介護をめぐる家族・人間模様【第36話】

「家に生気がよみがえった」元町会長が見た、90歳の老夫婦の生活

2014/08/05 16:00
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Photo by nakimusi from Flickr

 ベネッセのデータ流出問題はまだ波紋を広げているが、個人情報保護で思い出したことがある。あるデイサービスを見学したときのこと。利用者の荷物を入れる棚があり、その名札が○山春○様、田○○男様……と伏せ字になっていた。これは何かのゲーム? 脳トレ? と不思議に思っていたら、個人情報を保護するためだと言う。いったい誰のために、何を守っているというのか。こんなことを真剣にやっているかと思うと、いやはやなんとも。トホホ、と言うしかない。

<登場人物プロフィール>
三井 和臣(65) 愛知県在住。夫婦二人暮らし
草野 喜三郎(94) 三井さんと同じ町会で、キヨエさんと二人暮らし
草野 キヨエ(89) 喜三郎さんの妻

■ご主人が盾になって他人を拒否する

 三井さんは、名古屋近郊の新興住宅地で暮らし始めて10数年になる。子どもたちは独立し、仕事も5年前に退職。今は悠々自適の生活だ。

「典型的な都会の住宅地ですよ。近所の人とは会えば挨拶はするけれども、とりたてて会話もない。同じ町会でも、顔と名前も一致しないほどです。現役の頃は忙しくて家には寝に帰っていただけだったので、今の状態もまあ当然の結果でしょうね」

 そんな三井さんだが、3年ほど前には町会の役員が順番で回ってきた。そこでのくじ引きで当たり、町会長を務めた経験がある。

「新しい町会なので、夏祭りなどの大きな行事もありません。古い地区の町会長に比べれば仕事量は少なかったですね。ただ震災の直後だったので、防災関連の仕事は多かったと思います」

 お年寄りだけの世帯がどれくらいあるのかを把握したり、災害発生時に町会はどう対処するかを決めたりと、三井さんが中心となって体制を整えていったという。その中で気になる高齢の夫婦がいた。それが草野さん夫婦だ。

「お2人ともかなり高齢なのですが、ご近所ともほとんど交流がない。まあそれは私も似たようなものなのですが、緊急時の連絡先などを聞きに伺っても、ご主人が玄関に出てこられて『うちはいい』、日ごろ困っていることはないかと聞いても『うちは大丈夫だから』と拒絶されて、電話番号も教えてもらえない。奥さんはご主人の陰で、ほとんど何も話してくださらない。気にはなりながらも、どうすることもできません。犬の散歩で草野さんの家の前を通ったときに、それとなく様子をうかがうくらいしかできませんでした」

 三井さんは地区の民生委員にも連絡し、草野さん夫婦について相談してみた。民生委員によると、やはりご主人が玄関で盾のようになっていて、ほとんどのサービスや援助を拒否しているらしかった。奥さんはかつて要介護2と認定されていたが、家に他人が入るのが嫌だというご主人の意向でヘルパーも派遣できないという。もし何かあったら隣県に住む娘が対処するだろうとのことで、それでよしとするしかなかった。

■老妻が娘に見えた、驚くべきその理由とは

 幸い三井さんが町会長をしている間に緊急事態は起きず、会長の任期も無事に終わった。

「また普通のおじさんに戻ったわけですが(笑)、それでも草野さん夫婦のことはずっと気になっていました。雨戸が閉まりっぱなしだと、何かあったんじゃないかと心配で、犬の散歩のふりをして家の周りをぐるぐる回ったり、電気のメーターが回っているか、郵便受けに郵便物が溜まってないか、遠目に確認したりしていました。なんでそこまで、と思われるかもしれません。新興住宅地でも、10年以上たつと高齢化は一気に進みます。私もあと5年で70歳。明日は我が身なんですよ」

 そんな三井さんは、最近草野さんの家がいつもと違うことに気づいた。

「といっても、悪い方ではないんです。なんとなく家が明るいんですよ。ご主人は頑固だけれどもしっかりしている方なので、家の周りも比較的きれいだったんですが、やはりいかにも老人の家という感じだったんです。生気がないというんでしょうかね。それが最近玄関や庭にいろいろな花が植えてあったり、雨戸も早くに開いていたりする。これまでの印象と全然違うんです。花のせいかもしれませんが、家を包む空気が、モノクロがカラ―になった感じがしました。ある朝、雨戸を開ける奥さんの姿が見えたんですが、今までの印象と全然違って別人のように若い。これは、娘さんが介護をしに帰ってきているんだと思って、安心していたんです」

 90歳代の夫婦の娘だとしたら、60代から70代。十分高齢だが、それでも他人を拒否して二人きりで暮らしているよりはずっと安心だ。

「先日、偶然民生委員さんにお会いしたので、その話をしたんですよ。すると、驚きました。変化の原因は、娘さんの同居などではありませんでした。ご主人が亡くなっていたんですよ。ふた月ほど前のことらしいです。娘さんが同居していないとすると、あの雨戸を開けていた若々しい姿は、ご主人の陰でいつもうつむいていた奥さん? 奥さんも90歳前後のはずですが、とてもそうは見えない。ご主人という重しがなくなって、奥さんも、家もあんなに変わるんですねぇ。晴々としているというか、生気が出たというか。逆に奥さんに先立たれた場合、残されたご主人はがっくりして、後を追うように……という話はよく聞きますが、やっぱり女性は強いんだなぁとしみじみ思いましたよ」

 90歳近くまで、夫の陰で息をひそめるようにして生きてきた妻。長い。長すぎる。雪国にやっと訪れた束の間の春、か。どうかしばらく今の季節を満喫してほしい。心からそう思った。

最終更新:2019/05/21 16:05
『人生の午後を生きる』
気を失うほどの絶望と希望が混ざり合う感情
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