【「messy】

映倫を直撃! 日本で公開される映画が性表現に保守的なのは「検閲」されているからなんですか?

2016/08/23 20:00

成人年齢を20歳から18歳に、という民法改正案が来年の通常国会で提出されるらしい。また、今年は選挙権年齢を従来の20歳から18歳に引き下げるという、大きなニュースもあった。性風俗店を利用できるのも、そこで働けるのも18歳から。その一方で、喫煙、飲酒が認められるのは依然として20歳から。「大人」と「子ども」の境目は時と場合によって前後するが、映画の世界では18歳はもう大人。R18+指定の映画を観賞できる。

 話題の映画がR18+指定だと聞けば、多くの人は「過激な作品なのだろう」と思う。濃厚なセックスシーンがあるのか、残酷な暴力シーンがあるのか、もしくはドラッグを扱うシーンがあるのか。現在、日本で劇場公開される映画のほとんどは次の4種類に区分されている。

 G……誰でも観賞できる
 PG12……12歳以下の児童の観賞には、助言・指導が必要
 R15+……15歳以上が観賞できる
 R18+……18歳以上が観賞できる

 これを決定するのが「映倫」という機関であることは一般常識レベルだが、その実態はあまり知られていない。筆者は性表現を含む映画を好んで鑑賞するが、R18+だと期待していたのに肩透かしを食わされることもある。一体、どういう人たちがどういう基準で区分しているのか。その人たちは性表現に厳しい目を向け、ちょっとでもあからさまな描写があると、「ダメダメ、これじゃ上映を許可できないよ!」と表現の自由に圧力をかけてくる、とても保守的な“検閲的”機関ではないのか。

 そんな疑問を直接ぶつけるべく、東京・銀座にある映倫こと「映倫管理委員会」を訪ねた。迎えてくれた平山達郎さんは審査員のひとり。

平山達郎さん(以下、平山)「検閲的だなんて、とんでもない! 映倫は世界的に見てもめずらしい、民間の第三者機関。強制力はまったくないんです。それどころか特に性愛描写については、公権力と戦ってきた歴史があります。そして私たちの基準は絶対的なものではなく、時代の要請に合わせてフレキシブルに変わっていることを知ってほしい」

 日本映画の審査は、脚本の段階で行われる。が、それはあくまで自主提出。国内で制作される映画がすべて映倫の審査を受けなければならないという決まりはない。

平山「私たちはまず脚本を見て、こちらから『これはPG12指定ですね』『こうした描写があるなら、R18+指定になりますよ』といったことを伝えます。それが映画会社の意に添わないときは協議の場を持ち、『ここをこうした表現にすれば、R15+になりますよ』のような提案します。双方の合意が得られて初めて、区分が決まるんです。こちらから一方的に押しつけることはできないんですよ」

◎性表現に変革をもたらした2つの事件

 映倫の歴史は、前身である映画倫理規程管理委員会(旧映倫)がGHQの指導のもとに設立された1949年から始まる。戦時中は“国策”として戦意を高揚させる映画以外は認められなかった。映画の制作、内容に対して政府の意向が反映するのを避けることこそ、旧映倫の使命だった。

 審査対象となるのは、何も性愛描写だけではない。暴力、宗教、人権、差別……と多岐にわたるが、しかしその歴史のなかで最も問題視され、映倫自体の存在意義が問われたのは、どう見ても性愛描写関連だ。

 旧映倫による修正第一号は、谷崎潤一郎原作『痴人の愛』を映画化したもので、ヒロインが肉感的に誘惑するシーンが多すぎるがゆえだった。その後もストリップ映画、バスコン映画(バースコントロールの重要性を説く性教育映画……のふりをしたエロ映画!)、かの石原慎太郎原作『太陽の季節』を筆頭とする太陽族映画などなど、手を替え品を替え性愛描写のある映画が登場するため、一般映画とは別に“成人映画”という区分が設けられた。

平山「その成人映画の上映をめぐって各地での上映反対運動や、警察の介入が頻発し、旧映倫への批判がピークに達しました。それを受け“新生・映倫”、つまり現在まで続く映倫が設立されたわけですが、じきにピンク映画や日活ロマンポルノが大ブームとなります。それにともない、大手が製作する映画にもキワドイ描写が見られるようになりました」

 最盛期の1965年には、邦画長編452本のうち188本が「成人映画」指定されたという。ちなみに2015年にR18+に指定された作品は60本。いずれも成人映画専門の映画会社によるものだ。

 そうした時代の流れからして、1969年に【黒い雪事件】、1972年に【日活ロマンポルノ事件】が起きたのはむしろ当然のことといえる。

平山「この二つの事件における映倫の姿勢が、表現の自由をめぐって権力と戦ってきたわれわれの存在意義性を象徴しています。前者では、ヒロインが全裸で疾走するシーンが問題になりました。いまの感覚なら猥褻とも思わない人が多いレベルのものです。後者では4本の作品が問題視され、監督、配給会社だけでなく、映倫の担当審査員も起訴されました。いずれも刑法175条に抵触し、猥褻物の陳列を幇助したというのが起訴内容です」

 警察の目的は、明らかに見せしめ。「映画界のポルノ傾斜に対する警鐘的効果をねらった」という記録もある。それに対して映倫は一貫して表現の自由を主張した。映画業界も全面的に、映倫を支持。後者の事件では8年に及ぶ裁判を戦っている。

