妄想・幻覚もひとつの「現実」である・統合失調症患者の「現実」とゆらぎ――卯月妙子『人間仮免中』『人間仮免中つづき』

2017/01/20 20:00

 初めて自殺未遂をしたのは中学3年生。20歳で結婚し出産するも、ほどなく夫の会社が倒産。借金返済のためにホステス、ストリップ嬢、そしてAV女優として働き、スカトロ系などの過激なAVなどに出演したことでカルト的人気を獲得。代表作は、排泄物や吐瀉物やミミズを食べる『ウンゲロミミズ』。しかしその後、夫が投身自殺し、幼少期から悩まされてきた統合失調症が悪化。自傷に他傷、・殺人欲求などの症状により精神病院に入退院を繰り返し、新宿のストリップ劇場では、舞台の上で喉を掻っ切り公開自殺未遂――壮絶な経歴を持つ漫画家・卯月妙子によるコミックエッセイが2012年刊行の『人間仮免中』(イースト・プレス)とその続編で昨年12月に刊行された『人間仮免中つづき』(小学館)です。

 『人間仮免中』は、「統合失調症」を患う作者と、内縁の夫・ボビーとの生活をユーモラスに描いた漫画ですが、その内容は、統合失調症の陽性症状である幻覚や妄想に、躁状態での歩道橋からの飛び降りによる顔面崩壊……と波乱万丈。しかしこの漫画は、いわゆる「闘病記」や「統合失調症の体験記」といったものではありません。読み手の側からどんなに異様に見えたとしても、これは「卯月妙子の生活」そのものを描いた作品なのです。

 作者は生活のなかで、さまざまな幻覚・妄想を体験します。電車に乗れば、車内の中吊り広告に刷られた「卯月妙子死刑確定」「卯月妙子転落の人生を暴く!!」などという週刊誌の見出しが目に飛び込んできますし、突如として「自分にはカリスマ占い師の素質がある。だからなんでも分かるのだ」という妄想に取り憑かれたりもします。そして投身自殺をはかったあと、入院先で彼女が突入していく妄想の世界も壮絶です。作者を殺す場面をネット配信しようとたくらむ終花看護師(おそらく作者の妄想上の人物)と病院の職員たちの「ボビーとのエッチな合成写真を作って、実名と一緒に公開しよう」「エキサイトに献花台の無料レンタルサイトがあるから(ありません)、卯月妙子のサイトも作ってやろう」という会話。病院内でいきなり卯月妙子のAV上映会が始まったり、同意書を書かされたボビーも病院で一緒に殺されることになったり、謎の占い師が卯月妙子の死ぬまでの運勢を生中継で占いにきたり……とにかく因果関係のめちゃくちゃな、狂った世界が彼女を取り巻いているのです。そんななかで彼女は殺されることになっているわけですから、当然ものすごく恐ろしい。読んでいると、無性に不安な気持ちを掻き立てられます。しかし同時に、どこか吉田戦車の不条理ギャグ漫画のような滑稽さもあって、読者は混乱の渦に巻き込まれたまま、ページをめくることになるのです。

 作者の見ている世界は、いわゆる「正常な」人びとが日常的に見ているものとは大きく異なっています。常識にのっとって考えれば、彼女の見ている世界は「妄想」や「幻覚」――つまり「誤った考え」や「誤った知覚」であると言えるでしょう。しかし彼女にとって、それらはひとつの「現実」なのです。他人と、それも大多数の人間とは別の「現実」を生きること。そして自分にとっての「現実」が、ともに生きる他人には受け入れられないのだとしたら、それはとても苦しいことのように思われます。

「正しい現実」と「誤った妄想」?

 しかし、作者を介護する母親や恋人のボビーは、彼女の見ている世界を否定しません。すずなり荘という物件に住む母親を、隣人の漆原容疑者なる人物が殺そうとしているという妄想に襲われた作者が「すずなり荘にはもう行かないで! 隣に住んでるのは漆原容疑者だよ!!」と支離滅裂な内容の手紙を渡しても、「そんなバカなことがあるわけがない」などとは決して言わないのです。「すずなり荘はとっくに解約して、今はウィークリーマンションに泊まってるから大丈夫だよ!」と、母親を心配する作者の気持ちを汲んだ受け答えをしています。

 また、病室で寝ている状態にも関わらず、劇場の楽屋にいるという認識をしている作者が「お母ちゃん今朝は楽屋に来てくれたのにごめんね。私はSMの仕事で何度も鼓膜をやぶいていて、お母ちゃんがつけたテレビの音がどうしても耐えられないの」という手紙を書いたときにも、そこに書かれていることが正しいか/誤っているかを問題にするのではなく、彼女にとっての「現実」を自分たちの「現実」と並び立つものとして尊重し、彼女が今どのように感じているのか、何を望んでいるのかを汲み取ろうとしています。

 恋人のボビーも、彼女が見たり聞いたりしているものが幻覚であることを指摘しつつも、それが彼女にとっての「現実」なのだということを認めています。『人間仮免中つづき』において、作者はしばしば幽霊の姿を見ていますが、ボビーは「霊っていうのは(統合失調症の)陽性症状だよ。あなたが自己保存のために作り出した世界だ」と言いながらも、恋人が彼らのためにお経をあげることを止めさせたりはしません。彼女にとっての「現実」と、自分にとっての「現実」との間にはズレがあるけれども、それを当然のこととして受け入れているのです。

