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【messy】

女なんか大嫌い。父の世話を焼く母をも見下した少女戦士の陶酔とミソジニー

私という女の心の中には、巨大な男根がそそり立っている。連載初回では、その男根の正体である「父由来のマチズモ」の説明をしたうえで、自分の問題の焦点付けの重要性について述べた。さて、本題はこれからだ。

「父由来のマチズモ」は、女性および女性性との相性が、すこぶる悪い。父から娘に伝承された言葉の中でも、娘が他者、特に男性を侮辱する目的で頻用した差別用語が「女々しい」である。この言葉は、女を心底馬鹿にしている男性優位主義、男尊女卑の象徴、いわくマチズモの権化だ。

◎父の女性観

 父の口から、直接的に女性を卑下し、口汚く罵る言葉を聞いたことはなかった。が、やたらと「男たる者」の美学を誇示するあたり、自分が男性であることのプライドや優位意識に執着していたことは間違いない。あるいは、それが彼のコンプレックスであったとも考えられる。なぜなら、彼は姉2人を持つ末っ子長男で、その母(私の祖母)は髪結いの師匠として自宅で美容院を営んでおり、女性のお弟子さんもたくさん出入りする「女だらけの環境」で育ったからである。家庭には父の父(私の祖父)もいたが、日中は仕事で外に出ているため、父一人が家中にいる唯一の男としてたいそう可愛がられ、女たちの姦しい干渉にうんざりしながら毎日を過ごしていたと聞く。

 そんな父の境遇を思えば、男性率の多い家で育った者と比較して、女に幻滅したり嫌気がさしたりする機会は格段に多かっただろうし、反動より「男気溢れる世界観」に執着するに至ったと考えることも無理筋ではない。ちなみに、父が授かった子どもは私と妹の2人姉妹だ。男子の誕生を望んでいたそうだが、ままならなかった。

 父は、男系の仲間を欲し、第一子である私に「男同士のマッチョな付き合い」を求めたのか。あるいは、長女を疑似長男と看做すことによって、己の「男たる者」の遺伝子継承を目論んだのか。すでに父は亡くなっているので、真相を確かめようがないのだが、彼が、女性として生まれた娘の人間性の尊重よりも、自己都合による「男気」の移植に執心した事実は揺るぎない。結果的に彼は、最愛の娘と公言して憚らなかった私を通じ、女性および女性性を侮辱したこととなる。

 ところが、当の私に侮辱された意識はなかった。むしろ「女子どもが容易には介入できない」とされている男気の世界に、女子どもの分際で介入している自分に特別意識をもった。誇らしかった。いわゆる「名誉男性」と呼ばれる女性の心境だろうか。己の男性性に優位性を感じた。そして、女を嫌い、夫唱婦随の精神で父の世話を焼く母をも見下した。

 私は自分を生んでくれた母さえも「父由来のマチズモ」のフィルターを通して見ていた。つまり、私は彼女を、己の男根バイアスを根拠に侮辱してきた。その詳細については、長くなるので機を改めて述べたい。本稿では、あくまでも他者である女性総体の認識について記す。

◎歪んで継承された女嫌い

 女だてらに「男たる者」を移植されると、嫌が応にも男と女の二項対立を意識せざるを得なくなる。両者の対比をさほど意識しなくてよい環境で育ち、自分の性別やポテンシャルを自然な形で受容した者の中には、「男であること」「女であること」を対立させたり、どちらかに頑にこだわったりする心情がいまいち分からない方もいらっしゃることだろう。が、それもまた環境由来の思考バイアスであり、こだわる者にも、こだわらない者にも、各々「そう仕上がった背景」があるというものだ。

 私の場合は、父由来の「男らしさ」「強さ」を根拠に、自分の「女らしさ」「弱さ」を排除する、今となっては不自然としか言いようのない活動に熱中した。しかも、嬉々として。しかし、いくら「我は男たる者」と己を鼓舞したところで、等身大の私はただの幼い女児である。たまには誰かに甘えたい。弱音だって吐きたい。そんな自然欲求を我慢することが、女たる者が男たる者になるための試練である。よって、はりきって堪える。つい堪えきれずに泣こうものなら、「女々しい」の叱咤と共に父のビンタが飛んで来る。この時、父を憎むことができれば諸々の葛藤は生まれなかったと推測する。が、如何せん真剣に彼を敬愛していたため、ビンタを食らうごとに「ありがとうございます。押忍」と真顔で謝辞を述べた。いわく体育会系マチズモの極みである。

