人類というものが続いていくなかで、自分の思ったことを誰かに伝えて、それでまたそれが伝わって……って続いていく。

——はらださんの視点は、遠い時代の女の子たち一人一人の感情に寄り添う女友達のようでもあり、悠久の時の流れを見せてくれるストーリーテラーのようでもあり、私たちの身近なところにも、もっと遠い時代にも希望を示してくれるものだと感じました。

はらだ:もちろん「明日会社に行ったら絶対あの上司がいらんこと言ってくるわ」っていうことはあるけど、歴史上でみんな繋がっていて、長い目で見てちょっとずつよくなっていくのかなって思うことで救われることもあるなって思うんです。今の視点ともっと広くて高い視点をいったりきたりしながら、なんとか暮らしていきたい。時間が経って癒されることもあれば、癒されないこともあると思うんですけど、長い時間の中でいろんな人たちの物語と混ざり合って、最後にはよかったって思えるように暮せたらいいな。
(聞き手・構成/餅井アンナ)

最終更新:2018/07/05 20:00
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