眞子さま婚約騒動に見る、皇室の女性たちを苦しめる“伝統”

2018/06/18 20:00

【歴史学者・小田部雄次氏インタビュー 中編】

 2018年5月25日、宮内庁は、秋篠宮家の長女・眞子内親王の結婚延期をめぐる一部週刊誌の報道に、天皇、皇后両陛下が心を痛めているとの声明を同庁ホームページで公開した。2017年末以降、眞子内親王の婚約者・小室圭氏の母親の400万円を超える借金トラブルが週刊誌やワイドショーで取り沙汰され、今年2月には宮内庁より2人の結婚延期が発表されたのは周知の通り。しかし、この結婚延期騒動を「小室家側に問題があった」で片付けてよいのだろうか?

 日本近現代史が専門の歴史学者で、近代以降の皇室の在り方にも詳しい小田部雄次・静岡福祉大学名誉教授の話をもとに、過去に起きた皇室の婚姻トラブルを参照しながら騒動の背景を全3回に分けて考察する。

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 第1回では皇室における二大婚姻トラブルともいえる大正天皇の婚約破棄事件と、昭和天皇の「宮中某重大事件」を見てきたが、それ以外にも皇室にはさまざまな婚姻トラブルがあった。例えば、1920(大正9)年に大韓帝国(現・韓国)の皇太子・李垠(り・ぎん)の妃となった李方子(り・まさこ)女王の一件である。

韓国皇室に嫁いだ日本の女王

「李方子さんは、明治初期に新設された宮家の一つである梨本宮家の生まれで、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の妃候補でもあった。つまり久邇宮良子(のちの香淳皇后)さんのライバルだったのですが、方子さんの母親である梨本伊都子(いつこ)さんが鍋島家の生まれで、この鍋島家は豊臣秀吉による朝鮮出兵以来、韓国とつながりが深い家柄なんです。そこで、1910(明治43)年の日韓併合を受けて、韓国の皇室に日本の皇族女子を嫁がせるという話になり、方子さんに白羽の矢が立てられた」(小田部雄次氏、以下同)

 これは「内鮮一体」(朝鮮を差別せずに内地=日本本土と一体化しようというスローガン)のための政略結婚であり、方子女王にとってショックな出来事であったのはもちろん、韓国側も抵抗する案件であろう。なぜなら、韓国の皇室に日本人の血を入れられてしまうのだから。逆に、日本の皇室に韓国人(およびその他の外国人)の血を入れることはない。「内鮮一体」と謳いながら、そこには明らかな差別意識があった。

「方子さんは結婚後、夫と共に日本で暮らすことになり、1921(大正10)年に第一子の晋をもうけるのですが、翌年に親子3人で韓国を訪れたとき、晋が急死してしまうんです。これは、確証はありませんが、韓国の宮廷による毒殺ではないかともいわれています」

 実は、1919(大正8)年に、方子女王の夫になる李垠の父・李太王(高宗)が死去している。これには日本側の陰謀による毒殺説が残っており、同年の三・一運動の引き金にもなった。李晋の毒殺は、それに対する報復ではないかとも囁かれている。

「しかも方子さんは、日本が第二次世界大戦に負けた結果、王公族(大日本帝国により併合された旧大韓帝国皇室である李王家とその一族の日本における身分)の身分を失い、1952(昭和27)年発効のサンフランシスコ講和条約での日本の主権回復に伴い日本国籍も喪失します。かといって韓国へ帰ることもできず、1963(昭和38)年になってようやく朴正煕大統領の計らいによって夫と第二子・玖(きゅう)と共に帰国を果たします」

 皇族の女性であることと、大日本帝国の膨張主義が生んだ悲劇といえそうである。そして、李方子の夫・李垠の異母妹である徳恵翁主(とくけいおうしゅ ※「翁主」は李氏朝鮮における皇帝の側室所生の皇女の称号)もまた数奇な運命をたどっている。

「徳恵さんは、1925(大正14)年に12歳で渡日して学習院に入るのですが、そこでいじめに遭い、さらに1930(昭和5)年に母親を亡くしてから奇行や登校拒否が問題になり、早発性痴呆症(統合失調症)と診断されます。その翌年に、日韓融和の一環として、旧対馬藩主・宗家の当主である宗武志(たけゆき)に嫁いだんです」

