映画レビュー[親子でもなく姉妹でもなく]

「文化」という階級が女を苦しめる? 『藏』に見る、女たちが手を取り合う困難さ

2016/07/31 21:00

◎立ちふさがる、女の立場と文化
 この終盤の大騒ぎの中で、田ノ内家を飛び出そうとしたせきは、子どもを流産するのだ。「自分の子ではなくとも跡継ぎに」と思っていた子どもが失われたと知って、初めて意造はせきとの離婚を承諾する。ずっと飼い殺し状態にし、「子を持てない女」とわかったら解放してやる、この惨さ。

 せきにとって、結婚とは、家庭に入るとは何だったのだろう。誰とも親密な関係を結べず、子どもを2人まで失くし、何一つ蓄積のないまま歳だけとってまた1人に戻った。烈と佐穂が中心となっているこの物語の中で、彼女の運命はあまりにも報いがない。

 盲目というハンディキャップにもめげず、男が稼業を継ぐという「家」のあり方を、自ら変えようと力強く生きた烈と、彼女を懸命に励まし支え続けた佐穂。その関係は美しい。だが、彼女たちのシスターフッドに、せきは参加できなかった。烈と佐穂の間柄があまりに緊密すぎたからだろうか。それとも、「妻の立場」を目前でせきに取られた恨みが、佐穂の中にずっと残っていたからだろうか。

それだけではないと私は思う。もっとも深い亀裂は、それぞれの属する文化の違いからきていたのではないか。

 良家の出身で良妻賢母教育を受けて育ち、賢く品格があり周囲の信頼も篤く、はみ出た振る舞いは一切しない佐穂。一方、貧農の出身で、三味線と歌は得意だが、それ以外の教養は何もない、言動も田舎者丸出しの芸妓上がりの女、せき。文化=階級の溝はあまりにも大きい。

 烈という女が男同様に活躍することを応援していた佐穂だが、一方で、「自分と同じ権利を持つ、同じ立場の女」としてせきを認めることは、難しかったのだろう。そういうことは口に出さなくても、相手に自然と伝わるものだ。

 無意識のうちに冷ややかに見下ろす視線であった佐穂と、終始上目遣いだったせき。女が立場や文化を超えて手を取り合うことの困難さを見る思いがした。

大野左紀子(おおの・さきこ)
1959年生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2002年までアーティスト活動を行う。現在は名古屋芸術大学、京都造形芸術大学非常勤講師。著書に『アーティスト症候群』(明治書院)『「女」が邪魔をする』(光文社)など。近著は『あなたたちはあちら、わたしはこちら』(大洋図書)。
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最終更新:2019/05/21 16:49
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