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大泉洋と戸田恵梨香主演の『駆込み女と駆出し男』。公開時に見たときは、フェミニズムを感じさせるラブ・ストーリーだと思っていました。ところが、今回見直して見たら、印象ががらっと変わりました。

開始直後に流れる、縄で縛られてどこかへ連れて行かれる大勢の女義太夫たちのカット。彼女たちは路上で芸を披露して風紀を乱したとして、さらし首にされることになっていたのでした。女義太夫たちは、この物語に直接的な関係を持つ人たちではありません。それでも冒頭にこのカットを入れてくるということは、江戸時代、そしてこの映画を見る現代の女性たちには、理不尽に縛られている部分があるいうのを示唆するものだと考えていいでしょう。

この映画の舞台は1841年の江戸時代です。当時は、男性から離縁をつきつけることができても、女性からは離縁を申し出ることができませんでした。そこで、離縁をしたい女性たちは、幕府公認の「駆け込み寺」であった鎌倉の東慶寺に向かいました。東慶寺への駆け込みに成功すると、女性たちは御用宿である柏屋で聞き取り調査を受けます。そこで離縁するに値する事情があると判断されれば、夫と離婚の交渉が始まり、それでもまとまらない場合は、東慶寺で二年間を過ごし、離婚を成立させるのでした。

鉄屋の女将のじょご(戸田恵梨香)は、夫の代わりに鍛冶場を取り仕切る働き者で、日々、炉の火を管理しているため顔に火ぶくれの跡がありました。ある日、夫の浮気や放蕩に耐えられなくなったじょごは、「お暇が欲しい」と切り出します。働くじょごのことを、「男を顎で使うのがうれしくてたまらねーんだこの火ぶくれは」となじる夫でしたが、同時に「はま鉄屋にはお前の技術が必要」と引き止めます。それでも、じょごの決意は固まっていました。

じょごは決して男を顎で使うタイプの女性ではありません。むしろ腕の良い職人として、鍛冶場の男性たちにも信頼されていました。じょごが働かないと自分は食べられないくせに、女が働くことを女だてらにと非難する夫の様子からも、夫の性質がにじんでいます。酷い仕打ちを受け、駆け込み寺に向かうか悩んでいたじょごが、ご先祖様の霊前で語る「ええ鉄は見分けがつく、でも男は見分けはつかねえ」という言葉が染みます。

◎フェミニズム映画「駆込み女と駆出し男」

じょごは、駆け込みに向かう道中で、同じく駆け込みに向かう途中だったお吟(満島ひかり)と出会います。足をくじいたお吟を荷車に載せるときも、無駄な動きがなく、お吟から「何から何まで手際がいいねえ」と言われるじょご。彼女が何事においても手順が見えていて、何をすべきかの判断のできる聡明な女性だとわかります。

ところが、駆け込みが成就して柏屋での聞き取りが始まった途端、じょごは、おどおどしてうまくしゃべれなくなってしまいます。また、柏屋に居候中の医師見習いで戯作者見習いの信次郎(大泉洋)が、顔の火ぶくれを治療しようと薬を塗ろうとすると、おびえて怒り出す始末。その光景は、怯えた猫が「シャー!」と威嚇するようにも見えました。

そんなじょごですが、あるきっかけで、元々持っている聡明さを発揮するシーンがあります。信次郎が江戸の風呂屋で曲亭馬琴に遭遇したときの話を聞いたじょごは、自分と馬琴、そして祖父との縁について語り始めます。最初は、思いついたことを思いついたままに話しているだけで、うまく伝えるということのできないじょごでしたが、次第に活き活きと当時を思い出し語るようになります。その話は、戯作者を目指す信次郎に迫るほどの達者さで、それを聞いた柏屋の主・源兵衛(樹木希林)は、「話を全部、心で覚えているのね」と感心するのです。