平山「そもそも、刑法175条の“猥褻”の定義がとても曖昧ですよね。同じ事象を見ても猥褻に感じるか否かは、人によって違います。結果、どちらの事件も映倫は無罪でした。特に『日活ロマンポルノ事件』では東京高裁で、映倫の審査機能、自主規制機関としての真摯な努力が認められたんです」

 しかしその反動で、「性器、恥毛を描写しない」など従来よりもはるかに厳しい審査基準が加わることになる。

平山「でも、それも1991年に公開されたフランス映画『美しき諍い女』をきっかけに変わります。この映画では何人もの女性モデルが全裸で映しだされるシーンがあります。そこに、猥褻の意図はありません。それまでは描写主義だったので、どういう意図があろうが、ヘアが映っていたら即アウト。それが、『性器恥毛は原則として描写しない』に変わりました。この『原則として』がいかに大事か。主題、題材、文脈を考慮したうえでセーフになるヘアもある、としたことで“ヘア緩和”と報道され、大いに話題となりました」

◎R15+とR18+の性表現はどう違う?

 時代とともに変わってきた映倫の性愛描写における審査基準、平山さんは「年々ゆるくなってきている」という。いまやR15+の映画でもヘアヌードOKとなっている。

平山「でも、セックスにおける表現において、体位やエクスタシーの表現の仕方、時間的長さ、回数には慎重さが求められるのがR15+です。これがR18+になると激しい体動や性器愛撫、挿入、オーラルセックス、射精などを擬似により強く連想させるシーンもOKとなります」

 この「擬似により」は、映倫にとって譲れない一線である。

平山「成人映画といわれた時代から、ピンク映画も日活ロマンポルノも“ポルノ”ではないんですよね。当時の制作陣は、濡れ場があっても本気で映画を撮っていました。そこでは当然、ストーリー性が重視されます。ここでいうポルノとは、ストーリー性がなくただ本番行為を見せるだけの作品です。映倫では、ストーリーのない作品は区分適用外。これは性愛にかぎっての話ではなく、ただ暴力を映し出すだけとか、“表現”のない作品は基本的に映画とは別なものです」

 だんだんとオープンになってきたとはいえ、日本では映画における性愛描写が諸外国に比べまだまだ保守的だ。

平山「私たちは外国映画の審査もしますが、性に対する価値観は国によって大きく違います。特にフランスはすごいですよね。その国でどんな年齢区分がされていても、日本では独自の審査基準で区分を決めます。保守的といわれれば、それは否定しません。これは邦画、外国語映画にかぎったことではないですが、映画業界からも『映倫の感覚は、10年遅れている』とよく指摘されるんですよ。何しろ、映倫内に8名いる審査員の平均年齢が高いですからね」

 と笑う平山さん。しかしこれには理由がある。

平山「私たちの審査は、社会通念を大事にしています。デリケートな問題については法律や人権、教育の専門家に問い合わせることもありますが、基本的には、一般の大人、子どもがこれを見たときにどう感じるか。基準はありますが、ひとつひとつの作品を見てその文脈のなかで判断していかなければなりません。だからこそ審査員には、映画業界でのキャリアと人生経験を積んだ“資質”が求められます。また、先ほどお話したとおり区分は最終的に映画会社と審査員の話し合いで決めるので、パワーゲームで押し切られない……要はナメられないように、ってことです(笑)」

 個人的には「もっと若い感覚を」と思わないわけでもないが、特に青少年に与える影響を考えると、その場の「このぐらい、いいじゃん」というノリで決めるものではないということだろう。

◎チャレンジングな作品も増えている

平山「性表現も暴力シーンも、大人は自己判断で観てくださればいいんです。観る側にも責任はありますから。問題は、年少者にどれだけ刺激、影響を与えるか。映画関係者からは『映倫は検閲的だ』という声も聞かれますが、そこは慎重であってしかるべきです。……でも実際は、映画会社がR18+に区分されるのを避け、最初から自主規制してくるケースがほとんどなんですけどね。というのも、R18+の映画は多くの劇場が上映しないし、広告宣伝もしにくいから。全国公開できず小規模な劇場での上映となると、商業的に厳しい状況といわざるをえません。しかも性愛描写に関していうと、いまはネットに刺激的なものがあふれている時代。映画の範疇での表現に魅力を感じる人は少ないのでしょう」

 性的に過激な表現があっても、それだけでは価値を見出されない時代である。まして、映画ではそこに1800円を払ってもらわなければならない。映画会社が自主規制で保守的になるのは無理からぬことだ……が、「映画には、チャレンジングな表現がない」となるのも、それはそれでつまらない。

平山「性愛ではないですが、長らくPG12までの映画しか作ってこなかった東宝が、最近はけっこう刺激的な台本を申請してくるようになりましたよ。2012年に公開された『悪の教典』がR15+指定だったのにヒットしちゃったから。未成年の学生が大量に殺される内容だと、2000年の『バトル・ロワイアル』もR15+指定でした。あちらは社会問題までなりましたけど、いま観るとまだまだおとなしいもんです」

 表現の自由と、それに対する規制。そのせめぎ合いはおそらく終わることがない。個人の感覚に委ねられることの多い“猥褻”だが、批判を受けながらも映倫がひとつの基準を提示し、判断を下すことで守られていることは実は多い。今後それがどう変化していくか。よりオープンになるのか、または息苦しいものとなるのか……それは社会、引いては私たちひとりひとりの感覚に委ねられている。

参考資料:映倫管理委員会『映倫50年の歩み』(2006年)

(三浦ゆえ)

最終更新:2016/08/23 20:07
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