自分探しのために「娼婦は女神」「タイは楽園」と消費しない、知的で誠実な映画『バンコクナイツ』の魅力/鈴木みのり×ハン・トンヒョン

2017/04/14 20:00

熱心なファンを持つ、映像制作集団・空族の最新作『バンコクナイツ』が密かな話題となっています。

「娼婦、楽園、植民地」というコピーが目を引く本作は、タイのイサーン地方からバンコクに出稼ぎにきたタイ人女性・ラックと、元自衛隊員で現在はネットゲームで小銭稼ぎしているラックの元恋人・オザワが、5年ぶりの再会を果たしたところから物語は展開していきます。日本人専門の歓楽街タニヤ通りに生きる娼婦たち、ビジネスチャンスを掴もうと企む日本人、居場所をなくしタイに滞在し続ける“沈没組”など、様々な登場人物が現れる本作の映画の魅力のひとつが「周辺化していない点」だと、ライターの鈴木みのりさんと社会学者のハン・トンヒョンさんは語ります。

セックスワーカーやアジア諸国は、得てして「周辺化」されがちです。それらは、近年日本でよくみられた身体を売って生きている女性たちの苦労をことさらに強調した他人事のような報道や、アジア諸国を周り、貧困や戦争に苦しみながら生きる人びとをみて勇気づけられる、「自分探し」のような、他者を自分のために消費する行動として現れています。しかし『バンコクナイツ』では、タイを、そしてセックスワーカーを周辺化することなく描くことに成功していました。なぜ空族は「周辺化」せずに本作を制作することが可能だったのでしょうか。空族の誠実な態度を窺い知れる細部と、本作の魅力についてお二人に語り合っていただきました。

◎セックスワーカーをジャッジしていない

ハン ライターの西森路代さんと『お嬢さん』について対談した際に、「パク・チャヌクが『荊の城』を植民地時代の朝鮮におきかえると聞いて不安がよぎった」という話をしました。杞憂に終わってホッとしたどころか素晴らしい映画だったんですけど、『バンコクナイツ』も、空族がタイでしかもセックスワーカーを取り上げる映画を作っているって聞いた時点では不安が先に立ってしまって。『サウダーヂ』が大傑作で大好きなだけに、とはいえタイへのファンタジーのようなものも感じられたがゆえに、『バンコクナイツ』がその辺、ダメだったらどうしようって不安で仕方なくて。でも日本人の男の満足のために、タイのセックスワーカーを消費するような映画じゃなくて、安心したし本当にうれしかったんです。

鈴木 わかります。わたしは序盤で「この映画は信頼できそう」って思ったんですが、それは、ラックがお店の楽屋で同僚たちとタイ語で話しているシーンがきっかけでした。例えば「~じゃね?」という具合に、口語に翻訳された字幕と、彼女たちの調子に齟齬がなかったんですね。「〜だわ」「〜なのよ」みたいな、変な女ことばだとズレた気がします。タイ語やタイ人の感じが日本語に搾取されていない、周辺化されていない、と思いました

ハン 鈴木さんは、messyに女ことばについての記事を書かれていますよね。ビョークと宇多田ヒカルの記事とか。

鈴木 あと『リリーのすべて』の字幕への違和感を書いた記事でも指摘しているのですが、『ボーイズ・ドント・クライ』で、ゲイという設定だけで女ことばに翻訳されているキャラがいて違和感を持ったこともあります。オネエタレントのような、パフォーマティブな女性性を出してもないのに、「~なのよ」って典型的な女ことばになっていたりして、すごく奇妙に感じたんですね。でも『バンコクナイツ』では、彼女たちの会話の様子と同じように、生き生きとした口語に翻訳されていて、これはヤバい、おもしろくなる予感がするな、と。

