女装に見えてしまう生田斗真演じる「女より女らしい」トランス女性 『彼らが本気で編むときは、』は教育推奨作品にふさわしい?

2017/03/17 20:00

荻上直子が監督・脚本を担当する『彼らが本気で編むときは、』は、ジャニーズの人気俳優・生田斗真が、MtF(Male to Female:男性として生まれながら女性化する)トランスジェンダー(以下トランス女性とする)を演じることでも話題になっている。

◎よそよそしいほど「女より女らしい」リンコ
映画は、母親が突然家から出て行ってしまった小学生のトモが、トランス女性のリンコと同居するマキオの元に訪れたところからはじまり、三人の生活が描かれる。

これまでトランス女性は、水商売・風俗業に就く「ニューハーフ」か、あるいはゲイ、女装の男性といっしょくたにされた「オネエ」と呼ばれるタレント業としてメディアに登場する場合がほとんどだ。そういう観点から考えると、介護施設といういわゆる一般的な職業に就き、人生を共にしようとするパートナーと暮らす、隣家に住んでいてもおかしくない、なんでもない生活を送るひとりの人間としてトランス女性像を描こうとした、その志は評価されるに値するだろう。

しかし、実際に鑑賞すると、本作が「トランス女性を描いた映画」として世にはびこることへの怖さがぬぐえない。というのも本作では、これまでメディアで扱われてきた、タレント的な「女より女らしい」トランス女性のイメージが再構築されてしまっているからだ。

リンコとマキオが営む生活がひとつの目指された大きな軸と言えるだろうが、くつろいだインテリアや気安そうな食事に比べて、よそよそしいほどに「女以上に女らしい」リンコの在り方はパートナーに心を許しているようには見えない。

リンコは、ガーリーな洋服を常に身にまとい、いつも化粧をして過ごし、足をきっちり閉じて、その足を斜めに流す、といった動きがいちいち丁寧だ。仕事をしているので身ぎれいにするのが日常的だとしても、家にいても服装も顔つきも崩れることがなく、いくらなんでもくつろいだ場面がなさすぎる。トランス女性はもちろん、誰にだって、自室で肩の力を抜いてあぐらをかくことだってあるだろうし、忙しくて洋服に気が回らないときだってあるだろう。

仮に、リンコという個人が実在し、自由意志でそういった在り方を選択しているという話ならば、他人がとやかく言う権利はない。しかし、これは映画である。先述のとおり、ほとんどの一般人にとってトランス女性は身近な存在ではなく、テレビなどメディアを通して見られる「ニューハーフ」や「オネエタレント」のイメージが占めていると言える現状において、日本のメジャーな映画史でほとんどはじめて描かれた「普通に生活をするトランス女性」のキャラクターがひとつしか提示されていないと、観客が「トランス女性ってこういう風なのか」と全体化して受け取る可能性がある。

あるいは、この映画は2017年前後の日本の話などではなく、何十年も先の、遠い未来か、あるいはあり得た現実を描こうとしたファンタジー作品なのだろうかと考える。それほど、本作に登場する唯一のトランス女性であるリンコは、現在の日本を生きる、血の通った生々しい生活を営んでいるトランス女性には到底見えない。

◎「女らしい」女性像をトランス女性に押しつけるおぞましさ

この違和感は、Buzzfeedでの荻上直子監督へのインタビューでの、「みんなでリアリティのあるMtF像を作り上げた」というような主旨の(おそらく無邪気な)発言にも通じる。

この点は水野ひばりがツイッターで指摘していたように、一般論からはこのおぞましさはなかなか理解できないだろう。一連のツイートのなかで水野が告白しているのと同様に、わたし自身も保守的なトランスジェンダーであるところが否めない。自分の生活のわずらわしさから逃れるために既存のジェンダーロールを自分自身も体現しているところがあり、日々強化している。男女どちらかの生き方であることがノーマルとされる社会に同化するように、「女性」として見られる姿かたちをしており、スカートを履くし、化粧もきちんとする。繰り返しになるが「女より女らしい」トランス女性は実在するだろうが、一方、荻上監督らの「女らしい」トランス女性を作り上げるという努力はひるがえって、「女らしくない」トランス女性の在り方は不可視にし、そういった人々を許容する作品にはなり得ていない。

