【messy】

模索される「新しい男らしさ」は、マッチョに回帰するのか。いま必要とされている長渕剛成分。/杉田俊介×西森路代【2】

2016/08/14 20:00

4月に『長渕剛論』(毎日新聞出版)を出した批評家・杉田俊介さんと、女性性・男性性に関する映画批評をmessyで連載しているライター・西森路代さんの「男らしさ」対談。「マッチョな男らしさ」を否定する先に「新しい男らしさ」は見つかるのか。全3回。

・否定形で語られる「男らしさ」から、「男らしくない男らしさ」の探求へ

西森 暴力的な作品を見て「なんかわかんないけどすごい」といった感想を持つ風潮がありますよね。私はその風潮に乗れないけれど、そういう気分が存在する理由みたいなものはなんとなくわかるんですよね。だからこそ、「その気分はなんだろう」と思って暴力が描かれた作品は全部見に行くようにしてるんです。そのことは日々起こる事件とまったく無関係にも思えなくて。

杉田 社会正義的な、PC(ポリティカルコレクトネス)としての正しさに対する息苦しさを感じている人は多いと思うんですね。『ズートピア』にはその辺りの両義性があると思います。あれは一つのリベラルユートピアの夢だと思うけど、ラディカルなものを根こそぎにしたディストピアでもある。ラストにみんなでダンスするシーンは、結構不気味でした。現実はもっと酷いんだ、とアメリカ社会は多分よく分かっていて、だからこそ、これまでの歴史が積み上げてきた人類の英知を大事にして、未来に向けてさらにリベラルな夢を育てていこうよ、という方法的な感じだと思うんです。完全なユートピアは実現不可能かもしれないけど、少しずつリベラルな世界を目指そうよ、と。PC的な政治性と大衆的な娯楽性を融合させることに、見事に成功している。

でも、日本の場合、アメリカに比べてはるかにPC的な意識が根付いていないから、『ズートピア』の世界はまさに空想にしか思えない。日本では、近代化すら十分に根付いてないのに近代批判(ポストモダン化)の意識が強い、としばしば言われますけど、PCが十分に根付いてないのにPC批判が先行しているから、『ズートピア』に対しても、もう一段階、ねじれた感情を持たざるを得ないのかなと。「SNSなんかで微妙な発言を少しでもすると、すぐにリベラルな人々が集まってきて、火だるまにされる」という被害者意識を抱えていて、そういう社会をどこか息苦しく思っているがゆえに、ある種の保守的な発言や愚直な暴力へ魅かれていく、ということもあるのでしょうか。そういう人々にとっては、『ズートピア』はきっとディストピアですよね。

西森 ある時、私にはちゃんと線引きができない発言に対して、「それはいけないことである」と断言している人がいたんですね。それを見たときに、良い/悪いの線引きを自分よりも知ってる人が、すごく権力を持っているように思えて。PCについて語られるようになって、「これは良い、これは悪い」っていう尺度が急にたくさん必要になったし、その尺度をちゃんと理解していかないと、置いていかれたような気分になるのではないかなと思ったんです。まあ、だからと言って、PCを無視しようって言ってるわけじゃないんです。私も人を傷つけるような発言はしないように、と思っています。ただ、どういう気持ちでPCが忌み嫌われるか、息苦しく感じるのかを、想像してみようと思って。だってもう、そこ考えないと身の危険すら感じるわけじゃないですか。

杉田 不思議なんだけど、マジョリティの人間は、社会構造的にはぜんぜん被害者じゃないのに、逆に被害者意識に染まりやすい。社会的弱者やマイノリティのせいで俺たちは不当に制限され、損していると。昨今の暴力映画がそうした「マジョリティの被害者意識」に変にシンクロしてしまうと、危うい面もあるのかもしれません。僕は障害者介助の仕事をしてきたから、「PC疲れ」「リベラル疲れ」は確かにある、というかリベラルってそもそも疲れるものなんだよ、と認めた上で、それでもユーモアや笑いを見失わないでいたいですね。そういう意味では、『アイアムアヒーロー』は、暴力と男性性の問題、PCと娯楽の問題などに、結構しっかりと向き合っている感じはしました。

たとえば『キャプテン・アメリカ』の場合も、ヒーローの正義が自明ではなくなったポストヒーロー的な時代に、どうやって新しい正義や秩序を見出すのか、という物語でした。キャプテン・アメリカって、じつは長渕にそっくりです。もともと体が貧弱で、女性にもてず、でも祖国の役に立ちたくて、肉体改造して、マッチョになり、でもどこか滑稽で……冗談と本気の区別がつかなくなるその時にこそ、真のキャプテン=ヒーローが誕生する、という感じ。そのねじれ方が面白い。長渕にも『Captain of the Ship』という曲がありました。彼はキャプテン・ジャパンなんです。