ハン 鈴木さんがおっしゃったように、この映画はタイの女性たちが周辺化されていないですよね。男性の作り手による女性セックスワーカーが登場する作品って、男性が持つセックスワーカーへのファンタジーが透けて見えるものが多い印象があって。たくましく生きる女性たちとエロスを絡めて、セックスワーカーはすごい、みたいな。あるいは、「娼婦は女神」とか「娼婦は天使」みたいなやつ。それ人じゃねーし(笑)。要は対等な存在ではなく、必要以上に持ち上げたり見下したり、結局は自分のために消費している。でも『バンコクナイツ』は大前提としてもっとフラットに、今の同じ社会を生きて生活する人として、彼女たちのことを描いていた。自分がおかれている状況のなかで選択できる仕事をして、家に仕送りをして、普通に生きている。ちゃんとリスペクトがありました。

鈴木 そうそう、彼女たちの仕事に対する是非をジャッジしていないですよね。

『介護する息子たち』(勁草書房)という優れた男性学でもある本が最近出たんですが、著者の平山亮さんは、先行の男性学が「男性の生きづらさ」の解消が目的とされている点への問題意識を書いていらっしゃったんです。男性である時点で「下駄を履かせてもらっている」、つまり女性と比較して社会的に優遇されているし、就学や就労を得る機会にアクセスする権利を得ている。もちろん人によるんですけど、相対的に見ると、女性の方が生きる基盤を獲得するという点で圧倒的に危ういのに、その非対称性を無視して「男だってつらいんですよ」とかぶせてくる、同じ「生きづらさ」とまとめるのはおこがましいだろう、と。その上で平山さんは、男性自身が稼得役割に強迫されるより、まず目の前の女性が稼得能力を備えられるようにサポートすればいいんじゃないか、という論にふれています。「自立や自律を志向する男性性」が前提の社会に執着してしまうと、弱者が弱者として存在すること自体を肯定できなくなる。そういう「男性性」が支配的な構造からの脱却を、弱者側に立って、促しているんですね。

この映画がそこまで自覚的にやっているわけではないと思うんですけど、現地に行って彼女たちのコミュニティに入ることによって、彼女たちが抱えている生きづらさをわかった上でと言うか、寄り添うと言うか、そういうことをぼんやりと考えながら作っていると感じたんですよね。だから、彼女たちの生きる基盤として、セックスワークという仕事を否定していないんだと思います。

ハン そうですね。フラットだといっても無条件に肯定したり、仕方ないとあきらめているのとは違う感じですよね。その姿勢が後半のオザワの放蕩にもつながっていくと思うのですが。ちなみにこの映画、セックスシーンがありません。当然あってもおかしくないストーリーなのに、一切なかったのは意図的なのかなと思いました。だからラックがあまり性的な存在になってない。

鈴木 冒頭で、ホテルでバスローブを着たおっさんがいて、ラックに対して「一緒にシャワー浴びてくれないし、キスもさせてくれない」と言っているシーンがあるし、ラックが男性に買春されていることはわかる。でも肌を露出するといった、あからさまに性的な演出がされてないんですよね。

ハン これだけセックスワーカーが出ている映画なのにね。エロを期待して見に行く人がいるのかどうかわからないけど……。

鈴木 ひょっとしたらセックスを意図的に描いてきた人たちは、セックスを描かないと彼女たちのタフさを描けないって思い込んでいたのかもしれませんね。

◎アジアも、田舎も「楽園」として消費しない

鈴木 2012年から毎年タイに行っているんですけど、バンコク市内にはスクンビットという大きな通りに沿ってBTSという高架鉄道が走っていて、中心部に向かってショッピングモールが増えているんですね。本作でも、客引きのしんちゃんというキャラの「スクンビットでつるんでる日本人は嫌い」というセリフがありましたが、スクンビット通り付近の、日本人の駐在員が多く住んでいるとされるエリアが、中心部から徐々に端の方に移動していると聞きます。

ハン それは日本の経済がダメになっていくのと連動しているんですか?