この荻上監督のインタビューからは、生田斗真の役作りの際に「本当の女性はそんな振る舞いはしない」という演技指導が飛び交っただろうと想像される。しかし、水野が重ねて指摘するように、仮にリンコをトランス女性の当事者が演じていたらどうだろう? 「本当の女性はそんな振る舞いはしない」と言えるだろうか? もし言えるのだとしたら、トランスジェンダー間に「本当のMtF(FtM)と、そうでない者」という分断を生み、選別が許されてしまい、息苦しさを生む可能性がある。

わたしは、当事者でないとこういったテーマを扱ってはいけない、と言うつもりはない。荻上監督や主演の生田斗真ら制作者のほとんどはおそらく、トランスジェンダーやゲイに対して侮蔑的な意図を持って作ったわけではないだろう。

しかし、本作ではトランス女性をメインに扱い、同性愛(後述)にもふれながら、トランスジェンダーとシスジェンダー(身体や社会的性別に対して性同一性に違和がない状態を指す)、同性愛と異性愛の、それぞれのあいだの差異や他者性をあまりにも軽視していると言わざるを得ない。自分たちと異なるジェンダー、セクシュアリティを持つ人々とのちがいに目を向けている気配はなく、男女ふたつの性別と異性愛のみが「普通」とされる、ヘテロセクシズムの社会になじんだトランス女性が登場しているだけ。既存の社会における家族観、女性観、母性観が揺らぐことはない。なぜなら、本作で唯一登場するトランス女性の人物造形は「女より女らしい」うえ、彼女が築くのは既存の男女一夫一婦制の婚姻関係という、ありふれたものだからだ。そこには多様性がない。

シスジェンダーの女性で「女らしくない」人がいるように、トランスジェンダーも「女らしい」人ばかりではない。そうした、異なる文化的背景を持つ人々がどう個別の人生を生きているか、そういう想像力がもたらす作品構造にはなっておらず、トランス女性に対する従来の「女より女らしい」、「男と女は恋愛し、結婚するもの」という価値観を固着化する作品となっている。

この点は、リンコの良き理解者として映画に登場する、パートナーのマキオの様子からもうかがえる。マキオが、母・サユリのいる施設で介護するリンコに一目惚れした、という設定は見逃せない。リンコはマキオの姪・トモとの交流のなかで母親になりたい願望を確かめ、甲斐甲斐しく世話をする。職場の介護施設でも同様に甲斐甲斐しい姿しか見せず(ある入居者がリンコの大きな手を心のきれいな人と美化する)、母性という言葉で礼賛されるような、古典的な「ケアする女性像」が求められていると見えてしまう。

繰り返しになるが、「女より女らしい」在り方を選んだり、母なるものへの信仰を抱く人はトランス女性に限らずいるだろうし、否定するつもりはない。だけど、それだけが現実ではない、という相対化が物語に組み込めなかっただろうか。

◎ネグレクトに差別…問題だらけの女性登場人物たち

一方で、トランス女性であるリンコ以外の女性像の、極端に偏った在り方も気になった。

まずトモの母・ヒロミだが、普段から家事をしている気配がない。二人が住む家はゴミ箱の中がぱんぱんで、シンクの中に汚れた食器が突っ込まれた状態で、トモはコンビニのビニール個装のおにぎりを食べている。どうやら母子家庭らしい。ヒロミは短い書き置きといくらかのお金を残して去る。トモは伯父のマキオのもとを訪ねて面倒を見てもらうが、どうやらこれが初めてではないようだ。つまりヒロミは明らかにトモをネグレクト(無視、育児放棄)している。

そのくせ終盤ではトモを引き取りにマキオとリンコの部屋に押しかけ、トモを養子として迎えたいというリンコに対して「母親でも女でもないくせに」といった暴言を吐く。加えてマキオに対して「あんたの性癖」と言う。これらの発言は明らかに、トランスジェンダーや、またトランス女性と付き合う男性に対してネガティブな意味合いで、衝撃的だ。実際の社会にこのような発言をする人々は存在するだろう。そうした現実の厳しさを反映するのはけっこうだが、侮蔑の言葉は回収されることなくこのシーンは終わる展開には疑問が残る。

