クソ無責任ヒーローだけどチャーミング、『デッドプール』の絶妙なバランス

ここ一年くらいでしょうか、「正しさ」に対するアレルギーのようなものを持っている人の存在を、ツイッターや実際に交流のある人たちから感じます。自分も、きれいな感情だけを描いたものにだけ賛辞を送るのは何か違うとも思うし、正しいことを言っているつもりが実は間違ってた……というときシャレにならないかもしれないとも思うし、「過激な表現に目を背けるようなヘタレじゃないし!」という意識はどこかにあります。

正しさへのアレルギー傾向が強くなったのは、ハリウッド映画、特にディズニー映画にPCが描かれるようになったことは無関係ではないでしょう。しかし制作側も、受け取る側の「正しさアレルギー」をくみ取っていて、1年~2年前と今とでは、語るべき正しさが違ってきています。

例えば『ズートピア』で、差別されていたうさぎの主人公のジュディが、差別する側にもなり得るということを描いていた点は象徴的です。善と悪がはっきりしすぎていると、一方に偏っているように見えて反発を呼びやすく、両面が描かれていれば、見ているこちらもいろいろな解釈を考えることができます(そこにあまりにも隙がないとまた反発が起こりますが)。

最先端の制作の現場は、こうして「正しさ」の描き方を更新しているのですが、正しさを押し付けられているような窮屈さがまだ気になるという観客もいるでしょう。その反動として、「正しさなんてクソくらえだ、人には悪の部分はあるのだ」という気分が大きくなりつつあるようにも見えます。昨今、暴力が描かれた日本映画がたくさん作られたのも、間接的には関係があるのではないかと思います(この連載では、『ディストラクション・ベイビーズ』などを取り上げてきましたし、ほかにも『ヒメアノ~ル』や『シマウマ』などがあります)。

現在劇場公開中の『デッドプール』も一見、「正しさアレルギー」の空気に合った作品のように思っていました。というのも、この映画の宣伝では「クソ無責任ヒーローですけど、何か?」という言葉が選ばれ、「こんなヒーローを待っていた! お行儀のいい正義の味方はもう古い!?」と、このヒーローが「正しさ」とは正反対の立場の人だと伝えていたからです。私もその宣伝に惹かれて(というか、クソ無責任ヒーローがどういう描かれ方をしてるんだろうと思って)見に行きたくなったのも事実です。

この物語の主人公は、かつて特殊部隊の傭兵だったウェイド・ウィルソン(ライアン・レイノルズ)です。特殊部隊を引退した後、悪いやつを懲らしめながら気ままに生きていた彼ですが、娼婦のヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)と出会い、結婚を決意した途端、ガンに犯されていることを知ります。絶望の最中、突如現れた謎の男に「末期ガンが治せる」と囁かれたウェイドは、ヴァネッサのもとを静かに離れ、謎の組織を訪ねることにします。組織の正体は、人体実験によって特殊な能力を得た実験体を世界に売り飛ばすという闇の組織でした。ウェイドはエイジャックスという男に度重なる拷問に等しい実験を課されます。その結果、ウェイドは銃で撃たれようと、手が切断されようと回復する特殊な肉体を手に入れましたが、副作用で全身の皮膚がただれてしまいました。ウェイドは、自ら「デットプール(死の賭け)」と名乗り、ただれた皮膚を治すためにエイジャックスを探し求めるのでした。

◎ウェイドのどこがクソ男?

デッドプールは、エイジャックスを探すためなら、彼のことを知る人や彼の側にいる人は容赦なく殺していきます。よくいるヒーローとは違い、彼は誰かのための「正しさ」がもとではなく、個人的な感情が行動原理になっています。でも、それが観客に受け入れられるのは、何か彼なりの基準や道理があるからでしょう。

例えば、デッドプールが暴力をふるう相手の多くは男性ですが、初めて女性に暴力をふるうシーンで、「ここで殴るのが正義か、殴らないのが正義か」と、ユーモア交じりで観客に問いかけます。

これは、タランティーノの『ヘイトフル・エイト』で描かれたことにもつながるものでしょう。女性であれ男性であれ、同じ条件下にいるとき、女性だから/男性だからでその対応を変えるのが是か非か。それは暴力を行使する場面でも同じなのかということです。状況によって、判断は難しいことですが、そんな問いかけもある映画です。解説してる自分がダサい感じがしますが。

