映画『わたしはロランス』トークイベントレポート

枠組みにはめることの暴力性、『わたしはロランス』――“中間的な存在”から見える自由の意味

2015/05/04 16:00
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『わたしはロランス』より

 自身がゲイであることを告白し、ジェンダーの問題を多く作品のテーマにしてきた新進気鋭の監督グザヴィエ・ドラン。そのイケメンぶりやファッションセンスから、女性だけでなく若者全般からの人気も根強い。カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した新作『Mommy/マミー』(2014)も日本で公開されたばかりだ。そんな中、ドランの過去作『わたしはロランス』(12)『トム・アット・ザ・ファーム』(13)のBlu-ray Box発売記念イベントが渋谷アップリンクで行われた。『わたしはロランス』は、ドラン23歳の時に撮った作品で、女性になりたい男性・ロランスとその恋人・フレッドの10年にも及ぶ愛の物語である。普通・普通じゃない、男・女など社会の枠組みに生きづらさを感じる人も多い。女装家のヴィヴィアン佐藤氏と、“男装をやめた”東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩氏のトークショーをレポートする。

◎枠組みに当てはめることの暴力性

 映画のオープニングに、さまざまな人がこちらを見ているというシーンがある。自分を偽っていたことに気づき、女性の格好をするようになったロランスに対する冷たい視線だ。そのような視線を自身も受けるようになったと明かすのは、ロランス同様、男性の格好をやめ、女性の服を着るようになった安冨氏である。「ステレオタイプの枠組みに当てはめようとして、うまく当てはまらないと、当てはめられなかった対象物が悪いということになる。この構造は『暴力』 に他ならない。人が自分を見つめる“あの目を見た”ことは思想的衝撃があった。この映画は自分のことのようで、最初は見るのがつらかった」と語る。

 ヴィヴィアン氏もそのような視線の暴力を体験しているという。「金曜日の渋谷が宇宙で一番嫌いです。偏見バリバリの人々がいて、喧嘩を売ってくるように感じる。そういうつもりじゃないんでしょうけど、こちらはそう受け取ってしまう」。人は自分が理解できないものに対して不寛容になりがちだ。安易に分類分けをすることは自分が安心したいという非常にエゴイスティックな行為でもある。
 
 また劇中、ウェイトレスの中年の女が興味半分に、なぜそんな格好をしているのかとロランスへ聞いてくるシーンがある。平和なはずのランチも、その無神経な言葉によって一気に冷えきったものになってしまう。ロランスの恋人フレッドは長年男性としてのロランスを愛していたために、女になりたいという恋人の告白を受け入れようとしながらも、戸惑いを隠すことができない。ウェイトレスに、「彼氏にカツラを買ったことがある?」と聞くフレッドの台詞は、差別に対する怒りとロランスへの戸惑いがひしひしと伝わってくる。

 自身のパートナーも、フレッドと同じ戸惑いを抱えていると安冨氏。つい先日、渋谷区では同性パートナーシップ条例が成立し、同性愛を意味するゲイ・レズビアンという言葉も市民権を得たかのようである。しかし、「性を越境した」存在であることを意味するトランスジェンダーは、必ずしも同性愛者とは限らない。異性愛者、両性愛者の場合もある。「トランスジェンダーのレズビアンというと皆驚く」(安冨氏)というように、寛容を装ってなかなか理解されていないのが現状かもしれない。「人はいびつな多面体」だというヴィヴィアン氏の言葉にはもっと広義での寛容さが窺える。

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左からヴィヴィアン佐藤氏、安冨歩氏

◎「枠」に困惑するのは普通の人々

 「男」「女」と分類してしまうことの意味がないということを私たちの存在は示している、と安冨氏。世の中にあるエリートとか学歴といった「区分け」の中で一番わかりやすいのが男・女であるだけで、それも結局は性器の形態に拠っている。体の一部にすぎない性器がどうしてそんなに特権的なのかと疑問を呈している。「男か女かは身体的特徴の割合の問題でしかない」とヴィヴィアン氏も言う。このことこそ、「わたしはロランス」の本質を示しているように思う。この映画の原題は『Laurence Anyways』なのである。ロランスとフレッドが出会いのシーンで自己紹介をするときの台詞だ。男と女、ではなく1人の人間と1人の人間が出会ったことを示していた。
 
 一方で2人は女装をするメリットの多さも語った。ただ東大教授のときは耳を傾けてもらえないことも、今の格好をするようになったらテレビに呼ばれるなど研究結果をより広く伝えられる機会が増えたのだという。女友達とフランクに接するようになったり、今の年齢でもミニスカートをはいたりすることもできるとヴィヴィアン氏。女装をすることで、人からジェンダーの話を聞かれることもあるが、それは自分の“外の話”でしかないという。

 「自分は普通、はみ出していないと思っている人の方が、実は社会の棲み分けに困っているのではないだろうか」(ヴィヴィアン氏)と本質をつく。「枠組を設定するから特異な人間が出る。そういった時は必ず、常に枠の方が問われている」(安冨氏)。男でも女でもない、ロランスのように中間的な存在でいることが「自由」を体現しているのだ。
(睡蓮みどり)

最終更新:2015/05/04 16:00
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