鈴木 韓国、中国、台湾などの企業の方が勢いがあって、だから日本人エリアが端に追いやられているという話を聞きました。映画の中で、ラックたちの店に来たエラそうな日本人社長がバンコクにラーメン屋を開業したという話について、女の子たちが「どうせトンローの端っこでしょ」とバカにするエピソードがあって痛快でした(笑)。トンローもBTSの駅があってじゅうぶん都会なんですけど、駅から離れるとローカルなエリアになっていくんです。このエピソードはきっと、現地の生き生きした声から拾われて、生まれたんだろうなと思いました。

ハン そういうところからも、この映画のリアリティのありかがわかりますよね。

鈴木 いまだに「タイに行けば儲かる」といった安易な発想で、バンコクにお店を構えようとする人がいるらしいんですよ。例えば「タイなら日本より安くお店が開ける」って、自分ではなんのリサーチもしないで、現地の人に丸投げしてお願いするみたいな。そうやってできたお店がすぐ潰れちゃう、みたいなことはあるらしいです。ちゃんとした企業なら、タイ語を学ばせるていで現地に駐在員を住まわせて、実地調査をしますよね。もしかしたら、トンローにラーメン屋を開いた社長も潰れるパターンかも知れないと思うと、おかしかったですよね(笑)。

ハン 「俺がやればできるはずだ」って思い込んでいるんだろうな。それって「日本はすごい」と相似形だから、つまり裏返すと、相手をバカにしてるってことですよね。

鈴木 大企業では(表向きは)取らないような、適当な態度で、相手を搾取している可能性すら意識していない鈍感な日本人をタイ人がカモにしていると伺えるシーンがあるのも、周辺化してないんだなと感じた点でした。「微笑みの国」とか言われてるけど、タイ人はタイ人でしたたかにやってるんじゃないかなと思います。

それから、ラックの地元である、イサーン地方のノンカーイをありがちな「のどかでいい場所」として描いてないのも好ましかったです。先ほど話した、言葉が搾取されていないという感触から飛躍させて考えたのが、植民地のことだったんですね。タニヤ通りは植民地とも言えるんじゃないかと。一度だけタニヤ通りに連れて行ってもらったけど知らなかったんですが、本作のパンフレットによると、日本人専門の歓楽街なんだそうです。そういう場所で働くとなると日本語を学ばないといけませんよね。ノンカーイのバーでも英語を話すタイ人がいましたが、あれはファラン(欧米系の白人を指すタイ語)を相手にしないといけないから。それってある種の植民地化ですよね。「タイ語なんて必要ないんですよ」と言って、ローカルバスで地方に女性を買いに行く、金城みたいな日本人男性キャラも登場します。

ハン 金城はひどいんだけど、あるあるなんだよね、いまだに。札束で顔をたたくような余裕はなくなっても、ああいうのは全然いる。すごくカリカチュアされた存在。

鈴木 たとえ女性を買っていなくても、そういう人っているじゃないですか。バンコクの中でもカオサンはいまだに「バックパッカーの聖地」と思われているところもありますが、観光地化していて宿も決して安くないし、そこで安いTシャツを買ったりするような、バックパッカーごっこみたいな消費が存在しますよね。もちろんタイでブランド品のパチモンとかパクリTシャツを買うのが楽しかったりもするんですけど(笑)。で、そうすると次は「バンコクなんて都会だから、やっぱり田舎っしょ」という、金城のような発想も登場してくる。

ハン 金城は、そういう彼にとっての「楽園」を永遠に探し続けるんでしょうね。

鈴木 一方で主人公のオザワは現実的に考えて、イサーンに馴染めないことを判断していたんだと思うんです。そこも周辺化してない態度だと思って。

◎空虚な存在・オザワの、他者を消費しない自分探し

ハン 富田克也監督が主人公のオザワを演じていますが、オザワはマッチョじゃない男性ですよね。よくわからない、空虚な存在になっている。ラックとオザワの関係も不思議で、ラックの昔の客だったのか、付き合っていたのか、曖昧なままになっている。そもそも、金のないオザワがああいう場所でモテるはずがないから、ラックにとってオザワは他の男とは違う何かがたぶんあって……。