またこのシーンは、子どもが責任を引き受けるよう求める展開となり、唖然とした。リンコとマキオ、ヒロミのあいだが険悪になるのを察してか、トモはみずから場を収めようとヒロミとの家に帰ると決断するのだが、そこでマキオは「姉ちゃんをよろしく頼む」とトモに言う。ネグレクトの問題も、トランス女性やそのパートナーに対する暴言も解決しないまま、弱者である子どもに虐待する母親の面倒を見ろと言うのだ。先に引いたBuzzfeedでのインタビューで、ネグレクトはだめだが子育てに毎日追われていやになるときがあると荻上監督は述べているが、シングルマザーのヒロミの子育ての苦労が徹底的に描かれるでも、子どものトモに救いのある展開を示唆するでもなく、ドラマを作る装置として利用されている感が強かった。

母親の暴論を一手に引き受けなければいけないのは、トモの同級生のカイも同じだ。

カイは、教室の黒板に「ホモ」「HOMO」といった落書きをされ、いじめにあっているようだ。トモもそんなカイとなるべく接点を持ちたくないとおもっているように見える。カイは、同級生の男子にほのかな好意を抱いており、校庭で遊ぶ彼らを見つめている。その同級生に宛てたカイのラブレターを見つけた母親のナオミは、それを破る。結果、カイは自死を試みたが回復し、入院する。ナオミの目を盗んでトモが病室に見舞いに行くとカイから、母親から「罪深い」と言われたと告白される。そんなカイをトモが「大丈夫」と抱きかかえて慰めるシーンはとても美しいが、以後カイの生活がどうなったかは描かれない。初めてリンコを見たとき異常者扱いをし、カイへの悪影響があると考えてか児童相談所にタレ込んで調査に入らせるといった、執拗にトランス女性を敵視するような、性的マイノリティへの差別者である母親のもと、果たして退院後のカイが健やかに成育できるだろうか。深刻な問題が棚上げされているとかんじた。

また、カイについては、人物造形も引っかかった。同性愛の気配がうかがえるカイは(性愛の指向も揺れやすいだろう小学生だし、カイ自身が自称していないので「ゲイ」とは書かない)バイオリンを嗜み、一方他の男子はサッカーに興じている。これでは、ゲイなど男性の性的マイノリティは繊細で、芸術にも明るく、そうでない者は活発でスポーツが好き、といったありがちな偏見を再生産する可能性がうかがえた。

そしてリンコの母・フミコだ。彼女は中学時代からリンコの性別違和を受け入れ、胸が成長しないと嘆く子に対して、ブラジャーと共に、おっぱいを模した手編みの胸パッドを与える。トランスジェンダーの存在が一般的ではないとされる現在の社会において、特に多感な時期は理解のある身近な大人の存在は重要だと思うが、このフミコは、小学生のトモに対していきなり「おっぱい育ってきた?」、などとセクハラまがいの発言を繰り返すような人物でもある。

フミコから手編みのおっぱいをもらったときのリンコの反応も妙だ。中学の授業で柔道をやっている時、道着がはだけると「きゃー!」と奇妙に甲高い声をあげる(このようなステレオタイプもどうかと思う)。そんなリンコは、フミコからブラジャーをもらうといきなり学ランを脱ぎ捨て上半身になるのだが、胸に劣等感を抱いているようなトランス女性が、いくら理解ある親だからと言って目の前でそんなことをするだろうか。

◎被差別者は怒りを抑えよという横暴なメッセージ

極めつきは、この手編みのおっぱいに由来される、編み物に込めたリンコの思いだ。

ひとつは、怒りを収めるためだと言うのだが、トランス女性は不当な差別を受けても、怒らない方が美しいとでも言いたいのだろうか?

