映画レビュー[親子でもなく姉妹でもなく]

愛人に復讐する女×世間知らずの若い女――『危険な関係』に見る、女の黒い感情の終末

2016/05/31 22:00

◎貞淑な女への嫉妬に絡み取られる女

 すべての人に「一目置かれ求められる自分」でありたいというメルトイユ夫人の願望。だがその強い被承認欲は、自分とは異なる幸せや価値観の中で生きる人への嫉妬や嗜虐心へと、容易に反転する。

 セシルを陥れたのは寝返った愛人への復讐が名目だが、そこには己が失った若さと穢れなさへの嫉妬があったのは確かだろうし、信仰心の厚い貞淑なトゥールベル夫人の煩悶ぶりをバルモン経由で面白がっているのも同じ理由だ。若い同性の脚を引っぱり、二度と這い上がれない泥沼に引きずり込みたいという黒い欲望。その背後には、中年にさしかかり、やがて老いて醜くなり、「恋のゲーム」からも降り誰にも顧みられなくなる、という恐怖が潜んでいる。

 犠牲となる2人の女性たちのうち、幼いセシルはあっさりバルモンの手中となるが、22歳の美しいトゥールベル夫人は、誘惑を痛ましいほど頑なに拒否し続けた。そんな彼女がついバルモンに心を許してしまったのは、「あなたの外見の美しさではなく、その美徳に惹かれた」との甘言による。男は見た目で女を選ぶもの、なのにこの人は私の人間性を見てくれている……。外見で判断されやすい立場の女性だからこそ、それは「真実の愛」の言葉に思えてくる。

 誰もが滑稽なほど飾り立て、うわさと目配せと駆け引きに塗れた社交界など知らず、敬虔で模範的なクリスチャンとして生きてきた、市民階級出身のトゥールベル夫人。メルトイユ夫人が「何もかも知っている女」なら、トゥールベル夫人は「何も知らない女」だ。セシルでさえメルトイユ夫人と接触し、アドバイスを受けてバルモンとダンスニーを二股しているのに、トゥールベル夫人はバルモン以外の主要人物とは絡まない。その意味で彼女は、セシル以上に「世間知らず」だ。

 1人だけ聾桟敷にいて、「倫理か愛か」でどこまでも愚直に悩み抜き、ついにリスキーな恋愛に飛び込み、己のすべてを恋人に与えた結果、更に深い苦悩に見舞われるトゥールベル夫人だが、皮肉にも最終的に、「何もかも知っている女」はこの「何も知らない女」にしてやられる。メルトイユ夫人の企みを挫折させる引き金となるのは、バルモンの心を芯から捉えたトゥールベル夫人の、愛に対する生真面目さと情熱だったからだ。

 ドラマの終盤でキーとなる言葉は、トゥールベル夫人を振る時の決め台詞として、メルトイユ夫人がバルモンに教える「理屈抜きだ(It’s beyond my control.)」である。

 バルモンの口から執拗に繰返されるこのフレーズは、さまざまな意味を帯びてドラマ空間に反響する。「飽きたのは理屈抜きだ。どうしようもない」という残酷な別れの言葉として。「思いがけず恋に落ちてしまった。どうしようもない」というバルモンの無意識の叫びとして。

 「It’s beyond my control」はバルモンの台詞という枠組みを超え、「企みは失敗した。もうどうしようもない」という意味を孕んで、メルトイユ夫人自身に返ってくる。ラスト、部屋で鏡を前にし、仮面をもぎ取られた己の素顔の無惨さに黙って向き合う夫人。彼女は自らの嫉妬心と復讐心という黒い感情を、見せかけの「良識」で粉飾しながら満足させようとし、「炎上」し破滅した。化粧を落としたその目に浮ぶ「すべて自業自得だわ」という諦観と自嘲が、胸に迫る。

大野左紀子(おおの・さきこ)
1959年生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2002年までアーティスト活動を行う。現在は名古屋芸術大学、京都造形芸術大学非常勤講師。著書に『アーティスト症候群』(明治書院)『「女」が邪魔をする』(光文社)など。近著は『あなたたちはあちら、わたしはこちら』(大洋図書)。
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最終更新:2019/05/21 16:52
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