鈴木 ラックの勤める店があるタニヤ通りみたいな場所では、日本人の男性の方がお金を持っていて、女性たちの頬を札束で叩くようなことがあってもおかしくない。なのに、対オザワの場合、むしろラックのほうがお金を持っている。この逆転もこの作品のおもしろさだと思います。

ハン 私は、オザワは格差社会の負け組がネトウヨにならずに、アジアとどうやってかかわることができるのか、というひとつの道すじを示しているのかもしれないな、と思ったりしました。

最初に鈴木さんが周辺化とおっしゃっていましたが、周辺化って、他者を受動的な存在とみなすということで、表象においては、他者を自分のために消費することになります。昔だったら『深夜特急』を読んで世界を旅するみたいな、自分探しのためにアジアに行くような人たちは、自分のためにアジアを消費してしまっているところがある。

鈴木 いまだにあの本がバイブルだと言う人もいますよね。若者でも。

ハン でもオザワにはそういう空気を感じない。かといって、「パレスチナに行って世界革命するんだ!」みたいな大義名分ありきの実はマッチョな自分探しをしているわけでもなく、とはいえアジアのために頑張ろうという「井戸掘りボランティア」みたいな感じもまったくない。そのうえで、だからこそなのかもしれないけど、ラックみたいなアジアのセックスワーカーを消費せずにフラットな関係を築けている。なぜオザワにそれが可能なのかはまだよくわからなくて、言ってしまえばそれを考えたくてこの対談を引き受けたところがあるんだけど、オザワのよくわからなさ、空虚さは、それこそ空族が『サウダーヂ』で描いた負け組のネトウヨ化とは違った、ひとつのモデルを示しているのではないかと思ったんです。そりゃまあもちろんみんながネトウヨになるわけではないんだけどね。ということで、この映画に出ている日本人男性は誰一人自分探ししていないかも。

鈴木 えっと、まあ……金城とかは(笑)?

ハン ああ、金城か。あれも自分探しなのか。でも古いタイプというか、唾棄すべき植民地主義の象徴として描かれているような気がする。しかし違う意味で空虚ですね、あれは……。そういえば日本人の中にも格差がありましたよね。金がある日本人と、オザワみたいな金のない日本人がいて。

鈴木 以前は会社勤めをしていて、いまはタイで便利屋をやっているというキャラの菅野なんて、沈没組(駐在や観光といった本来の目的から外れて現地化する人々)って言われていましたよね。

ハン そうそう、菅野やオザワは、自分探しをする余裕もなくなっている。自分探しをしないこと自体は、いいことなんじゃないかと私は思っています。

鈴木 ラックたちを指して、しんちゃんが「生きるのに必死」と言うセリフもありましたよね。しんちゃんは、自分探しなんてしてなくて、「外から来た人間」と優位性をわきまえているような態度が好ましかったです。わたしの知っているバンコクに住む日本人は、そういう人も少なくない。

ハン その差異に敏感なのは大事ですよね。マジョリティのくせにアイデンティティとか言ってる場合じゃないだろ、と正直思いますし。だから彼らは、タイの女性をたくましいと言って消費するようなことはしていませんでしたね。

鈴木 この映画の良いところは、さっきハンさんもおっしゃってたように「娼婦は女神」「娼婦は天使」みたいな神格化をしていなくて、彼女たちの中に、ドラッグにハマって堕落していくような女性を描いてもいた点ですね。社会的に不安定な存在が快楽に溺れる、というのは日本でもありうる。

ハン だからこそ対等というか……本当に対等と言っていいのかについては慎重でなくてはならないけれど、少なくとも周辺化はしていないし、消費していないように見えました。