はじめにこの話題が出てきたのは、カイの母親・ナオミがはじめて登場するシーンの後だ。スーパーで買い物をしているリンコとトモを見かけたナオミは、リンコをトランス女性あるいは女性装の男性だと見て、(余計な)心配をしてトモに「ああいう種類の人といっしょにいない方がいい」と、差別発言をする。リンコと親しくなっていたトモは怒り、手にしていた食器用洗剤をナオミにぶちまける。そんなトモに、編み物をして自分は怒りを収めるのだと、リンコは話す。

続いて、リンコが検査入院をするシーンで、編み物で怒りを収めよというメッセージが登場する。戸籍上の性別を「女性」に変更していないため、リンコは病院側から男性の相部屋を割り当てられる。不当な対応だと怒り、「人権侵害」と抗議するマキオを見て、トモは一目散にリンコのもとへ駆けていく。ベッドに横たわるリンコの元に、トモは編み物道具を持っていく。

これらのエピソードは「怒るより編み物を」という美徳のメッセージが込められているとしか受け取れなかった。ネガティブな話よりポジティブな話をしたほうが気持ちいいに決まっているけれど、そうできない状況に対して、不満を述べることなしに、改善などできない。差別を受ける側はヘラヘラ笑って下手に出ないといけないのかと、このメッセージにはとても憤った。

編み物をするもう一つの理由は、リンコが戸籍の性別を変えるためだと言う。

性別適合手術(Sex Reassingment Surgery:SRS)をすでに受けているリンコだが、なぜか戸籍は男性のまま。だが、ペニスを模した編み物が108個完成したら、戸籍変更の手続きを取るという。なぜなら「これ(ペニス)はあたしの煩悩だから」供養する必要があるということだ。それ以上の詳しい説明をされていないが、これでは、性別を移行することは煩悩だと荻上監督が解釈しているとしか理解できない。

性自認や性表現に揺らぎがある場合、男女ふたつの性別が基本とされる社会で生活を営むうえで、安定や安全を確保するために、性別(ジェンダー)を移行(トランス)しようとする人々がおり、自己実現とは言えないと思う。そうしたトランスジェンダーたちに対して、この映画は「煩悩」という誤解を映画のテーマとしているのだ。

◎推奨作品として広がる可能性の恐ろしさ

このような作品が、なんと渋谷区と区の教育委員会によって「ダイバーシティ&インクルージョン教育」(多様性と包摂)の一環として推奨作品とし、文部科学省からは〈教育上価値が高く、学校教育または社会教育に広く利用されることが適当〉として「教育映像等審査制度」の選定作品とされている。差別的ですらある表現をそのままにし、多様性など描かれていない本作が、教育にふさわしいとはどういうことなのだろうか。加えて本作は、人気俳優が主演で、様々な地域の大きな映画館で上映され、大勢の人たちの目にふれる可能性が高い。恐ろしい。

映画、小説、演劇、テレビドラマなどの文化は、自由に、その人それぞれのやり方で人間の在り方を掘り下げ、解釈することで、わたしたちに新しい世界の見方を提示してきた。もちろん、何が正しいのかと誠実に向き合い、作品を作り上げても、ある人にとっては受け入れがたいものになる可能性はある。本作の「多様性」の薄っぺらさは、それ以前の問題と感じた。ステレオタイプを描くことが問題なのではない。ステレオタイプをただ無自覚に描き、既存の性規範やトランスジェンダーを愚弄するような価値観をそのまま放置しているからだ。

公開前から本作については不安を抱いていた。「週刊朝日」での生田斗真へのインタビューの見出しに「生田斗真 LGBTの女性役に」と書かれていたのけれど、LGBT女性という存在はあり得ず、トランスジェンダーはもちろん、性的マイノリティに対する不勉強さがうかがえたからだ。

性的マイノリティの総称のように使われている「LGBT」という言葉だが、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル(LGB)は恋愛感情や性的欲求といった性的指向(セクシュアリティ)に関する言葉で、トランスジェンダー(T)だけは自分は社会においてどういった性としてありたいかという性自認や性表現(ジェンダー)に関するアイデンティティ、と異なる。レズビアンのトランスジェンダー女性、バイセクシュアルのトランスジェンダー女性はあり得ても、ゲイのトランスジェンダー女性というのはおかしい。

