「ルールではなくマナー」東急電鉄マナー啓発キャンペーンの伝わらなさ

2017/01/24 20:00

 2016年11月に「車内化粧篇」で物議を醸した東急電鉄のマナー向上キャンペーン「わたしの東急線通学日記」が、再び話題になっている。

 シリーズ広告の「わたしの東急線通学日記」は、仁村紗和が演じる、大学進学のために地方から上京してきたばかりの女性が主人公だ。東急線での通学中、目にしたマナー違反に怒ったり、うっかりマナー違反をしてしまう自分に気づいたりし「誰しもマナー違反をしてしまう可能性がある」ということを学んでいくストーリーになっている。これまで、歩きスマホ篇、車内化粧篇、整列乗車篇、荷物篇、音漏れ篇、座席篇の6篇が発表され、主に東急沿線駅構内へのポスター掲示と動画が公開されてきた。

 今回注目されているのは、2017年1月に公開された「座席篇」。座席篇のポスターでは、東急線に乗車している主人公が座る姿の美しい女性に気が付く動画のシーンが切り取られ、「ヒールが似合う人がいた。美しく座る人だった。」というコピーが添えられている。美しく座るその女性の横には、脚を組んで座る男性と大股を開いて座る男性が座っている(コピーテキストを見せるためか、男性の姿は少しぼかされている)。これまでの5篇と違い、今回はマナー違反をする人ではなくマナーの良い人が中心に据えられているのが特徴だ。

 ポスターに対しては、「なぜマナー違反をしている人に直接訴えないのか」「女性ばかりが『美しさ』を求められているように感じる」「マナー違反している人が、このポスターを見て『直そう』と気付くと思えない」といった批判がみられた。なぜ直接マナー違反者に焦点をあてなかったのか、その理由を東急電鉄の広報担当者に聞いた。

「連続するシリーズの広告の中で、座席篇は、マナー違反についてその改善を訴えるだけでなく『良いマナーに触れたときには、気持ち良く感じる』ということを伝える回にしました。結果として良いマナーのお客さまが増え、より多くのお客様に気持ち良く電車をご利用いただけると考えたためです」

 東急電鉄の思いは、なぜ上手く伝わらなかったのだろうか。

◎ユーザーを信じすぎた啓発クリエイティブ

東急電鉄が座席篇で見せたかったのは「マナーが良い人/悪い人」の対比だ。しかし、2点の見誤りがあって、ユーザーが疑問を感じるクリエイティブになってしまった。

 1つは、座り姿の美しい人を表現する際に「ヒールの似合う人」とジェンダーに触れる表現を使ってしまったことだ。ヒールを履くのは女性だけではないという見方もできるが、座席篇のポスターに登場しているのは女性であろう。女性ジェンダーをメインコピーで打ち出してしまったせいで「マナーが良い人/悪い人」の他に「女性/男性」という性別対比の文脈が生まれてしまった。

 そのせいで、昔から「女の子なんだから脚を閉じて座りなさい」と教育されてきた女性たちの反感を買った(批判者にはもちろん男性もいる)。体格差や周りの目に怯えて大股開きや脚組みをする男性に注意できず、日々我慢を強いられているストレスもあるだろう。怒りというよりも「迷惑しているのはこちら(女性)なのに、マナー違反者には指摘せず、ヒールを履いて美しく座ることまで鉄道会社に強いられなければいけないのか」という落胆を感じた人が多かったのではないだろうか。

 座席篇への批判の中で「なぜ東急は女ばかりに訴えかけるのか」という意見があったが、それは誤解である。「わたしの東急線通学日記」では過去に、音漏れ篇、歩きスマホ篇で主人公が若い男性をダンスで非難する姿が描かれている。また整列乗車篇では、中年の男性に対してもマナーダンスを踊っている。シリーズで見ると、東急電鉄が女性にばかりマナー違反を指摘しているわけではないことがわかってもらえるだろう。

 もう1つは、ユーザーの善意や良心を信じすぎていた点だ。

 東急電鉄のマナー啓発ポスターのコピーには、音漏れ篇で「ダサい」、車内化粧篇で「みっともない」、座席篇で「美しい」と、個人の主観的な美醜の感想と受け取れる言葉が使われている。

「『マナー違反を見たお客様が感じる気持ち』を表現することで、お互いに配慮することの大切さに気付いていただきたい、共感していただきたい、という主旨でシリーズを制作しています」

 東急電鉄の意図としては、コピーで表現したのはあくまで主人公の気持ちだった。

「どんなにカッコいい音楽を聴いていても、音漏れしてたらダサいなあ(自分も気をつけよう)」
「あの女性は、座っている姿がきれいだな。ヒールも似合っていて素敵だな(私もああなりたい)」

 見る人にそんな共感が生まれることをはかり、マナー意識の向上を狙ったのだ。ユーザーには、主人公と同じ視点に立つことが求められていた。

 しかし、電車内で主人公と同じように気付きを得られる思考を持つ人は、すでに日常生活の中で気付きを得ている。日常で気付きを得られない人は、ポスターを見ても気付けない。前者のマナー意識ばかりが向上してしまい、マナー意識に差が生まれてしまっているのが現状だ。実際に隣に座っている人の不快感に気付けない人も、ポスターを見れば気付いてくれる(かもしれない)。そんなことがあるだろうか。東急電鉄がユーザーの良心を信じてくれたことは嬉しいけれど、現実はそう上手くはいかない。

