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 私の性別は女性である。身体にペニスはなく、子宮と生理がある。恋愛感情および性的欲求を抱く相手は、男性である。つまり、心身ともに女性、異性を愛するヘテロセクシャルとして生きているわけだが、それとこれとは別の精神論として、心の中に男根を所有している自覚がある。

 私の男根とは、何か。それは、敬愛する父に「男たる者、いつでも毅然としていろ」と言われて育った娘の心中にて、すくすくと肥大化した男性性を差す。いわく「父由来のマチズモ」が、私の思考回路や感情反応の土台を形成し、自分を厳しく律したり、他者の人間性を判断したりする価値基準として機能して来た。

 その影響について、先月行った二村ヒトシ氏とのトークイベントにて述べたところ(男は妻を「母」にし侮辱するが、真の「母」を侮辱することはできない/二村ヒトシ×林永子『日本人とセックスの解体』)、「人間の『心の穴』を看破する達人」でいらっしゃる二村氏のご指摘通り、「女性である私の『心の穴』には、巨大な男根がそそり立っている」という事実を再確認するに至った。

 わずか1時間弱の対談ながら、多岐にわたる議題(恋愛、セックス、男性性と女性性の葛藤、家族愛と性愛の分断、親から受けた影響などなど)が浮上する中、そのすべての土台に根を張るものが、私の場合は「父由来のマチズモ」だったのだと自覚を深めた。同時に、もしかしたら、根はもっと深く、自覚の及ばないところまで接触している可能性もあると考える。そんな自覚不足を自覚するためにも、今一度、自分の言葉で己の「男根」の正体を解体してみたい。

◎甘えられない娘

 父は、娘である私に、軍国主義や武士道、昭和の「男気」といった彼なりの美学を叩き込んだ。本気で男として育てようとしていたわけではなく、「俺の趣味に、娘を付き合わせちゃおうっと」程度のノリだったのかもしれないが、本気だろうが半ば冗談だろうが、幼い娘のつるつるの脳に与えた影響は計り知れない。私がくじけそうになった時には「己にだけは絶対に負けるな。弱い者を守る、強い人間であれ」と激励する。めそめそしようものなら「泣くな。女々しい」と、男尊女卑の最たるものである侮蔑用語を用いて叱り、容赦なく往復ビンタを食らわせる。そんな彼の育児方針を、男根主義的スパルタ教育と呼ばずして、何と呼ぶ。

 結果、ものの見事に感化された私は、「強く在る」ことにこだわり、自分の弱さを憎む娘として仕上がった。苦境に差し掛かった際には、「これは修行だ。より強くなるために神が私に与えたもうた試練である」と奮起する。ピンチをチャンスとして切り抜ける胆力が付いたことは大変有り難いのだが、弊害もあり余る。

 私は親にも他者にも甘えることを極端に嫌う娘として成長した。それは「弱いやつのやること」だからだが、幼い子どもにとって「甘えたい」感情は自然な欲求である。私自身も「甘えたい」気分に陥ることがしばしばあった。が、自然欲求を素直に自覚する以前より父のロジックに支配されていた私には、「甘えたい、だから、甘える」とする感情と行動の直結を、全自動的に許容することがどうしてもできない。「甘えたい、だから、堪える」。その不自然な抑圧思考が、己にとって最も自然に受け止めやすいロジックの落としどころであった。

 「堪える」エネルギーの激しさは、先だって発生した「甘えたい」欲望の大きさと比例する。つまり「絶対に甘えるものか」と意気込む心境は、「絶対的に甘えたい」気持ちの反動反射であり、はりきって「堪える」行為こそが「本当は甘えたい」欲望を己に知らしめる悪魔の証明となる。その事実を、子供の頃の私は自覚していなかった。が、自覚があろうがなかろうが、「父のロジックと己の活動の辻褄はあっているが、己の意志との連動が破綻している」という状態は、なかなか気持ちの悪いものである。なんとなくもやもやとする感覚を持て余し、嫌悪する。ついでに嫌悪の対象を「甘え」と定め、拒絶する。そのもやもやの正体は、ある種、自立のサイン、親離れのスプリングボードとして機能する自我の芽生えだったわけだが、ゆえに父への裏切りであると捉え、罪悪感を覚える。それとこれとは別の話として、素直に甘えようものなら父にはり倒されるので、先だって己の言動をより厳しく抑圧する。

 上記、様々な思いに絡めとられた結果、私は「己本来の自然欲求」を無意識の奥底の闇へと葬った。そして、「私は、他者に甘えることが大嫌いな者です。甘えられないのではない、能動的に嫌っているのです。私は誰にも甘えない。助けは求めない。泣かない。敵は己のみ」と繰り返し公言することによって、「それが私本来のアイデンティティだ」と自分自身に思い込ませた。

 今となっては、どうということもない分かりやすいメカニズムなのだが、渦中にあった子ども時代には、その理屈も分からなければ、自力で心理操作を行った自覚もない。結構な勢いで葛藤していたはずだが、父に褒められれば、心は晴れ晴れとし、ますます得意になって偽物のアイデンティティにしがみついた。無論、晴れ晴れとしているのは私が見渡せる範囲にある(と自分が無意識的に制限した)感情のみで、その向こう側には有象無象の葛藤が渦巻いている。そこには、本来の自己が在る。その正体を見て見ぬふりをして、向こう側に隠した感もある。こうした歪みは、父との関係性ではなく、他者との人間関係の中に現れる。