最近もっぱら流行している「LGBT」という言葉を使ったほうがキャッチーで、記事が読まれやすくなるという考えだろうと推測するが、明らかな誤謬を容認する、または知りもしない人々が作り、宣伝する本作の姿勢に疑念を持った。

◎実在のトランス女性を見ない荻上監督と生田斗真

最後にひとつ、生田斗真がリンコを演じた点について、書き加えておく。生田斗真の演技に賞賛が向けられているが、わたしには男性にしか見えなかった。少なくとも「中学時代に親からトランスジェンダーであることに理解が示され、SRSを終えている、三十前後のトランス女性」には見えなかった。

リンコと同世代だろう、トランス女性と公言しているモデル/タレントの椿姫彩菜や佐藤かよは十代のころから女性ホルモンの投与を受けていたそうで、それこそ「どう見ても女性」だ。佐藤は早いうちから親の理解を得ている点でリンコと共通する。もちろん、ホルモンの作用は個人差があり、骨格など生物学的男女の性差において変えようのないところもある。しかし、生田の演じるリンコは肩や胸板の筋肉が落ちておらず、SRSによって男性ホルモンの生成が止まり、女性ホルモンの投与を受けた身体には見えない。性別移行をした女性としての説得力に欠ける。
また、リンコが自転車に乗って「うぉー!」と低い声をあげてこぐシーンがあり、まったく演出意図がわからなかった。「オカマみたいな声になった」と嘲笑して言ったり、はるな愛がバラエティで低い声を出してみるようなネタ化されるキャラみたいな、「女より女らしい」トランス女性も元は男性だと見せようという意図ならば、失礼にもほどがある。

が、先述のとおりインタビューによると荻上監督らは〈美しい女性になり得る俳優を探し〉、〈でも、実際お会いしたら、すごく肩幅があって筋肉がモリモリしていて、歩き方も男だし、当然ですがどうみても男性〉だった生田に対し、〈みんなで試行錯誤しながら、女の子にしていくという作業をしました〉と言う。しかし作中では不思議なことに、カイの母親・ナオミに一目でトランス女性あるいは女性装の男性と見抜かれ、忌避されているという、ちぐはぐさが露呈してしまっている。

どうしても生田をトランス女性役に起用するのであれば、三十前後で性別移行を決意し、周りからは「男性が女装しているように見られる」という、社会に同化できないキャラクターとして描くなど、生田の見た目に則した内容にするべきだったのではないか。

あるいは、若いうちから親から理解を得て、一般になじむトランス女性を描くという脚本を重要視するならば、トランス女性である役者を起用するという選択もあったはずだ。歌手の中村中はテレビドラマや舞台で役者として高い評価を得ているし、一般な知名度は高くないが、舞台で活躍する高山のえみもいる。女性として社会に同化している見た目の役者がリンコを演じていれば、もっと見え方もちがったかもしれない(それでも、とってつけたような差別意識を剝きだすナオミの言動や病院の差別的な対応については、立て直さないと、単なるリンコを巡る人間関係や、母性信仰を飾るためのドラマとしてトランスジェンダーを利用しているとしか見えないことには、変わりがないのだけど)。

荻上監督は、『おとなスタイル』でのインタビューで〈偏見は絶対的にない!〉と断言しているが、偏見を拭うことなど可能か疑わしい。本稿で異議を書くわたしにも偏見はあるはずだ。いくら勉強を重ねても、「自分の知るトランスジェンダー像」とは異なる、様々な考えのトランスジェンダーがいるだろう。主演の生田斗真は公式HPでのコメントで〈性別適合手術が済んでいるかいないかがとても重要〉で〈手術も済んで、戸籍も女性に変えている人は、自信を持っている〉と言うが、では未手術で戸籍は男性のままのトランス女性の存在をどう考えているのだろう? 教育にふさわしい映画の看板を引き受けるのであれば、与えるのであれば、このような不寛容な姿勢こそ似つかわしくないのではないだろうか。

(鈴木みのり)

最終更新:2017/03/17 20:00
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