鈴木 ただ一箇所引っかかったシーンがあって……不動産調査の依頼を受けて、今からラオスに行くと言うオザワに、ラックが怒るところです。あのシーンでのラックの、「おまえ! おまえ! おまえ! 自分! 自分! 自分!」っていう叱責、あれは今まで出会ってきた男たちへの怒りの集積だと思ったんですよね。ラックは、客から婚約をほのめかされるメールをもらったり「愛してる」と言われたり、互いの人生にコミットするようなそぶりを見せられているんだけど結局みんなどこかに行ってしまう、そんな人生を送ってきたんだと示唆されています。オザワがラオスに行く前に、ラックは休みを取って故郷に彼を連れて行って、家族と馴染んだように見え、ラックは安心してオザワは送り出したのに、そのあと一度も連絡がなかったんですよね。そりゃ、ふざけんなってラックが思って当然。ノンカーイで友人に「誰も私のことを必要としていない」とラックが絶望的に吐露するシーンもあって、とても共感しました。

ハン ああ、あそこ印象的ですよね。そっか、ラック個人の、そして構造的な問題としての、大きな怒り、悲しみのようなものが表現されていたんですね。ただ2人のすれ違いは、オザワとラックの、日本とタイの、いい悪いではなく近代化の度合いの違いでもあったりするのかな、と感じました。経済的にダメになった日本の負け組のオザワと、タイの田舎出身で下層のセックスワーカーのラックの関係は、グローバル化のもとでのある意味アンダークラス同士の出会いでもあるのだけど、自分探しから降りたとはいえオザワは自意識のレベルではよくも悪くも後期近代というか先進国の人っぽくて、ラックはいつか家族をつくって地元に落ち着きたいといったような、言ってしまえば古風な考え方を持っているっていうすれ違いでもあるのかな、と。

鈴木 わたしの話で恐縮ですが、トランスジェンダーで女性化したという点で二重にマイノリティなので、社会基盤が不安定というか、それで恋愛関係に依存というか「誰かに認めてもらいたい」「孤独を埋めたい」という気持ちは想像できるんですよね。なのに「他にも良い人いるよ」とか言われると、目の前の人間関係を軽視していると思えてしまうし、そもそもそんなに選択肢があるわけじゃないよ!って思う。

ハン ああ、わかるって言っていいかどうかわからないけど、それはわかります。私もそういうのある。でもだからこそオザワの肩を持つと、両者の背後にある、大きな構造的な差異を知っているからこその誠実さかもしれない。もちろん単なる男の身勝手を私が深読みしているだけかもしれないけれど。

そういう意味でもこの映画は、空族が作っているし、富田監督自身がオザワを演じているし、やっぱり日本の男の話なんだと思います。周辺化してはいないけれど、とはいえオザワ視点の映画ではある。だから、ラックたちにとってのユートピアはどこにあるのか、彼女たちの目線で、彼女たちの話を、次は観てみたいですね。それは空族の仕事じゃないのかもしれないけど。

鈴木 なるほど。不安定さを解消したくて、古典的な一夫一婦制にハマりたいという発想は理解できるけど、それじゃ根本的な解決にはならないというのは頭ではわかるんです。だけど、先ほど引用した平山さんの論から考えても、稼得能力を得る機会を既得権を持つ側からサポートが目指されるべきだし、弱者が弱者であっても存在できて当然だと思うので、依存関係がダメという見方はしたくないんですけどね。そういう意味でも、彼女たちの「この先」は他人事ではないというか、見てみたいと思いますね。

――ちょっと話を戻してしまうのですが、僕には、オザワは自分探しをしているようにしか見えませんでした。先進国の男性が、なんとなく他の国に行って、目的もなく滞在し、放浪し続けられる余裕って、まさに自分探しなのでは。

鈴木 それは、日本人男性という、ある意味では安定した基盤があるからできる行為で、単に興味があるから行った、とかその程度の話で、先ほどハンさんがおっしゃっていたように「後期近代の先進国の人」という感じがします。いつでも帰る場所があるという前提の上で成り立つような自分探し、とは言えるかもしれません。