 Twitterでは、批判者に対して「東急側の意図が汲めない方がおかしい」と指摘する人もいた。だが、今回は批判者の多くが東急の意図を理解していたと思う。その上で、やはり「このアプローチでは、届いてほしい人に届かない」と感じたため、声が上がったのだろう。

 東急線を利用する男性にもポスターを見てもらった。彼はすぐにこのポスターの意図を理解し、ぼかされている足癖の悪い男性2人の姿にも気が付いたそうだ。この啓発で電車内のマナーが改善されると思うか聞いてみた。

「でも、もしマナー違反をしている人に行動を変えてほしいならば、もっとインパクトがあって尖った表現にしないと目に留まらないと思う」

 東急電鉄は広告制作で意識した点について「インパクトを与える表現を目指した」と答えた。そのインパクトも、マナーを意識している人ばかりが食らい、マナー違反をしている人がノーダメージでは困ってしまう。

◎期待し合う鉄道会社とユーザー

〈マナーの基本は、相手を思いやり、尊重する心を、自然でスマートに実践することです。〉
(『改訂版「さすが!」といわせる大人のマナー講座』p.16)

 マナー啓発の難しい点は、思いやりや人を尊重する心を持ってもらうように誘導しなければならないことである。ただ「○○してはいけません」というだけだと、マナー啓発ではなく命令やルールの徹底になってしまう。実際にマナー違反をしている人びとに対して、この言葉はどれほど響くだろうか。そう考えると、東急電鉄のポスターが表現しようとチャレンジしていたのは、まさに「思いやりの醸成」だった。単に「大股開きはやめましょう」だと、マナーではなくルールの話になってしまうからだ。制作者は、マナーとは何かについてよく調べたのだと思う。

 反面、そんな悠長なことは言っていられないというのがユーザーの心情だった。

 東京で暮らしていて、電車内で他人に「迷惑だなあ」「困るなあ」と思ったことがない人は少ないだろう。1人で1.5人分もスペースを使うような大股開きでの着席、脚を組んで他人を蹴ってしまったりつまづかせたりすること。注意するのは怖いし、注意しても「何が悪いんだ」と逆切れされたら嫌だ。インターネットでは「男は睾丸を冷やす必要がある」「女と違って男の脚は勝手に閉じないんだ」とトンデモな言い訳まで出てくる始末だ。そんな現状に嫌気がさしていた人たちに「鉄道会社側がきちんと注意してくれたらいいのに」という願いがなかったとは考え難い。

〈「マナー」「礼儀」は社交上の心、「エチケット」「作法」は社交上の型や常識的なルールのことであり、それらが車の車輪のように整い、バランスよく発揮されてこそ相手とよりよい人間関係が築けるのです。〉
(『改訂版「さすが!」といわせる大人のマナー講座』p.17)

 ユーザーの良心や善意を信じ、啓発による「気付き」でマナー改善していきたい鉄道会社。電車内で生じるストレスに疲れ果て、鉄道会社や警察などにルールの徹底を願うユーザー。今回の座席篇では、そんなお互いの期待がすれ違ってしまった。ユーザーの善意に頼るマナーと、鉄道会社が主導するルール。互いの信頼のためには、その境界をはっきりさせ役割分担することが必要だ。

 例えば、イギリス鉄道警察(BTP)では性的迷惑行為を取り締まるキャンペーン「Report It To Stop It」(通報してやめさせよう)を展開した。

 キャンペーンサイトの中で「通報する際に、それが犯罪行為なのか、そもそも故意だったのかを証明する必要はありません。BTPがあなたに代わって調査します」と役割分担を明確にしている。ユーザーに望むことと、鉄道会社側(この場合は鉄道警察側)の対応範囲がわかりやすい。

 日本の鉄道会社も、まずはぜひ「ここまではルールでなんとかします、ここからはみなさんのマナーで解決してほしい」という意思表示をしてもらいたい。きっとその方が、ユーザーに当事者意識が芽生えるし、鉄道会社を頼りやすくなるはずだ。

◎ユーザーをハッと気付かせる勇気

 多くの人にハッと気付いてもらう広告クリエイティブは難しい。

 特に交通機関という公共の場では、年齢や性別、教育の深度などバックグラウンドの違う人がごちゃ混ぜに存在している。そのため、ターゲット設定が難しく、狙う的が広すぎるために「刺さる広告」を作るのは至難の業である。

 東急電鉄は、「わたしの東急線通学日記」の動画でダンスを用いた理由について「印象に残るようインパクトのある表現を取り入れた」と回答した。確かにインパクトはあったが、そのインパクトの力を生かしきれず、ユーザーがハッと気付く体験を得られなかったのが残念だ。

 ユーザーの良心や善意を信じる東急の姿勢は素敵だ。しかし、見る人の心を刺しハッと気付かせるためのインパクトを持つ広告を作りたいならば、制作者側には、ターゲットをグッと絞る勇気も必要だ。

むらたえりか

最終更新:2017/01/24 20:00
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