『清掃はやさしさ』著者・新津春子さんインタビュー

「清掃という仕事の“やさしさ”に報いたい」世界一清潔な空港を支える女性の生き方

2016/06/09 15:00
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新津春子さん

 社会で活躍する女性が増えている時代。メディアではハイキャリアな女性たちがスーツを身にまといバリバリ働く姿や、クリエイティブな仕事で認められる姿がクローズアップされています。

 しかし、世の中にはさまざまな職場で、プロ意識を持って仕事に臨んでいる女性もいます。その1人が新津春子さん(46歳)です。『清掃はやさしさ』(ポプラ社)など著書を多数刊行している新津さんは、中国残留日本人孤児二世として生まれ、日本に移り住んでからおよそ29年にわたり、「きつい」「汚い」「危険」、いわゆる3Kと呼ばれる清掃の仕事に従事。現在は、2013年、14年と2年連続で「世界一清潔な空港」に選ばれた羽田空港で、「環境マイスター」として清掃員を指導しています。“プロ清掃員”として生きる、新津さんの仕事観や生きる姿勢を探りました。

■1人の人間として周りの人に認めてもらうために行動するしかない

――現在の会社に勤めるきっかけは何だったのでしょうか?

新津春子さん(以下、新津) 清掃員としてのキャリアは今年で29年になりますが、今の会社は入社21年になります。きっかけは「空港」という場所にとても思い入れがあったからです。中国から初めて日本に来た時に着いたのが空港だったのですが、中国に住んでいた時には見たことがなかったようなものを一気に見て、衝撃を受けたんです。

 また、日本に来てからは、清掃員をしながらビルクリーニングの専門学校に通っていたのですが、その時に指導してくださった先生から、「空港は新しいことがたくさん学べる」と言われたので、ますます興味を持ちました。

――これまで、清掃以外の仕事に就きたいとは思われなかったのですか?

新津 日本に来た当時は17歳だったのですが、家族全員で働かないと食べていけない状況でした。日本語が全く話せなかったので、できる仕事は清掃の仕事くらいだったんです。他の仕事を選ぶ余地がなかったので、「これでやるしかない!これでお金を稼ぐんだ」と心に決めました。高校を卒業後は音響機器メーカーに就職しましたが、アルバイトでも清掃の仕事を続けていました。しばらくして音響機器メーカーは退職しましたが、清掃の仕事だけは辞めませんでした。よほど性に合っていたのか、いつの間にか夢中になっていたんだと思います。

――中国残留孤児であるお父様が日本に帰国することを選択されたのですね。

新津 そうです。父は12歳の時、養父母が亡くなる前に初めて自分が日本人であると聞かされました。それから天涯孤独になって、近所の人にごはんをもらったり、仕事を手伝いながら、寝泊まりさせてもらったりして生きてきたそうです。養父母から「日本人であることを決して他言してはいけない」と言われたそうですが、戦後、田中角栄内閣が中国との国交正常化を果たし残留孤児を帰国させる動きがあった時、父は国の支援を待たずに帰国を決めました。

 その前に一度実親を探しに父1人で日本に行ったのですが、その時に進んだ文化を目の当たりにして興奮気味に帰ってきました。そうした影響もあって、一刻も早い帰国を望んだのだろうと思います。

――中国にいる時には日本人だからという理由で、日本に帰国してからは中国人という理由で対人関係も苦労されたということですが、ご自身のアイデンティティについてどのように感じていらっしゃいましたか?

新津 中国にいる時は「日本人」といわれて石を投げられることもありましたし、日本でも「中国人」と言われていじめられていました。私は父が日本人で母が中国人なので、自分の居場所がないと感じていました。自分はどこに行っても認められないと思っていましたね。

――それをどのようにして乗り越えられたのですか?

新津 日本人と中国人の混血で生まれたのは自分の宿命です。それを変えることはできません。であるならば1人の人間として周りの人に認めてもらうために行動するしかないと思いました。他の人にはいろいろな選択があるかもしれないけれど、私には「清掃」という仕事しかありませんでした。もう少し頭が良かったり、言葉が上手だったりしたら他のこともできたのかもしれませんが、私には清掃しかなかったんです。

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