『笑う介護。』著者インタビュー

20代で親の介護、30代で育児と介護―『笑う介護。』岡崎杏里氏「自分の人生をあきらめない」

2015/11/08 19:00

■座がしらけるので親の介護は友人に言えなかった

――よく決断されましたね。お母様としては岡崎さんが家を出ることが心細かったのではないでしょうか。

岡崎 自分の人生を一番大切にしようと決めたんです。母は私が結婚していなくなることに対して不安な様子でした。でも、両親はいずれいなくなる。そうなると、一人っ子の私は独りぼっちになってしまいます。ここは心を鬼にして、母が過剰に私に頼ることのないようにしようと。親に申し訳ない気持ちはありましたが、この機会を逃したら一生後悔することになると思い、両親よりも彼を優先したんです。

――お子さんも生まれて、幸せな様子が伝わってきます。

岡崎 結婚できたことだけでも満足だったのですが、子どもも自然に授かることができました。結婚と出産で、運を使い果たした感さえあります(笑)。孫が生まれたことで、父が元気になったのが一番うれしかったですね。デイサービスでも孫の話をしているようです。

――これまでは「ヤングケアラー」、そして今は育児と介護の「ダブルケアラー」。大変ではないですか?

岡崎 そんな言葉もなかった頃から介護をしていたので、流行の先端を行っている感じですね。ただ現在、母は父の介護、私は息子の育児をメインに頑張っています。1週間に数回は実家に行く「通いの介護」で、お互いに何かあったら協力するというスタンスでいます。

――これまでの介護で一番大変だったのはいつですか?

岡崎 父が倒れて数年は、母も元気だったので、私は病院についていくとか、週末に父をみる程度ですんでいました。それが5年ほどして、母が卵巣がんになり、闘病生活を送ることになったんです。会社勤めをしながら、私一人で両親の介護と看護をやらないといけなくなりました。父のように若くても介護保険が使えることさえ知らなかったので、ヘルパーさんを利用することもできず、1人で抱え込んで疲弊してしまいました。

――岡崎さんと同じように、1人で奮闘しているヤングケアラーもいるのでしょう。

岡崎 今、地域で高齢者を支えようという動きがありますが、お年寄りなら「実はうちのおばあちゃんは認知症で」とオープンにできても、うちの父のような若年性認知症だとなかなかむずかしい面があります。「まだ若いのに」と理解してもらえないことも多いです。座がしらけるので友人の前で介護していることを言うのを躊躇したこともあります。「ヤングケアラー」という言葉もでき、以前よりは世間からの理解度が高くなっているとは思いますが、より広く理解してもらうには、もう少し時間がかかるのかなと思います。

――ヤングケアラーという言葉ができただけでも進歩かもしれませんね。

岡崎 やっと「ヤングケアラー」が集うことができるようになりました。ブログで呼びかけてランチ会をしたのですが、話が終わらない。みんな吐き出す場がなかったので、ためこんでいたんですね。

 ヤングケアラーはまだまだたくさんいると思います。ヤングケアラーを“うらわかさん”と名付けて、月刊誌「ケアマネジメント」に『うらわか介護』という連載をしているのですが、当初ヤングケアラーを見つけるのは大変だし、すぐにネタが尽きるだろうと思っていました。それがもう4年も続いています。

――ヤングケアラーと接して、どういうことを感じていますか?

岡崎 取材を受けてくれる人は、介護が一段落ついた人などが多いような気します。本当に渦中にいる人は、話もできない状態なんじゃないかと思います。私自身、両親が倒れたときは情報もなく、どうやって情報を得たらいいのかさえわかりませんでしたから。20代の私にとっては、介護なんて遠い世界のことだし、あるとしてもずっと先のことだと思っていました。でもいくら親が若くても、介護は突然やってくるんです。

『みんなの認知症 (成美文庫)』
親は必ず老いるのに、それを忘れてしまう
アクセスランキング