ほかにも、国際女性デーのセックスシーンなど(これはもう説明するのも野暮なので見てください)、高度な笑いと問いかけがちりばめられているこの映画。でも、これらの問いかけやジョークは、女性を揶揄するというよりは、女性をめぐる状態に対して観客と共有するくらいの気持ちで見れました。「こういう今の風潮、息苦しくてやだよねー」というよりは、「これくらいのラインわかってやってるんですよ」という感じでしょうか。

というのも、『デッドプール』にはミソジニーがなくて愛情深さを感じるのです。例えば、ウェイドの行きつけのバーで抗争が始まりそうなとき、ウェイドはブロウジョブという甘ったるいカクテルを頼み、それを女性に渡して危険から回避させてあげます。また、バーで娼婦のヴァネッサと出会ったシーンでも、単純に彼女にお金を払ってすぐさまベッドに入るのかと思いきや、ヴァネッサのことをもっと知るために、一緒にゲームをして普通のデートのような時間を過ごします。このシーンを見たら「ウェイドのどこがクソ男だよ!」と思わずにいられません。

彼が血清の副作用で皮膚がただれてしまった後、同居人として盲目の人を希望したのも、自分の見た目で同居人を恐れさせてはいけないという優しさだと思うし、同居人となった黒人のぶっとんだ老婦人との間にも、絶妙な距離感と愛情のある関係性ができあがっていました。しかも、ちゃんと愛情があり、支配/被支配関係ではない(本当はこっちのほうが大切)の中での毒舌(毒蝮三太夫的なコミュニケーション)というのも、アリなところではアリなのだなということにも気づかせてくれました。

◎「キャプテン」を名乗らなかったデッドプール

映画の宣伝で言われていたように、『デッドプール』が「クソ」だとしたらどういうところでしょう。みんなのためのヒーローではなく、私怨のために復讐するヒーローだというところもあるでしょう。また、下ネタや毒舌を言うところや、シリアスな状況でも、ぜんぜん関係ないことをつぶやいたりするふざけた精神もあるでしょう。X-MENという組織には入らないところもアウトロー、アンチヒーローということでしょう。

でも考えてみると『デッドプール』は、組織であるX-MENとはつかず離れずの関係性を保っていて、協力できるときは共に行動もします。それを見ていると、X-MENたちの真面目で人のための正義を目指すという思想を否定しているのではないことがわかります。

組織には危険もあります。以前、『アイアムアヒーロー』では、権力を手に入れ、支配者であることに酔うと目がおかしくなると書きました。『デッドプール』では、ウェイドが覚醒してミュータントになった後、自分の名前を考えるときに「キャプテン・デッドプール」と名乗りそうになりますが、すぐに「キャプテンはやめておこう」と言います。ここに大きな意味があると思いました。

「キャプテン」を名乗るということは、誰かと行動を共にし、その上に立っていることを意味します。けれど、ウェイドは、自分は誰かを束ねる立場ではなく、自分の目的のために生きてる人だから「キャプテン」を使うのはやめようと思ったのでしょう。

もちろん映画『キャプテン・アメリカ』とも無関係ではありません(原作にはこの映画には書かれていない因縁もあるようですが)。『キャプテン・アメリカ』のスティーブ・ロジャースは、自らを「キャプテン・アメリカ」と名乗ること、つまり他者の期待を背負うことで、(彼の中で)男になることができましたが、『デッドプール』のウェイドの場合は違います。他者を背負うことには、支配者になり、力をより間違った方向に使ってしまうという危険性もあります。それをうまく扱いきれないかもしれない自分には、キャプテンを名乗る資格はないと考えたのではないかと、私は深読みしてしまいました。

もちろん、『キャプテン・アメリカ』は、ぶれずに正義を貫ける人物だから「キャプテン」と名乗れる。でも、よりリアルで普通の感覚を持ったウェイドは、自分は正義をちゃんと取り扱える人間ではないのではないか、と自分を疑う冷静さを持っているのではないかと思うのです。この冷静さは、悪いことではありません。『アイアムアヒーロー』の伊浦のように、凡人なのに力を手に入れた途端、力の使い方を間違ってしまう人もいるからです。

ウェイドは、自分は普通の人だと自認しているからこそ、勘違い男にならないために、組織と距離を置き、人の上に立つことを拒否しているのかもしれないし、それは、彼なりの正しさのようにも思えるのです。また彼が自分を冷静に見るということには、『第四の壁』を突破して、観客に語り掛けることで自分にも突っ込みを入れられていることとも関係があるように思うのです。

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