西森 私は『キャプテン・アメリカ』の中に出てくる「強者は生まれつき力が強く力に敬意を払わない、だが弱者は力の価値を知っている。そして哀れみも」ってセリフを聞いて、長渕と同時に清原のことを考えました。子供の頃から常に周囲の人より体が大きかった清原はキャプテン・アメリカと違って体格にコンプレックスはなかった。でも成績不振になって、2000年頃に初めて肉体改造をする。ただ、急激に鍛えたためにヒザを悪くしてしまった。もともと体格的に恵まれている、つまり力を持っている人は、その価値を意識するときが、なかなかないものなのかもしれないなと気づきました。これって、体格の面だけじゃなくて、力のある立場の人は、他人の置かれた立場を想像することも難しいのかもしれないし。

杉田 清原と長渕はかつて友人だったけど、決別したと言われています。長渕と清原、どちらの人生がどうこうという話は僕にはわかりませんが、今の状況を見ると、清原は苦しいですよね。ほんの少しのたまたまの違いで、行きつく場所が変わってしまうのかなあ、と。逆に言うと、清原氏だってこれから変わり得るのかもしれない。

漫画の『ヒメアノ~ル』(講談社)も似たようなことを感じました。森田と岡田も学生時代はそんなに変わらない境遇にいたのに、大きく異なった人生になってしまう。岡田は平凡な幸せを手に入れ、森田は殺人を重ねて破滅していく。

原作を読んでいくと、作者の古谷実さんは、森田の非人間性に最後まで寄り添っていて、ぎりぎりまで粘ったけど、でも最後まで救いは見出せなかった……という感じです。ドストエフスキーの『罪と罰』みたいなことを試みていた。経済的な貧困とか社会問題にすら回収できないような、脳の機能の損壊すれすれの、現実に対する宿命的な齟齬が、言葉にならない森田の悲しみであり、「どうしようもなさ」なんですね。そういう意味での「階級」の話だと思う。映画版ではそれを90年代的な「いじめのトラウマゆえの殺人」というメロドラマに回収してしまった。思想としての暴力の問題を考え続けてほしかったですね。

本音をいえば、『アイアムアヒーロー』の場合も、花沢さんの原作にあるような、どろどろのルサンチマンやミソジニーや非モテ意識を抱えたもっと嫌な人間が、いろいろな状況に巻き込まれて、試行錯誤を続けながら、現代日本にふさわしい別の男性像やヒーロー像をふと実現してしまう、というような物語を見てみたかった。

西森 映画の中の英雄だと、最初からルサンチマンとミソジニーを持っていない人として出てくるから、物語が進むにつれて価値観を変化させたというわけではない、と解釈できちゃいますもんね。それは、大泉さんの持つ資質と映画の中の英雄があわさったからこそできあがったキャラクターなのかもしれませんけど。

『青天の霹靂』という映画で大泉さんが演じた役って、まさに最初はルサンチマンの塊で、後にいろいろな出来事があって新しい価値観を獲得する物語だったんですよ。そのルサンチマンの塊のときの大泉さんの、卑屈で憂鬱そうな表情にやたらとリアリティがあって。ルサンチマンの塊だったら、今みたいな人気者になってないかもと思うと、人はどっちにも行く可能性があるのかなって思っちゃいますね。

杉田 映画版の英雄はかなり「いい人」になってるので、原作ファンの中には物足りなく感じる人もいたでしょうね。古谷さんも花沢さんもルサンチマン系で、男性のダメなところ、嫌なところを執拗にえぐっていく作家ですよね。そういう人たちだけが描くことができる、新しい現代日本のマスキュリニティ(男らしさ)って何だろう、と。

西森 さっきから、「考え続ける」って話が出ていますが、杉田さんの本に出てくる「憑依」も大切だなと思うんですよ。憑依って特殊なことに見えるけれど、「人のことを他人事だと思わない」ってことではないかと。私は、自分以外の人のことを考えられるだけでいいのではないか、と思ってるんです。それこそ、力のある人が力を持ってない人のことを想像できないことって一番危険じゃないですか。

杉田 長渕剛ってインドの最貧困の子供とか、アフガンの女の子とか、沖縄の人にあっさり憑依してしまうんですね。政治的な文脈や歴史をすっとばして。それはマジョリティ男性による危ういマイノリティ憑依なのかもしれない。ただ、長渕さんの場合、変な上下関係とか権力意識が限りなく希薄な気がするんですね。目の前の存在をつねに対等に見るというか。逆にいえば、他人に対しても自分と同等の熱量を求めてくるので、暑苦しさを感じる人もいるでしょうけれど。

僕の長渕論は、男性の内側から男性性を食い破ろうとして、マッチョではない非暴力的な男らしさを求めて試行錯誤し、ひたすら考え続ける、というものです。そうした方法自体が男性的な独りよがりという気もしますが、率直なところ、これは女性から見てどうなのでしょうか?

