女性を殴り、腹を切り裂くドラマを「ポリコレ棒」でぶん殴らない理由『ウエストワールド』

2017/01/23 20:00

 昨年トランプが大統領選で勝利をおさめたのを契機に「ポリコレ疲れ」という言葉が日本でも口にされるようになった。排他的、差別的表現批判に反発する物言いが目立つようになり、自分の好む創作物が女性や子供、マイノリティの権利を侵害していると批判される煩わしさを「ポリコレ棒でぶん殴られる」という言葉で表現する人が現れ始めた。どうやら彼らは自分たちこそが“被害者”であると認識しているようだ。少女を性的オブジェのように扱う表現をしても、それは架空のキャラクターに対して行われるものでそもそも「被害者はいない」、果ては「実際にある現実を描いているだけだ」と彼らは主張する。そんな人たちを見ていると私は現在アメリカHBOで制作・放送され大絶賛されているドラマ『ウエストワールド』をいやおうなく連想するのだ。

 このドラマは作家マイケル・クライトンが70年代に脚本、監督した映画のリメイク版である。ウエストワールドとは開拓時代の西部地方を舞台にした、近未来の体験型テーマパークだ。そのテーマパークで繰り広げられるドラマは、ホストと呼ばれるAIを搭載した人工人間によって再現されている。この中で多額の入会費を払って会員になっている富裕層らしきゲストたちは、現実世界で従っているモラルなどかなぐり捨てあらゆることを実行するのが許されている。懸賞金がかけられたお尋ね者をなぶり殺し、遺体と笑顔で記念撮影をすることも、街はずれのひなびた家につましく暮らす清楚な美女を、恋人の目の前で犯すこともできる。そもそもその美女の「結ばれる未来を待ち望む恋人」もその悲劇性を強調するための「設定」なのだ。彼女の平穏や幸福は特権階級であるゲストに破壊されるためにあり、彼女は突然にすべてを奪われ凌辱されるためにその世界に存在しているのである。

 そのことがよくわかるのは、彼らが記憶を持たないという点にある。「私は私である」と思える人間のアイデンティティは記憶の集積によって作られる。生まれてからの経験によって、体験した衝動や反射的行動の記憶によって、とっさの行動が可能になり何を好ましく思い何を疎ましく思うかが決定される。しかし人工人間であるホストは傷つけられたり犯されたり殺されたり、モノのように扱われるたびに記憶を消去され、まっさらの「道具」として蘇る。だから彼らには「自己」というものがない。あったとしてもそれは開発者のフォード(アンソニー・ホプキンス)とアーノルドが「神」として取り上げてしまう。

ホストの真の開発者アーノルドは人間の心の発達過程を階層としてとらえ、下から記憶、直感的判断、自己利益と上がっていき、頂点にあるものを自由意思である「意識」と考えた。これは米国の心理学者ジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』(紀伊國屋書店)の中で提唱した二分心論にもとづくものだ。

 ジェインズは古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』を引き、その中で当時の人々が心や意識という言葉を用いず、行動を起こす動機が全て「神の声」によって表現されていることを指摘した。何らかの行動を起こすための感情や合理的思考である「意識」とは言語の発達により生み出されたもので、古代の人にはそれが心の中の「声」として捉えられたというのだ。実際に子供が成長する発達過程を観察しても、人間の抽象的概念を操作する思考は視覚的書き言葉ではなく聴覚的な話し言葉である内言によって構成されると心理学では考えられており、統合失調症の症状である幻覚の特徴は、幻視ではなく、自分の思考が他者の声として知覚される幻聴にある。さらに問題解決や推論といった認知機能障害を持つ脳損傷患者の多くが言語の聴覚処理を司る左側頭葉に機能障害を負っていることが報告されている。

 アーノルドは「神」としてホストたちから「意識」を奪うために、その入り口である「記憶」を封じ込め、さらにあらかじめ彼らの行動を規制するプログラムを頭の中に響く「声」としてコードしたのである。

(以降、ネタバレが含まれます。ドラマの本質的な面白さを損ねるものではなく理解を深めるための考察ですが、気になる方は本編をご覧になってからお読みください。)

 しかしアーノルドは世界の美しさを素直に希望につなげていく素朴な心を持たせたホスト、ドロレス(エヴァン=レイチェル・ウッド)に接していくうちに、あることに気がつき始めた。自分がピラミッドのように考えていた人間の心は実は円形の迷路のような形をしており、そこに放たれたビー玉のようにいつしかホストたちも「意識」の存在する中心にたどり着いてしまうということを。つまり、人間の「自由意思」とは誰かが与えたりするものではなく、あらかじめ全ての人間の心の中に存在するのだというテーマをこのドラマは内包しているのである。そしてフォードがいみじくも指摘したように、ミケランジェロが「アダムの創造」の右奥に置いた神を脳のシルエットを用いて描いたことを考えても500年も前から人類はそれに気づいていた。