 先述した通り、皇室に外国人の血を入れることはない。つまり外国人を皇后や親王妃として迎えることは決して許されないが、大名家などの華族クラスの妻であれば許容範囲であり、この徳恵翁主のケースは、日本から韓国へ嫁いだ李方子とは逆パターンの政略結婚といえる。

「2人の夫婦仲自体は良好だったようですが、徳恵さんは病状が悪化し、終戦直後に入院してしまいます。そして、1955(昭和30)年には、徳恵さんの実家からの要請で武志さんとの離婚が成立しています」

 さらに、李方子の妹である梨本宮家の規子女王も、不幸な婚姻トラブルに見舞われている。それは、山階鳥類研究所の創始者・山階芳麿王の兄である山階宮武彦王との間で起こった。

「武彦さんは海軍航空隊のパイロットで『空の宮様』とも呼ばれたのですが、1923(大正12)年の関東大震災で奥さんを亡くし、精神を病んで引きこもってしまった。それを指して、山階宮邸には“開かずの間”ができたといわれます。山階宮家は、そんな武彦さんの後妻として規子さんを迎えようとした。そこで、規子さん自身もそれを納得したうえで婚約したのですが、結局、結婚を申し出た山階宮家側からの意向で婚約は破棄されてしまいます。規子さんはその後、梨本宮家の遠縁の華族家に嫁ぎましたが、この婚約破棄は相当なショックだったことでしょう」

「男系男子」は本当に皇室の“伝統”か

 以上のように、皇族の結婚により公家や宮家の女子は振り回されてきたわけだが、特に戦後は、それに巻き込まれまいとする動きもあったという。

「例えば美智子さまと雅子さまは、民間からすっと皇室に入られたように見えるかもしれませんが、実はそこに至るまですったもんだがあったんです。宮内庁としては、今上天皇と皇太子の妃候補を旧宮家や華族から出したかったんです。事実、いずれも当初は旧宮家の北白川家の娘が候補に挙がりました。ただ、候補になると週刊誌が騒ぐし本人たちも息苦しいから、言葉は悪いですが、みんな逃げちゃったんです。特に今上天皇の妃探しのときは、『戦後のゴタゴタの中で皇室になんて入りたくない』といったことを雑誌で語る妃候補もいました」

 皇室に近い存在である旧宮家や公家の娘たちは、皇室に入ることの大変さを知っていたし、そこから逃げる術も知っていた。しかし、民間人は逃げきれない。民間人が皇室に入るということは、身分差が取り払われたという点で喜ばしいことだが、同時にそれは民間人に尋常ならざる覚悟を強いることでもあったのだ。

「美智子さまにしろ雅子さまにしろ、かなり辞退し続けたんですよ。宮中という世界に入るには、恋愛感情だけでは越えられない高いハードルがありますから。雅子さまはプロポーズのとき、皇太子殿下から『雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』と言われ、それに支えられて頑張ってらっしゃいますが、やはりご苦労もなさっている。美智子さまにしても、立派な皇后陛下になられているものの、1993(平成5)年に失声症になられたこともありました」

 では、具体的に何が彼女たちを苦しめたのか。

「簡単にいえば、“伝統”ですよね。宮中に関わりを持つ人間は、それこそ神話の時代からの伝統を守ってきた人たちの子孫であり、例えば礼一つとっても、箸の上げ下げ一つとっても、いろいろな人がいろいろなことを言ってくる。姑・小姑が山ほどいる世界だと思えばわかりやすいでしょうか。だから雅子さまも当初は『喋りすぎるな』と怒られましたよね」

 戦後の新しい時代の文化に触れて育ち、また幼少時から海外経験も豊富だった雅子妃殿下にとって、宮中の作法や慣例などはおよそ時代錯誤に見えたはずである。しかし、それは守らなければならない伝統だった。そして、宮中の伝統の中で彼女を最も苦しめたのは、男系男子による皇位継承であろう。ただし、その伝統は明治期にいわば“後付け”で生まれたものにすぎない。

