サイゾーウーマンカルチャー大人のぺいじ女同士で消耗するの、やめませんか カルチャー 【messy】 女子会の功罪――女同士で消耗するの、やめませんか 2016/06/22 20:00 「スカッとした」 職場の同僚との女子会帰りに、駐輪場にあったオートバイのカバーに火をつけた女性(31)のニュースは、被害が甚大だったわけではないわりに妙に印象的だった。彼女は「飲み会で恋愛の話になった」「別れた交際相手のことを思い出すなどしてイライラが募った」「火をつけると多少スカッとした」と話しているという。 女子会で何があったのか、そして彼女の心がどう動いたのかは分からない。でも、どんなに女子会が辛かろうと昔の彼を思い出して切なくなろうと、放火をストレス解消法にするのはさすがに飛躍しすぎだ。常軌を逸している。 せめてポテチ一気食いとか、ひとりカラオケとか、ぬいぐるみをサンドバッグにするとか(物騒ですが)、何か他に無かったんだろうか。愚痴れる友達はいなかったのだろうか。彼女の日常はずいぶん孤独なものだったのかなぁ、と同い年なこともあって、つい思いを馳せてしまう。 それにしても、端緒になったのが女子会というのが、なんともイマっぽい。「部署の飲み会で男性上司にセクハラされて」とか「お局様にイヤミを言われて」とかではなく、女子会。本来楽しいはずのものがストレス爆発の引き金になるなんて、なんとも皮肉だ。 ここで今回の事件からは一旦離れて、女子会の功罪について考えてみる。 ◎女子会って……、なに? 女子会――私は、28歳くらいから「女子」の響きが照れくさくて「婦人会」と呼んでいるのだけど、考えてみたら女子会の定義ってほとんどない。女性だけで集まること、以上。 メディアが作り出したのか、女子会には少し「オシャレ」要素のあるイベントのイメージがついている。女性ファッション誌には毎月どこかに「今夜は女子会! オシャレに厳しい女友達の視線を楽々クリアする最新ファッションで☆」などと書いてある。ちょっと洒落たお店で、トレンド最先端のファッションで、イタリアンやフレンチを食べながら恋や仕事の話をして、そして欠かせないのが写真撮影とSNSへのアップロード。女子会のステレオタイプといえば、こんなところだろう。 ◎女子会の罪――幸福と不幸の品評会 ところで、私にとって女子会は楽しいものだ。私はストレスを感じやすいタイプだと自覚しているので、気心しれた友人、ライフステージが違っても風通しのいいメンバー、知り合って間もないけれど、変なことにはならないだろうと予想できるメンバーのときにしか女子会に参加しない。 男性がいないぶん、ぶっちゃけた話もできる(男性が聞いてたら、「こいつら性格悪いんじゃない?」と思いそうな話)。女性特有の体の変化の話もできる。結婚とか出産とか、仕事と家庭の兼ね合いとか、女性が悩みがちなテーマについて語り合える。ベラベラ喋って、ケタケタ笑って、ときに真剣な話もして、「またねー!」と笑顔で別れる。なんだろう、言ってみれば「英気を養う場」だろうか。 でも、周りの話を聞いていると、そう楽しい女子会ばかりでもないらしい。 ある友人は付き合いで仕方なく参加してみたら、笑顔のまま繰り広げられるさりげないマウンティングがえげつなくて、耐え難い2時間だったという。表面的には「○○ちゃん、かわいいー」と褒め合う言葉が飛び交うのだが、彼氏がいるかいないか、結婚の予定はあるかないか、彼氏のスペックはどうなのか、といったありがちでくだらない比較……。参加メンバーの中で、自分のポジションをアピールしあう2時間だったそうだ。 想像すると、さながら「幸福と不幸の品評会」だなと思う。自分の持ち駒を、牽制し合いながらひと駒ずつテーブルのうえに晒し、少しずつパワーバランスが出来ていく。どの駒をどういう順番で出すか、不幸の駒をあえて出して自虐ネタにするのか隠しておくのか、空気を読みながらの駆け引きだ。ここで作用しているのが、「浮きたくないけど、ちょっと優越感がほしい」心理だろう。 日本の女性は、「浮かない程度にみんなと一緒で、でもちょっと違う」ことを望むと言われている。 「悪目立ち」を嫌うため、周囲から浮かないように細心の注意を払う。でも、かといって、埋もれてしまうのは嫌。みんなよりちょっとオシャレ、ちょっと素敵、ちょっと羨ましがられる、その微妙な差を楽しむ。その心理をついているのがファッションブランドの宣伝戦略だと、以前、本で読んだことがある。女子会というのは、男性がいなくて中和されにくいぶん、そういう感情が渦巻きやすいのかもしれない。 というのも、男性がいれば、女子たちが主眼を置くのは「優越感」や「差異の強調」ではなく、「男性ウケ」になる(もちろん、場の種類にもよるけれど)。会話の棘は影をひそめ、男性目線を意識した「いい子アピール」が始まる。しかし異性の目線が無いと、「誰かに向かって自分を売り込む」アピールは必要ないため、棘は復活し、女という同じ土俵にたつ者同士で競う意識がでてくるのだろう。 女子会ではなかったが、こういうコミュニケーションをとってくる人と接する機会は、私にもあった。ハッキリいって、疲れる。私のことを上げているようで、下げてくる。どんなにその手のお互いを比較するような話題を切り上げようとしても、あれよあれよという間にまたそこへ戻る。なぜ……? おそらくその相手は、人と比較せずには自分の位置や価値を確認できない人なのだ。 この人と接したあとの私と、耐え難い女子会に参加した友人の感想は同じだった。「息苦しい…!」 ◎身内同士で消耗するの、やめませんか この耐え難いタイプの戦場も、自分の調子がいいときならなんとか乗り切れるだろう。話は右から左に流して、笑顔をはりつけて、瞑想でもしてればいい。でも、自分の精神力・忍耐力がダウンしているときにいったら、酸欠にでもなりそうだ。ただでさえ自己評価が下がっているのに、傷口に塩を塗らないでほしい。 もし、冒頭でふれた事件の犯人の女性がこの耐え難い戦場で日夜(仕事中も、就業後の女子会中も)酸欠になっていたのだとしたら、ほんの少し、ほんの少しだけ、気の毒な境遇だなとは思う。だからといって放火したことの免罪符には決してならないけれど。 最近SNSでの周りのリア充ぶりと自分を比べて落ち込むという「SNS疲れ」が、精神衛生上良くないと取り上げられているが、「女子会疲れ」を起こしている人もいるかもしれない。 ただでさえ、女性が「恋愛しろー」「結婚しろー」「産めー」の呪縛から逃れにくい世の中。最近では「輝けー」とまで言われるようになった。そのためのインフラやチャンスも整っていない今、女同士で小競り合いしている場合じゃない。 生き辛い世の中で、お互い慰めあい、励まし合い、ときには叱り飛ばし合いながら、女性の人生を共に満喫していきませんか。それを実現するために、まず他人と比べずとも自分の価値を信じられる自尊心を、きちんと身に着けることが、社会からの抑圧につぶされないひとつの方法ではないかと私は思う。 (吉原由梨) 最終更新:2016/06/22 20:00 次の記事 『ジャニーズ野球大会』でサンチェ発見? >