聞く耳をもったあなたに読んでほしい。「説得の書」として書かれたジェンダー論の教科書/加藤秀一『はじめてのジェンダー論』(有斐閣)

2017/06/14 20:00

かつてお世話になっている研究者の方からこんな話を聞いたことがある。教師の力量とは、真面目でどんな授業でも熱心に聞く学生や、「授業を真面目に受けるなんてかっこ悪い」とばかりに授業に背を向ける学生ではなく、よい授業をすれば耳を傾け、つまらない授業をすれば話を聞きもしない、そんな学生を振り向かせられるかにあらわれる、と。

 この「格言」はジェンダー論の営みにもあてはまると思う。フェミニズムに親和的な人の共感に依存して議論をおろそかにしたり、頑ななセクシストの悪意に疲弊したりする前に、聞く耳を持った人をきちんと筋道を立てて説得しなければならない。そのためには、正確な論理と、理解を促すための適切な比喩やアナロジーが必要で、そしてこの『はじめてのジェンダー論』にはそれがある。

 以下、この本の構成と特徴を簡単に紹介し、評者なりの評価を述べていく。

 本書ではまず「はじめに」と1章で、性別に関する「分類」の実践に着目してジェンダーを検討していくとの方針が宣言される。2〜4章では、性の多様性に触れつつ性別概念を多面的に理解する。続く5〜6章で「性差」「性役割」などジェンダーを考える際の基本の道具立てを整理し、その上で7〜12章で「教育」「恋愛」「性暴力」「性別役割分業」などのいくつかのトピックについての検討する、という構成になっている。

 このような構成は、ジェンダー論の教科書としてはかなり異例である。私の読んできた教科書では、まずフェミニズムの歴史を追いかけて、その中で鍛え上げられたジェンダーに関する概念や理論を整理し、具体的な問題を分析し、(運が良ければ)最後に性の多様性に言及、というものが多い。フェミニズムの歴史に関する記述をばっさりとカットし、ほぼ冒頭(2章以降)に性の多様性に関する議論を置き「普通の男/普通の女」を前提に性別を考えることの不徹底さを論じるのは、「説得の書」らしい思い切った構成だと思う。

 評者が本書のもっとも重要な意義だと考えるのは、ジェンダーという言葉が指す多様な要素を「性別に関する分類の実践」として統一的な視座のもとで把握する、という指針である。加藤自身も指摘している通り(p.iii)、ジェンダーという言葉の意味は文脈に応じて少しずつずれるが、加藤のこの視座から見れば、どうしてあれもこれもが「ジェンダー」と呼ばれるのかはかなり理解しやすくなる。ある人が性染色体に基づいて女性だと判断されることと、ノーメイクの女性が「女らしくない」と評価されることは、かなりかけ離れた事柄に思える。しかし、男で/女であることに異なる要素を割り当て、ある人を男として/女として把握する際にその要素を「適切」に使用している点では共通している。ジェンダー論に、「性別」や「男」「女」の意味が少しずつずれたさまざまなテーマが含まれるのは、人々を男と女に分けて(=「分類」して)扱う際の、特定の要素の「適切」な使用(これこそ「ジェンダー」という単語の中身である)という実践を共通しておこなっているからである。

 もう一つの大きな意義は、本書が論理的思考に貫かれている点である。ジェンダー論は文字通り「論」なので、「女性差別はいけないこと」となんとなく思う人を増やすのではなく、「女性差別はいけないこと」だとの理解と納得を人々に提供せねばならない。徹頭徹尾「説得の書」として書かれた本書は、それゆえまぎれもなくジェンダー「論」の教科書であると思う。「きちんと論理的にものごとを考えることが何かダサいことであるかのようにみなされる風潮そのものに疑問をもっているので、『理屈っぽい』こと自体は素晴らしいことだと思っています」(p.75)とは、なんとかっこいいパンチラインだろうか。加藤の文体でジェンダー論を学ぶことの知的快楽を、ぜひ読者にも堪能していただきたい。

 補足として、2点ほど疑問点を指摘しておきたい。1点目は「おネエ」に関する記述である。p.38-39で加藤は「芸能界などの非日常的な世界」で「トランス男性でなくトランス女性ばかりが活躍する」事態を体現する存在として「オネエ」タレントを捉え、唯一の固有名としてマツコ・デラックスを挙げているが、マツコはトランス女性ではなく「女装するゲイ男性」なのではないか(本人に訊いたわけではないので断定はできないが)。「オネエ」=トランス女性と必ずしも加藤が限定しているわけではないが、トランス女性、女装するゲイ男性、「女性らしい」異性愛男性(尾木ママやりゅうちぇるなど)などが混在したカテゴリとしての「オネエ」に言及しないのは、誤解を招きかねない記述だと評者は考える。

 2点目はきわめて些細な疑問である。p.110で、いくつかの例と並んで、テレビのバラエティ番組で取りあげられた食材が翌日のスーパーマーケットで売り切れることが挙げられ、こういった「メディアに踊らされている」人を「馬鹿にする」ことは「もっともなこと」と加藤は述べる。しかし、評者の感覚ではこの例は不適切であるようにも思える。

 すでにいくつもの調査が明らかにしている通り、食にまつわる家事労働における面倒くささの大きな一因は献立を考えることである。だとすれば、テレビなどで特定の食材がとりあげられた際にそれをメニューに加えるのは、そのことで一回献立を考えずに済むからではないか。私はこれを「恵方巻き仮説」と呼んでいるのだが(恵方巻きの日は献立決めも調理も、包丁で切ることさえ必要ないのだから!)、だとすればこれは人々の、とりわけ専業主婦をはじめとする女性の性役割からの切実にしてしたたかな離脱だと言えるのではないか。そう言えば本書には家事労働に関する記述がほとんどない。加藤がジェンダーという概念で家事労働をどう分析するのも読んでみたかった、と思う。

■森山至貴
1982年神奈川県生まれ。現在、早稲田大学文学学術院専任講師。専門は社会学、クィア・スタディーズ。主著に『LGBTを読みとく―クィア・スタディーズ入門』(筑摩書房、2017)がある。(写真撮影:島崎信一)

最終更新:2017/06/14 20:37
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