「男系男子の規定が初めて明文化されたのは、1889(明治22)年に大日本帝国憲法と同時に制定された旧皇室典範なんです。実際、江戸期にも2人の女性天皇がいましたし、時代をさかのぼれば推古天皇や斉明天皇など、計8人の女性天皇が存在します。ですから、近世以前には女性が天皇になってはいけないといった明文化されたルールなど存在せず、いわば“たまたま”男系男子による継承が続いたのだ、という言い方のほうが正確。では、なぜ長きにわたり男系継承が続いて、女性天皇が極端に少ないのかといえば、それは結局のところ、日本が一貫して男尊女卑社会だったから、ということに尽きるのではないでしょうか」

 逆にいえば、歴史的に日本における女性の社会的地位が高ければ、女性天皇ももっと簡単に誕生していたかもしれない。

政治が“回避”した「女性天皇」議論

 また、明治期までは側室があり、皇位継承者たる男子はたくさん生まれていたため、継承者問題を議論する必要もなかった。いささか乱暴な言い方かもしれないが、「天皇は男でも女でもいいけれど、男がいるなら男のほうがいい」という、明確な根拠のない男系推しが続いた結果なのだ。あるいは、あえて根拠を挙げるならば、小田部氏のいう通り女性蔑視の考え方であろう。

「相撲でいう『女は土俵に上がるな』に似ていますよね。女相撲が存在するのに、あたかも女人禁制がもとから存在したルール、伝統であるかのような言い方をされるという点で。あるいは、『過去の女性天皇だって、中継ぎに過ぎなかった』などと文句をつける学者もいますが、中継ぎだろうといたことには変わりませんし、それを言ったら中継ぎの男性天皇だってたくさんいましたからね」

 小田部氏によれば、天皇という職能上、女性で困ることはないという。

「『女性には生理があるから儀式ができない』などという男系論者がいますが、儀式には代拝というシステムがあって、代々の天皇たちも体調が悪いときなどは代役を立てていました。また『生理の血が“穢れ”である』というのも、伝統といえばそうではあるかもしれませんが、現代的な価値観でいえばある種の迷信に近いもの。それをいま声高に主張すれば、それこそ大問題になりますよね。私にいわせれば、それを変えて何が悪いのか、と。結局は、「男系であるべし」を主張するための、まさに“ためにする議論”でしかないのではないか、と」

 2017(平成29)年5月、今上天皇の生前退位を受け、共同通信社が世論調査で女性天皇の賛否を問うたところ、賛成は86パーセントだった。また、同時期に毎日新聞が実施した同様の世論調査でも賛成が68パーセントと高いパーセンテージを示している。にもかかわらず、なぜ女性天皇の議論が進まないのか。

「2006(平成18)年に秋篠宮家に悠仁親王が誕生し、当面の男系断絶が回避されて以降、女性天皇をめぐる議論は下火になりましたが、それから10年以上まったく進んでいないですよね。特に近年における議論停滞の一因は、現政権である自民党の、もっといえば安倍晋三首相の重要な支持基盤の一つが、女性天皇に反対する保守層だからでしょう。逆にいえば、もし仮に安倍首相が退陣すれば、女性天皇の議論が活発化する可能性は高い」

 保守を名乗るのであれば、天皇という存在の重要性は十分に理解しているはずだ。しかし、その保守層が「伝統」とやらに固執するあまり議論を停滞させ、先細っていく皇室を蔑ろにする結果を生んでいるというのは皮肉な話である。今上天皇の生前退位にしても、多くの国民が支持していたのにもかかわらず、安倍内閣は非協力的だったことも記憶に新しい。

 以上を踏まえ、次回は眞子内親王の結婚延期問題の背景に迫りたい。

(構成/須藤 輝)

小田部雄次(おたべ・ゆうじ)

1952年生まれの歴史学者で、静岡福祉大学名誉教授。専門は日本近現代史。皇室史、華族史などに詳しく、著書に『皇族―天皇家の近現代史』(中公新書)、『肖像で見る歴代天皇125代』 (角川新書)などがある

最終更新:2018/06/18 20:00
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