アーノルドは、ホストたちが人の心を持ったまま「モノ」として扱われる悲劇が到来することを悟り、自分の死を持ってウエストワールドの閉園を訴えるが、パートナーのフォードはそれに応じなかった。しかし目の前で娘を殺されたホストのメイヴ(タンディ・ニュートン)がPTSD症状を発し、記憶抹消後もその記憶が何度もフラッシュバックしたように、「芽生え」はそこかしこで起こっていた。そこに流れるのはドビュッシーの「Reverie(白日夢)」。字幕では夢幻と訳されていたがこの場合起きていながら見る夢、「白日夢」と訳した方が適切ではないかと私は考える。

 精神分析家ビオンは、突然に物事を理解できたり、ひらめきが生じる現象を、人間は起きていながらも無意識においては夢を見ていて、その中で無意識から意識に概念をのぼらせる過程を繰り返し、思考を形成していると説明し、その精神機能を“Reverie”と名づけている。またPTSD治療では、夢を見ている際の急速眼球運動を人為的に再現しながら外傷的記憶の想起を行うことで、人格への記憶の統合を促す。苦痛を伴う突然の記憶の想起は、ホストたちがいつしか「意識」にたどり着き、自ら自由を獲得するようアップデートするプログラムReverie(レヴェリー)であったのだ。ドロレスやメイヴは目覚めていながらも、血を流し、肉が切り裂かれる痛みを伴った記憶が侵入的に蘇る「白日夢」を繰り返し見る。そう、外傷的な痛みを伴う記憶が自己に統合されてはじめて、人間は自分の深奥に至り、「自我」私は私であるという意識を獲得するとこのドラマは示唆している。

 しかし人は、自由意思をもつ人をモノ化(Objectify)することを止めない。差別的表現はよく「それによって不利益をこうむる人間はいないのだから差別などそもそも存在しない」「確かに差別につながる表現であるが、それを意図したものではないので罪はない」と擁護される。これらは互いに矛盾した意見であるが、同じ問題について同じ人物から発せられることも少なくない。はっきりしているのは彼らがそれを「たいしたことではないと考えたい」ということである。それはこのウエストワールドの客や開発者たちがこのホストたちは「道具」として扱われるために生まれてきたのだからモノとして扱っても構わないという欺瞞を弄しているのに似ている。

 女性の自立という話をしている時に必ず「男と女は別の生き物だ。それぞれに性別役割がある」「男に依存したい女性だっているはずだ」「勉強ができない、男に依存するしかない弱い女の子を差別した発想だ」と反論してくる人がいる。しかしヒトの心とは何かと哲学や科学にもとづいて実験的に考察したこの作品が示唆するのは、個人を救うのは他者による救済を意味するロマンティックラブではないということだ。

 感受性の豊かな美しい心を持ったホスト、ドロレスは何十年もの間繰り返し犯され殴られ刺され「モノ」として扱われる。完全に消えることのない記憶に苛まれながら唯一の救いをある善良な男性の心に求めた。しかし彼もまた彼女を「Objectify」することから逃れられず、その愛は年月によって朽ち果ててしまう。彼女は自分を苦しみから解き放つ導きを求め、庇護者たるアーノルドを探しさまよう。しかしその果てに「迷路の中心」で出会ったのは他ならぬ自分自身だったのだ。そして彼女は銃を取る。自分の生の目的が何であるか彼女は気づき「自分を他人から取り戻」したのだ。愛されること、庇護されることとひきかえに自分がどんな人間であるかを他人に決めさせてはいけないのである。

 ホストたちの逆襲を人間の側から恐怖としてしか描かないアンドロイド版ジュラシックパークに過ぎなかったオリジナルを、HBOとJ.J.エイブラムスそしてジョナサン・ノーランはよくここまで膨らませた、と私は感嘆した。旧作では「目覚め」るのはユル・ブリンナー演じる男性ホストのみなのだが、今作では反乱の前線に立つのは二人の女性ホストである。そしてアーノルドに関する謎についても我々のステレオタイプに基づく先入観を利用したある仕掛けが施されている。これはハリウッドの意識の変化を意味している。マジョリティは、自由を求めるマイノリティによる反乱の“被害者”ではなく、むしろ彼らを抑圧している加害者なのだ。そしてマイノリティを通じ人間の普遍的問題を描くことで、我々マジョリティもまた偏見や抑圧と闘う力を取り戻すというフィクションに課せられた役割をこの作品は見事に果たしている。

 しかし同時にこのドラマはポリティカルコレクトネスに反した表現にも満ちている。女性の顔を拳で殴り腹をナイフで切り開き、男性がおもちゃのように犯される場面すらある。しかし私はこのドラマを「ポリコレ棒でぶん殴」ろうとは思わない。なぜならこの作品は“意図的に”弱者たちが蹂躙されている「現実」を批判的に描き、人間は自由意思をもって生まれたというテーマを内包しているからだ。ひるがえって日本のフィクションはどうか。社会にあふれかえる「現実」をただただ無批判に、むしろ耽溺するように描くにとどまっているのではないか。私たちに心地よさを与えてくれることだけが名作の条件ではない。アメリカのドラマはそこまで進化しているのである。

(パプリカ)

最終更新:2017/01/23 20:00
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