ハン 確かに自分探しなのかもしれない。でもそれは人を犠牲にしない、消費しないという意味でいい自分探しのように見える。私は仕事柄、また日本では自分が攻撃される側ということもあって、ネトウヨとか排外主義のことを考える機会が多いというか、考えざるをえないんですけど。今は研究が進んで、必ずしもそうではないと言われるようになりましたが、日本で排外主義が台頭、可視化されてきた当初の2000年代はじめ頃は、格差社会の負け組の承認欲求が排外主義に向かう、という図式で説明されることが多かったんですね。確か10年くらい前、社会学者の大澤真幸氏がその処方箋として第三世界でのボランティア活動を推奨していたのだけど、とくにその後の情勢不安を見つつ、私は懐疑的でした。死の危険をも省みずにどこかの国で井戸掘りしなきゃネトウヨ化を回避できないのか、と。

『バンコクナイツ』のオザワは井戸を掘ってないし、タイにとくに貢献もしてないけど、でもネトウヨにもならず、誰も消費していない。これが自分探しなんだとしたら、ありなのかもしれないと思います。声高に説明されることはなかったけど、オザワはラックをおいて国境地帯を放蕩し、謎の集団や幽霊と邂逅しつつ戦争の痕跡や植民地主義の影を胸に刻み、とはいえ何か行動を起こすのでもなく、タニヤ通りに戻って、1人でダメ男の生活に戻りました。

鈴木 その前に、ノンカーイで金城と再会して、彼に「日本人で良かったですね」っていうセリフがグッときて涙ぐんだんですけど、エア銃を構えるところはかっこつけすぎだろー! と思いましたが(笑)。そのあと、オザワは実際バンコクで銃を買いますが、『タクシードライバー』的というか、やっぱり空虚を埋めるためだったんでしょうか。

ハン うん、たぶんあの銃は1人でダメ男をやっていくための心の支えとして必要だったんじゃないかな。この辺はマッチョの名残というか厨二病っぽいけど、まあ許すか(笑)。なんか私ほめすぎっていうか甘すぎるかな。いやでも、男がみんなあんなんだったら個人的に私はむしろ安心です。そういう意味での不快感は一切なかった。

鈴木 ええ、わたしも不快感はないんですよね。オザワはむしろ好きかもしれない。

ハン 銃といえば、オザワが元自衛官で実際に銃を扱えるっていうのは、結構重要だと思っています。彼がカンボジアでのPKO活動に参加して何を経験したのかは語られないけど、色々と想像させますよね。オザワが何度か英語で自分のことを語るとき、Self Defense Forcesっていう自衛隊の正式な訳語も使っていたけど、単にJapanese Armyと説明した場面もありました。そっちのほうが通じる。そりゃ現実的に考えて普通に軍隊だよね、っていうリアリティをものすごく感じて。そして日本で自衛隊員になる人ってどういう人なのか……。この辺のことが普通に登場する日本映画っていうのも稀有なのではないかな。

◎「配慮した」のではなく、「そう思ったから」が生んだ誠実さ

ハン ベタなんですけど……撮影中の風景とか、役者とスタッフの会話とか、制作の裏側を流していたエンドロールに一番感動しました。ラックを演じたスベンジャ・ポンコンが最後に花束を渡されて照れていたり、現場の様子が楽しそうだったり。嫌いな人は嫌いなんだろうけど、この映画には必要だったと思うんです。悪しきエクスキューズではないかたちで、空族の誠実さがよくわかる映像でした。

鈴木 あのエンドロールはいいですよね。あれを見ると作品がドキュメンタリードラマとして作られたようにも思えてきますよね。

ハン 私は、空族は知的なフィールドワーカーだと思いました。現地の人たちときちんと関係を構築して、しっかり調査もして、でもそこに甘えずに適切な距離感が取れている。そのうえで、このような映画を作ることができたと思うんです。

