「男性性=暴力性」という幻想に引き裂かれた父と息子の物語『共喰い』

今をときめく俳優のひとり、菅田将暉さんが2013年に主演した映画『共喰い』。彼はこの作品で、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しました。

菅田将暉さんが演じるのは、昭和63年の山口県に住む17歳の高校生・遠馬です。遠馬は、父親の円(光石研)とその愛人の琴子(篠原友希子)と三人暮らし。戦争で左手を失い、義手で魚屋を営んでいる母親の仁子(田中裕子)は川向こうに離れて暮らしています。千種(木下美咲)という彼女がいる遠馬は、暴力的な父親の血を自分も受け継いでいると信じ込み、いつか千種に暴力をふるってしまうのではと、いつも恐れているのでした。

◎母親に仕掛けられた時限爆弾

遠馬の父はセックスの時に相手の女性を殴るという性癖を持っていました。しかし、遠馬を殴ることはありません。息子は殴らないのに、なぜ女性たちを殴るのか。それは、母親の言葉から考えると、父が「ああいうことせんと男になれん」と思っているからだと思われます。つまり、女性に暴力的にふるうことが、男であることを確認できる手段だと信じているということでしょう。

遠馬もまた、そんな父と一緒にいたため、「ああいうことをせんと男になれん」のではないかと思いこまされている節があります。しかし、遠馬の場合は、それを疑い、避けたいと思っているため、千種とセックスするときにも、彼女の痛みを気にかけるし、気持ちが良いのは自分だけではないかとも気にします。その内省的な部分は、むしろ良いことのようにも見えますが、なぜ彼がそこまで気にしてしまうのでしょうか。そこには、父親の血への恐怖を増大させる理由があったのです。

それは、母の仁子の言葉からうかがえました。仁子は、ことあるごとに「お前にも忌まわしき父と同じ暴力性があり、いつかやってしまうんだ。あの男の血を受け継いだお前を生んだのは私だけれど、それ以外にはいなくてよかった」という呪いをかけていたのです(仁子は遠馬の後にできた子どもを中絶しています)。

しかも仁子は、円から暴力を受けたときに拒否できなかったことは自分自身の責任であり、あの暴力的な父親の子どもを世に送り出してしまったのも自分の責任であると考えているために、その責任を遠馬にも負わせようとしているようにも見えました。母親の言葉には「絶対に父親と同じことをしてはいけない」と、「どうせお前も父親と同じ暴力性を持った男だからやるに違いない」という、二重のメッセージが込められていたのです。

このことで遠馬は、自分も父の暴力のDNAを受け継いでいて、いつかは同じことをしてしまうんじゃないかという時限爆弾を仕掛けられてしまいます。

◎「男らしさ」に縛り付けられた親子

そして、その時限爆弾が爆発してしまうときがきます。それは、琴子が父との子どもを妊娠していると知ったときでした。むしゃくしゃした遠馬は千種を神社に呼び出し暴力的に性行為を迫ります。千種は「目つき変やけん」と拒絶し、遠馬から距離をとるようになります。その後、遠馬はやるせない気持ちをぶつけるように、父親も訪れていたあるアパートに住む女性の家で、セックスの際に暴力をふるってしまうのです。

ただ、それは母親によって仕掛けられていた時限爆弾が爆発しただけで、遠馬の中に、父親の血から由来する暴力性が宿っていたという風には見えませんでした。仕掛けられたその時限爆弾を一度は爆発させないと、「ああいうことをせんと男にはなれん」ものなのか、確かめないと前に進めないところまできていて、それで暴力的にふるまったようにも見えました。そう考えると、父親の円の中にも、本当に暴力性が宿っていたかは疑問です。父親も、母が見抜いていたように、「ああいうことせんと男になれん」という呪いに縛られていたのかもしれません。

時限爆弾が爆発した後の遠馬がどうなったかは描かれていませんが、たぶん父の暴力性が自分の中にあるという恐怖は取り払われたのではないかと思います。その恐怖を振り払うことに寄与していたのが、恋人・千種の存在でした。千種は、遠馬が自分の暴力性に恐れていたときから、「まあくん(遠馬のこと)は、殴らんっちゃ」と、男性の中に必ずしも暴力性を女性に発露したい欲望があるわけではないということや、父と遠馬は親子だからと言って同じではないということを伝えています。

千種は、遠馬に首を絞められそうになったときも、円の愛人のように暴力を受け入れることはなく、拒否してしばらく遠馬と連絡を絶ちます。遠馬が父と同じ存在ではない、だから父の真似をしなくてもよいということを、千種は常に訴えかけていたのでした。

◎ミソジニーを描く映画ではない

この物語、女性が暴力をふるわれたり、理不尽な目にあったりはしますが、男性のミソジニーが主題ではありません。あくまでも、己の中にある男性性=暴力性とは何か、それに縛られたくなくても、縛られてしまいそうになる恐怖が描かれています。

そして、女性たちの間にも、ミソジニーが描かれません。一人の男とその愛人たちを描くとき、女性同士がキャットファイトをしたりするものですが、この映画の女たちは、円の忌まわしき暴力性を受け入れてはいけないと決めたときから、同性間で闘う必要はなくなるのです。

とはいえ、女性たちが円の暴力性を目の当たりにして、いつでも毅然としていられるわけではありません。父親・円の暴力から逃げないバカな女だ遠馬に思われていた琴子ですら、妊娠をきっかけに円から逃げられる女へと変貌をとげるし、そのことは、前述の通りいつまでも父と父の信じる男性性の呪縛から逃げられない遠馬に焦りを感じさせます。

◎幻想の男性性に、男も女もとらわれなくていい

しかし、ひとつ気になるのが、遠馬が回想するナレーションを、父親役の光石研がやっているということです。これは、父と遠馬が同じような存在にすぎないということを物語っているのでしょうか。私には、父の暴力的な欲望は遠馬の中にも潜んでいるという風にも考えられるし、もしかしたら、その欲望は父にとっても遠馬にとっても、「自分を男たらしめるための幻想」でしかない、ともとれるのです。

注意深く見ていると、父親はセックスのとき以外は女性に暴力をふるわないし、母が妊娠しているときも暴力をふるわないことに気付きます。セックスのときは男になりたくて暴力は振るうけれど、父親であるときには暴力をふるわないということでしょう。父親は、自身が男であることの確証がほしかったのかもしれません。遠馬も父親も、男であることは暴力性であると思いこんでいたために、引き裂かれる思いの中にいたのだと思います。

それにしても、不思議なのは、かなりドロドロした感情を描いている映画だというのにもかかわらず、なぜか見た後にはすがすがしい気持ちになれたことです。最後まで見ると、円が思いこんでいる暴力性=男性性であるという信仰には、なんの意味もない、そんなことに、男も女も捕らわれる必要はないという思いが貫かれているからでしょう。また、遠馬が男性であることに対して内省的であり、また仁子、琴子、千種という三人の女性が、完全な形ではないにしろ、それぞれが解放されているからではないかと思いました。

解放された女の顔を見た遠馬の顔は、畏怖の念を抱いたようにも、どこかほっとしたようにも見えました。そして、それと時を同じくしてこの映画の中の昭和は終わるのですが、平成になってもまだ、この映画に描かれているような葛藤を抱き続けている人がいると思うとやるせなくなるのです。

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