◎無礼の極みマチズモ

 私は、甘えん坊な他者までをも嫌った。体面上の理由は「弱いから」だが、実際は、特に葛藤もせずに甘えられる者に嫉妬したのだ。あるいは、「私は甘えないようにこんなにがんばっているのに、何の努力もしないあいつ、憎し」と逆恨みしたり、「いや、やっぱり甘えるのは良くない。ほら、あいつを見てみろ。みっともない。甘えるの、ダサい」と、反面教師のレッテル貼りを故意に行って、自己正当化を企てたり。いずれも自分の問題に焦点が当たっている心理ながら、意識的、無意識的問わず、自己受容することができず、問題を他人事として客観視したうえで、自己外に逃そうとする活動である。

 人知れず己に闘いを申し込んでいるだけならば、一人で勝手に「独りよがり」の粋を極めていればよい。だが、人様を巻き込むのは基本的に無礼である。上記の「焦点ずらし」はもちろんのこと、私には他者の人間性を、超個人的な基準である「父由来のマチズモ」を根拠に判断する癖が、未だにある。特に男性に対しては、「あいつ男の分際で弱音を吐いている、情けない」やら、「男たる者、いつだって毅然としていろ」やら、「泣くな、女々しい」やらと、私にとっての男の原型である父にかつて浴びせかけられた呪いの言葉をもって、他者の人間性を侮辱しがちだ。

 己の男根バイアスを通過した他者像の印象と、その人本来の人間性は、言うまでもなく別物である。男根バイアスを一旦外したうえで対峙しなければ、純粋評価は導けない。そんな当たり前の道理をついつい忘れ、無駄に混同して文句を言う活動は、相手そっちのけで、自分の脳に向かって自分で文句を言う、文句の自給自足に他ならない。挙げ句、相手を「弱い」とディスっているわけだから、「無礼の極みマチズモ」としか言い様がない。

◎自己の問題の焦点

 そんな己の不備に気が付いたのが、「人間は全員別人だ。個々の人間性を尊重しろ。人格を無視した『役割の型』に人間を押し込むな、この無礼者が!」と吠えるコラムの執筆渦中である。大変なことになってしまった。己のマチズモを根拠に他者をジャッジするような無礼千万な真似をはたらいている私が、一体どの口で人様を「無礼者!」と罵るつもりか。

 大いに反省すると同時に、「人のせいだと思っていることは、だいたいが、自分のせいである」という身も蓋もない天啓を得、非常に清々しい気分にもなった。人様の言動に怒りを覚えた時、いきなり「あいつムカつく」と怒らずに、「あいつにムカついちゃったんだけど、君の何がどう反応しているのかな?」と、まずは己の男根に聞いてみる。すると、自分の執着とは異なる方向性を拒絶したがっていたり、それが実は今の自分に不足しているエネルギーで、認めたくないあまりに抑圧していた事実がうっかり露呈したり。自分の弱点が投影されているようで、いたたまれない気持ちになったり、ただの同族嫌悪だったり。拍子抜けするくらい、しょうもない答えが返ってくる。

 自分で言うのもなんだが、なかなか粗悪な男根である。とはいえ、そう簡単にちょん切って捨てるわけにもいかないので、「しょうもないところを冷静に観察し、褒めてのばしてやろうかな」と考えるに至る。如何せん、己のマチズモバイアスで人をジャッジするような人間である。己の男根を褒めてのばす癖がついたなら、人様の男根をも褒めてのばして差し上げることのできる、優しい女性になれるかもしれない。

 さておき。このように問題の焦点を「自己に紐づくもの」として把握し、一旦内省する癖をつけると、「無駄に誰かを憎まなくて済む」という爽快感を手に入れることができる。言い換えれば、自分が何に悶絶しているのか分からない状態にある時こそ、自己外に存在する他者に、無駄に干渉しやすいということになる。

 他人事に雑に干渉する者は、人様に雑に扱われる。人様を無遠慮に侮蔑する者は、等しく無遠慮に侮辱される。また、他者に迂闊に干渉してしまった自分の落ち度に気付いてがっかりする自覚者の中には、がっかりしたくないあまりに他者を攻撃し続け、自分の落ち度をなかったことにする相殺活動に執心する者もいる。いずれの活動も、例外なく己を傷つける。意識上の作為によって己の自尊心をプロテクトしたところで、己の根底にある問題点を無視している以上、当の問題点自体が自分を責め続ける。他者に向けた矛先は、必ずや己の背中を刺す。

 よって、自他ともに清潔な人間関係を築くために、また、自分自身を救うためにも、まずは「自分に与えられた問題の焦点やバイアスを有り体に自己受容すること」が重要であると、自戒を込めてここに明記しておく。また、もとより「他人事に干渉するよりも、まずは自己を整えろ」と主張して来た私自身が、まだまだクリアに自己受容できていない事実に対峙している現在。社会に生きづらさを感じたり、人間関係に悩んだり、自分事と他人事を混同することによって問題が複雑化したりする方々が多勢いらっしゃるようならば、その根本にあるはずの「自己の由来」を共に紐解く場を共有させていただきたいと考えるに至る。

 そこで、心に男根のそそり立つ女の言い分より始まり、誰もの心に存在している男性性や女性性、家族や時代の環境、価値観等、自己の核を形成する因子と人との関わり合いについて、大真面目に考察する新連載『女の男根』をここに開始したい。いずれは多くの方々の問題の焦点付けのヒントとなるようなコラムを記したいものだが、如何せん、自分の問題を解消できていない人間が、他人事に雑に触るわけにはいかない。よってひとまず、男女観、恋愛観等について、自らの欠落を掘り起こし、改善タスクを実行していく過程を執筆してみたいと考えている。しばらくは、私と私の男根との対話にお付き合いいただければ幸いである。

■林永子/1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。

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