 私たちを取り巻く「現実」は、刻一刻と変化していくものです。しかし同時に、「現実」の中心にいると思われている自分自身もまた、つねに変動し続けている存在なのだということは、しばしば忘れられがちです。いつでも自分を確かな存在として信用していて、移り変わるのは周りだけだと思っているし、意味や価値のない、無方向な変化を認めたがらない。だから人は齧ったリンゴが酸っぱいときには「このリンゴは外れだ」と考えてしまうのですし、自分の味覚が変動していることなど思いもよらないのです。人の言うことを聞き間違えて、相手の意図とはまったく違う話を頭の中に作り上げてしまうことだってありますし、カーテンをお化けだと見間違えて恐怖を感じることだってあるでしょう。そのとき私たちの「現実」は、私たち自身の変動――それも成長や経験、自分の意思による変化だけではない、「ズレ」や「ゆらぎ」という不安定で一見役に立たないものによって、たやすく揺れ動いてしまうのです。「何かがおかしい」と感じたときには、周囲ではなく自分が変動しているのかもしれない。でも、周囲が変化している場合もある。そう考えると、自分が感じている「現実」が、そしてなにより自分自身が、とても頼りないものに感じられるのではないでしょうか。自分とは違う「現実」の捉え方をしている人のことを、「異常だ」「間違っている」などとは、とても言えなくなってしまいます。

すごいのは「メンヘラの人生」というコンテンツではない

 作者のように何らかの精神疾患を抱えた人びとは、その人生が強烈であればあるほど、いわゆる「メンヘラ」という用語で表されるようなコンテンツとして消費されがちです。現に、『人間仮免中』を評価するレビューの多くは、作者自身の「壮絶な人生」に焦点をあてたものでした。しかし、『人間仮免中』がすぐれて力強い作品であるのは、作者・卯月妙子の人生が壮絶なものであったから――という単純な理由ではないように思われます。

 一度でも読んだことがある人ならば身に覚えがあると思うのですが、この漫画は、読み手の精神を非常に疲れさせるものです。ひとたび本を開けば、ジェットコースターに乗せられたかのような猛烈な勢いに取り憑かれて読んでしまうのに、ページをめくってみると驚くほど進んでいない。読んでいるうちに不安定な気持ちになって、乗り物酔いのようなめまいすら感じてしまう。このような奇妙な現象が起こる理由として、作者の描く世界が、私たちが日常用いている「現実」を読み解くためのコードにのっとっていないから、ということが挙げられます。それはたとえば常識や規範と呼ばれるものであり、こうしたコードがあるからこそ、私たちはある出来事についていちいち深く考えなくとも、ほとんど自動的にそれを解釈し、物事をパターン化・あるいはカテゴライズして捉えることができるようになっているのです。

 ところが『人間仮免中』において描かれる世界では、そのような便利なコードはほとんど通用しません。 常識のコードをひとつひとつ外しながらでないと読み進めることができないのです。今まで自分たちが信じて頼ってきたものを手放すわけですから、どんどん「現実」が、自分が分からなくなる。これは間接的に作者の統合失調症の症状を体験しているのだと言えます。この漫画がいわゆる「闘病記」や「体験記」という体裁を取っていないことも大きいでしょう。『人間仮免中』は、読者に分かりやすく統合失調症の症状を説明し、理解を求めるという類のものではありません。「健常な」人びとに理解を求める「体験記」は、完全に「健常な」言語で書かれるものですが、この漫画の作者は、むしろ「患者の」言語と「健常な」言語のバイリンガルとして「統合失調症」を伝えています。だからこそ、私たちはこの作品を読んでこんなにも心が、感覚が揺さぶられる。つまり、『人間仮免中』という作品の最も優れた、特有な点は、卯月妙子という女性の「壮絶な人生」ではなく、読者の「現実」をゆらがせる、彼女の「筆力」なのです。

 また、常識や規範のコードが通用しないというのは、作者を取り巻く人びとのありようにも言えることでしょう。「1に、この世にあること! 2に、快くこの世にあること! 生き様なんて5番目だ!!」というボビーの台詞にもあるように、ボビーや母親をはじめとする周囲の人びとはみな、「正しく生きる」ことよりも、卯月妙子という個人が「快く生きられる」ことを大切にしており、一見はちゃめちゃで、とても常識的とは言えないものの、温かく愛に満ちた関係を作者と築いていることが彼女の漫画からは伝わってきます。

 彼女を取り巻く人々が、漫画の中で温かく描かれていること。これもまた、「彼女の周囲の人びとが彼女を愛している」という事実だけに回収されるものではありません。娘のためにダメな医師を怒鳴りつけ、退院早々彼女が吸いたがっていた煙草を「退院したばかりなんだから」とも言わずに差し出してくれた母親。こうした思いやりも、作者がなんとも思わなければ、作中であのように描かれることはなかったはずです。そして、癇癪持ちで型破りで、でも照れ屋で情に厚くて涙もろくて、卯月さんが大好きなボビー。作中で描かれる彼の姿は、とてもかわいい。ボビーという人間を、漫画の登場人物としてしか知らない読者にも、涙が出るほど愛おしいと思わせてしまう。これもまた、卯月妙子の「筆力」によるものでしょう。

 この本を読んだ人は一様に、「これは、愛の物語だ」と口にしてしまいます。ですが、やはりこれも、卯月妙子という人の人生を指す言葉ではないように思います。愛しい出来事・愛しい人びとを、作品の中に愛おしく描くこと――彼女はそれに間違いなく成功しています。それこそが漫画家・卯月妙子の何よりの愛の証であり、『人間仮免中』という作品を、「愛の物語」たらしめているものなのです。
(文・餅井アンナ)

最終更新:2017/01/20 20:00
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