 精神の男根をせっせと磨く一方で、女性としての肉体が成長していく。早熟だった私には10歳で生理が来る。ひどい生理痛にも悩まされる。胸も膨らむ。痴漢にも遭う。自分本来の女性性が、嫌が応にも可視化されていく。自分が女であるという動かしようのない事実に失望する。私が男ならば父のロジックを無理なく全う出来るはずなのに、女ゆえに、ままならない。どうして女として生まれて来てしまったのか。性別に罪悪感を覚え、己を責め抜く内罰過程において、外罰傾向が増す。

 女は、弱い(と思い込まされている)。だから、嫌いだ(自分の女性性を嫌悪している)。すぐに泣くし、甘える(泣くな、甘えるな、と教育されている)。女は自らの弱さを「女だから」との理由で正当化する(それを私は許されない)。――私が嫌う女とは、私が蔑ろにしている私の女性性である。嫌う根拠は我に在る。その事実に気づかず、または見て見ぬふりをして、「女嫌い」の安直な暴論を振りかざす。いわく、女は仮想敵。それを歴然とした「外敵」扱いするためにはどうすればいいか。簡単だ。「ほら、見てみろ、やつらは気持ちの悪い生き物だろう」と、他人事を眺める客観視点を用いて自分に言い聞かせてやればいいのだ。

 だいたい女は、必要以上に他者に粘着しすぎる。べたべたと群れて、干渉し合い、「みんな一緒」の同調圧力をもって他者を制圧せんとする。「いや、私は一緒じゃなくて大丈夫です」と言おうものなら、集団ヒステリーを起こして「異なる者」を断罪する。そういう男もいる。女性性が強いのだろうか。いずれも、強者に擦りより、媚び、保護を求める。金や安定や保証を得るために、自力で努力せず、他者より冨を奪取せんとするさもしい泥棒根性を「幸福」と呼ぶ。とんだ茶番だ。

 いやいや、こちらこそ自己由来の偏見のうちに他者をからめ取っているわけだから、無礼千万の沙汰である。無論、偏見を根拠に特定の誰かを憎むつもりはなかったが、どうにもこうにも「女性性のエネルギーが気持ち悪い」。いわゆる同族嫌悪は、自己内の葛藤の証。他者への嫌悪は、管理しきれない自己嫌悪のミラーリングに他ならない。よって、凝視に耐えない。

◎保護する女

 思春期にもなると、モテ市場原理に則って女を商品化する世の風潮を毛嫌いし始めた。男に保護を求めて媚び、自分を高く売ろうとする女を「人でなし」と呼び、軽蔑した。本来の自己を無視し、商品としてのペルソナを生きるとはつまり、市場制度の傀儡である。人間の尊い命が、純粋なる魂が、たかだか制度に負けるとは、なんとも悔しい事態ではないか。とはいえ、旧来の婚姻制度において親に高値で売られる娘とは異なり、自らの意志で、率先して市場にエントリーしている女性に対して、そう気楽に文句を言えたものでもない。如何せん、人間は全員別人だ。幸福論も人それぞれ。私はそれが「嫌い」だから踏襲しない。ただそれだけのことだ。

 何より、女子供は弱い生き物。強い保護者を必要とする。成人して親の保護下より離れた娘が、他人である男性に新たなる保護者としての「頼り甲斐」を求めることは、よくある話である。しかし、だ。成人のくせに、いつまで被保護者でいるつもりか。情けない。ダサい。私は絶対に、他者には保護されない。父の代替えも要らない。だって私は、単体で、超強い。