鈴木 誰だって自分の職場に踏み込まれるだけでも警戒しますよね。その上セックスワークという、プライベートを切り売りしているような仕事ですから、そんな簡単に見せられるようなものじゃない。でも空族がそこに入れたのは、現地の人たちとちゃんと人として関わって、誠実に接していったからだと思います。オザワを演じる富田監督はバンコクに1年住んだそうなので、ある程度タイ語は話せるでしょうし通訳が入ったとしても、やっぱり外国語を話す一般人らを、ああいう風に生き生きと映画の中に存在させるには信頼関係が必要です。

ハン 『バンコクナイツ』に感じる誠実さって、個人的にはアーティスト集団のChim↑Pomの作品づくりに感じることと重なるんですよ。最近、ARTiTに載っていた Chim↑Pomの卯城竜太さんのインタビューを読んだのですが、両者に共通して感じる誠実さの源は、インディペンデントでやっていることにあるのかもしれないと思いました。Chim↑Pomは公共の資金や美術館に頼らず、インディペンデントで作品制作を続けています。最近のソーシャリー・エンゲージド・アートと言われるようなタイプの作品は、地域や対象となる問題にコミットしてそこにかかわる人びととじっくり、きちんとコミュニケーションをしないといい作品にならないから、むしろインディペンデントの方が誠実な作品になる、ということが起きているんだな、と。インディペンデントと言っても野放図で自分勝手なのではなく、むしろ他者に対して誠実になっているというところに、空族と重なる部分を感じました。インディペンデントで、誰の指図も受けずにタイに滞在し続けて、きちんと向き合ったからこそ、タイの女性たちを周辺化しない作品を作ることができた。誰かに文句を言われるから、タイの女性たちを周辺化しなかったんじゃない。

鈴木 「自分たちがそう思ったから」ですよね。

ハン たぶん、そうだと思います。インディペンデントだから、お金もないし大変だろうけど、その代わりに締切もなくてコミュニケーションがしっかり取れる。自分たちで何らかの答えを見つけるまで続けることができる。結果的にその方が誠実になっているというのは、今の時代っぽくて、とても面白いことだと思いました。

鈴木 知識をひけらかそうと思ったらいくらでも出来るような映画ですよね。1950〜70年代のベトナム戦争がアジア諸国に与えた影響や、タニヤ通りに限らず、映画では描かれていないけれどナーナやアソックのソイカウボーイといった、バンコクで歓楽街として名高いエリアが生まれた背景については、パンフレットでリサーチの成果として読むことができてとてもおもしろい。でもそういった情報を無理やり入れてなくて、例えばラックの異父弟は、元アメリカ軍人とのあいだに生まれていて、そんな感じで背景にしかおいてない。ほのめかす程度に留めて、観客に対して余白を残していました。

ハン でも「なんだろう?」って気になるように、いろいろなものを投げてきていましたよね。

鈴木 ハンさんが言及されていた、謎の幽霊の描き方もユーモラスだったし、フィクションとしてわきまえているというか、映画表現として楽しませてくれるのが本作のいいところなんだと思います。女性映画とも言えると思うので、ぜひmessy読者にも観てもらいたいですね。
(構成/カネコアキラ)

■鈴木みのり
1982年高知県生まれ。集英社『週刊プレイボーイ』編集者にナンパされ、2012年より雑誌などに記事を寄稿しはじめる。2017年より『週刊金曜日』書評委員を担当。第50回ギャラクシー賞奨励賞受賞(上期)ドキュメンタリー番組に出演、企画・制作進行協力。利賀演劇人コンクール2016年奨励賞受賞作品に主演、衣装、演出協力などを担当。2012年よりタイ・バンコクでSRSを受けるMtFを取材中。

■ハン・トンヒョン(韓東賢)
日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。 専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリ ティの関係やアイデンティティなど。 主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。 著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)― その誕生と朝鮮学校の女性たち』、共著に『平成史【増補新版】』 、『社会の芸術/芸術という社会―社会とアートの関係、 その再創造に向けて』など。

最終更新:2017/04/14 20:00
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