西森 私は、そんな風にはあまり思いませんでした。杉田さんは、森岡正博さんの『感じない男』(筑摩書房)を意識してると言われてましたよね。『感じない男』を初めて読んだときに、男性が自分の中に目を向けようとしていることを珍しく感じたんです。なかなか男性ってそういうことが難しいのかなと思うと、それをしようとしていることに興味を持ちました。ただ、ちょっと思うのは、考える行為ってけっこうマチズモとつながっていくこともあるのかもしれないという危惧もあります。人より考えたからこそ、考え方が強固になりすぎるのはちょっとなと。

杉田 最近、男性学の本がたくさん出てきたのは、戦後的な家父長制的なシステムが崩れたことで、男性が今まで通りの社会的な承認が受けにくくなったために、内省モードを強いられてるからだって思うんですね。戦後的な男性像や父親像に変わる、男性たちの代替的なライフスタイルのモデルが手元にない。最近のカルチャーもその辺りの感じを共有しているのかな。ただ、足元に基盤のない中で男らしさを求めていくと、過剰な男らしさとか、国家の暴力性みたいなものに、割とあっさり取り込まれてしまうかもしれないですね。

西森 それはどういうところに出ていると……。

杉田 保守的な強い男性観に急激に自分をフィットさせようとしたり、あるいはその裏返しとして、自分より立場が弱い人間を叩いてコンプレックスを解消するとか……。よく言われますけど、フリーターとかニートというよりも、中高年の中流層の男性がネトウヨ的な行動にコミットしやすい、という話もありますよね。自分に自信がなかったりするんでしょうね。

西森 そういう中で、長渕は新たなモデルとして存在している部分はあるんですか。

杉田 『長渕剛論』の元となるエッセイを「すばる」(集英社)に書いたとき、結構びびっていました。僕の長渕論は、強さも弱さも男らしさも女々しさも、色んな矛盾を抱えたところが面白いんだよ、というスタンスでした。だから、熱狂的な長渕ファンから苦情や批判が来るのではないか、とちょっと心配していた。でも、「自分も長渕のそういうところが好きだった」とメールやメッセージをくれる人が結構いたんですね。男らしくはなれないけど、男であることを捨てられない、という葛藤の中で、長渕の存在に魅力を感じているファンの人たちも結構いるのかもしれない、と思いました。

――杉田さんは、書く前から感覚としてそれを感じていたんですか? 書きながら長渕剛の矛盾などを感じ始めるようになった?

杉田 僕は中学の頃にいちばん長渕の音楽を聴いていたのですが、彼が急速に愛国化して、日の丸のイメージをまとっていった時には、やっぱり一度、ついていけなくなったんですね。でも、ずっと経ってから、東日本大震災の後に彼が自衛隊の人々を励ますために行ったライブの映像を見て、印象がまた変わった。この人は一貫して優しかったし、自分を変え続けようとしてきたんだ、って。書きながら、その辺の感覚を言葉にしようと思いました。

西森 それは、杉田さんの見方が変わっただけではなく、長渕自身も変わったからついていけると思ったんですか?

杉田 そうですね。確かに、彼が長い時間をかけて、少しずつ自分を変えて、円熟し続けてきたから、僕は長渕さんに出会い直せたのかもしれないです。たとえばやはり愛国的な論客としての小林よしのりという人は、若者に対して最終的に「父親」になろうとするんですね。価値観を上から教え込む、厳しい父親。それに対し、長渕剛の場合、一貫して「兄貴」なんですよね。父親じゃなくて兄貴。対等だけど、ちょっと年上。そういう感じかな。ぎりぎりのところで父権的にはならない。彼がファンからアニキと呼ばれ続けてきたのは、理由があると思います。

西森 さっき杉田さんが、英雄がどろどろのルサンチマンやミソジニーを持っているところからスタートして新しい男らしさに到達できたらいいのにって言われいてましたけど、長渕って、英雄のようになると思えないスタート地点から始まっても、ここまで到達できるんだよ、というモデルになりそうですよね。

杉田 長渕さんは個性の強い人だから、人によって好みは分かれると思うけど、少なくとも、僕にとってはそうでしたね。そういう具体的なモデルになる人間や作品が、たくさん増えればいいですね。選択肢が増えますしね。たとえば、僕自身がものすごい非モテ意識やルサンチマンの塊りなので、花沢さんの原作の『アイアムアヒーロー』にも、この先に、さらに何か新しい突き抜けたマスキュリニティのあり方を見せてほしい、とどうしても期待してしまいます。

※第三回に続く

最終更新:2016/08/14 20:00
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