 と、いうことは。自分事としては「保護されない女」として黙々と生きるとして。他者との関係性においては、超強いこの私こそが、か弱き女子どもを保護する存在となるべきではないか。男であっても、世の荒波に揉まれてめそめそしがちな者にはすべからく手を差し伸べ、守ってやるべきなのではないか。私なら、きっと出来る。がんばれ、己。と、いうわけで、弱いものいじめをする者や、他者の弱みにつけこむ卑劣漢をやっつける少女戦士、ここに誕生。女子どもは、全員私の背中に隠れていろ。弱者を卑下する者は私がぶっつぶす。と、威勢のよい台詞を吐く娘と仕上がったわけだが、今思えば、やっていることはただのヒロイズムへの自己陶酔でしかない。

 この「男たる者、弱い者を守ってなんぼ」とする言い分は、男であることに優位意識を抱いている男だけが大好きな強者論だ。いわく、「俺の強さ、どうよ?」とアピールしたいがために弱者層を捏造し、見下す、男尊女卑的マウンティングの一種である。同じ男の弱さも見下す一方で、「想定外の強い女」(仮想敵)が登場しようものなら、束になってつぶしにかかる、男の風上にも置けない行動に打って出たりもする。情けない!

 そう、古の「男気」とは、誇示すればするほど、そこそこ情けない様相を呈するものなのだ。私自身も、同性である女性を、結構な勢いで馬鹿にして来た。そうでなければ「あいつら、弱いから、守ってやろう」などという、見下し目線の陶酔思考は生まれない。男性に対しても、己の精神にそびえ立つ男根をもって闘いを申し込み、「おまえのしょうもない男根では、私には絶対に勝てない」と侮蔑する。他者を侮辱して自尊心を満たす活動は、言うまでもなく、心根の弱い者が選択する方法論である。

◎核を受容し、原風景を交換する

 私が見下してきたものの正体とは、私の心の中にある弱さ、ただそれだけだ。そんな己との闘いに、無関係である他者を巻き込む最中、強さと弱さ、男性性への愛着、女性性への嫌悪など、いくつもの矛盾に苛まれながら自他を攻撃し続けた。その状況をいまいち把握しきれていないからこそ悶々とするばかりの私に、「あれ、私って、女なんだっけ? 男なんだっけ? どっちだっけ? もはやどちらでもないの?」と疑問を投げつけたものが、男性との恋愛であった。

 心に男根がそそり立つ己を「良し」とする女の恋愛というものは、自分で言うのもなんだが、なかなか大変なものである。如何せん、男性のことを「すっごい好きになっちゃった♡」自分が、「すっごい気持ち悪い」のだ。しかしながら、その違和感こそが私に本来的なセクシャリティと後付けのメンタリティの歪みを自覚させるトリガーとなり、男と同化しようとしていた不自然さを有り体に受容する好機となった。恋愛については、こちらもまた機を改めて記したい。

 私という人間に与えられた父の影響はマチズモだったが、父親の干渉の仕方次第では、男性不信を訴える女性もいると推測する。母親の干渉の結果論によるマザコンや女性不信もしかり。男女問わず、子どもにとって、異性と同性の混在する社会を初めて知る場が、家族である。父のみ、母のみの家庭であれ、人工授精であれ、男女の遺伝子の結合がなければ、人間は生まれない。よって人間は、各々に与えられし命を根拠に、異性を意識する。

 後、個々の趣向性や自立心の発芽、異なる他者と触れ合う集団生活を通じ、「誰かの子」である自分に植え付けられた価値観を知る。愛情と欠落の存在も知る。血縁者ではない、尊敬する他者に感化され、その人をトレースする人生に執心する人もいる。お国柄や時代性も人間の価値観に多大な影響を与える。すべてはケースバイケース。人間は「霊長類ヒト科である」という共通点以外、基本的に「異なる」。

 よって、個々の核にある問題の焦点も、異なる。そうたいそうに「問題」とせずとも、他者の影響を受けずに生きる人間は一人としていないので、各位の心の核には必ず「誰かに拠る何か」がある。二村ヒトシ氏のお言葉を借り受けるならば、「穴」がある。それを形成した背景がある。その原風景を交換し合うところから対話を始めれば、他者の人間性への理解の強度は深まるだろうし、無駄に他者を憎まずに済むのではないかと、今さらながら、考える。それが、自他に寄り添って生きるための大前提であり、己のマチズモバイアスの鎧をようやく外した私が、これから真剣に取り組まなければならないタスクでもある。

■ 林永子
1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。

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