このシーンで、信次郎はじょごの話に興味を持ちすぎて、矢継ぎ早に質問しようとするのですが、源兵衛や柏屋で働くお勝(キムラ緑子)は、じょごの話をかみ砕き、話しやすいように引き出していきます。そのことによって、じょごの気持ちがほぐれ、本来持っていた聡明さが開花します。抑圧されてきた女性の中には、言葉を発することに恐怖心を持つ人もいます。「何を言ってるかわからない」「もっとちゃんとしゃべれ」と煽るのではなく、「あなたの話に興味がり、それを理解したい」という態度をとれば、本来の能力を発揮するということがあるのだなと気づかされます。

聞き取りが終わり、東慶寺に入ってからのじょごは、ますます「仕事」において能力を発揮します。病気になったお吟の病状を克明に記し、薬草の知識を積極的に身につけ、薬を煎じる技術も上達していきます。環境のせいで、学ぶことができなかったり、その能力を認められなかった人が、少しずつ学び、知識を身につけていく姿にはぐっときてしまいます。

映画の後半になると、じょごは、強くて頼もしい女性になっています。それは、演出からも感じられます。一般的に、男性の背中が大きいという表現は褒め言葉として使われますが、女性の背中が頼もしいという表現は、あまり褒め言葉にはなりません。ところが、じょごの背中は小さいけれど頼もしい、そう思える瞬間があるのです。その背中を信次郎はただ見ていました。

じょごは、彼女自身の手で、女たちの悲しみを断ち切ります。その断ち切り方をあからさまに描けば、復讐の物語として観客にカタルシスを与えることもできたでしょう。でもこの映画では、その復讐の部分がことさら克明ではなかったために、一度映画を見ただけでは、その意味に気づかないくらいでした。ところが、二度、三度と見ていくと、この映画に書かれているじょごや女性たちの怒りは軽いものではないことがわかるのです。

この作品は、一見しただけでは気付きにくいけれど、はっきりと女性たちの痛みと怒りを描いたフェミニズム映画です。そして、この映画のフェミニズムは、単に男に復讐することが最終目的ではないし、人を好きになる気持ちも否定していない。そして何より、女には復讐をした先の人生のほうがもっと大切なんだということも教えてくれるのです。

◎信次郎はなぜ偽善者に見えないのか

そんな映画の中で、大泉洋演じる信次郎の立ち位置は、本来、難しいものかもしれません。女性たちに寄り添っている姿が偽善的に見えたり、あるいは実は自分を肯定するためであるように見えたりしてしまうこともあるからです。フェミニズムに寄り添う男性がときに偽善的に取られるのと同じでしょう。

それでも、信次郎が受け入れられるのは、じょごを含めた女性たちを自らが救うという上から目線にないところにあるでしょう。また信次郎は「女はこうであれ」という思い込みでは見ていません。じょごの火ぶくれを治そうとするのも、「女は顔に傷があってはいけない」という理由からではなく、じょごの夫が、自身の能力のなさからじょごに嫉妬して、示談の際に彼女の弱みである顔の火ぶくれを責めるだろうと考え、火ぶくれを治してから夫と談判するほうが有利になると判断したのです。信次郎の話を聞いて、半ば自暴自棄だったじょごの顔が、ぱっと明るくなったのは印象的でした。

また、信次郎は見習い医者だけでなく、戯作者見習いでもあります。そして、戯作者(フィクションを描く人)であるということは、自分のついた嘘が良い嘘でないといけないし、物語というものの可能性を信じていないといけないと考えているように見えます(それは前回の『ヘイトフル・エイト』のテーマにもつながります)。言葉の可能性を信じ、そのことで自分と人を救いたいという意味で一本筋が通っているからこそ、偽善者には見えなかったのかもしれません。それは、柏屋に乗り込んできたヤクザの親分(橋本じゅん)を追い払う場面での見事な啖呵が実は作り話であったり、東慶寺で想像妊娠をしたおゆき(神野三鈴)を巧みな話術と機転で治療し、それを見ていた東慶寺の駆込み女たち全員に「つらい立場にあるのは自分のせいだと思い込んで、自分を罰することはない」と納得させる場面からもわかります。

信次郎は決して完璧な男というわけではありません。江戸を怖がるヘタレだし、子供じみた部分もあり、源兵衛やお勝からも突っ込まれるときもある。でも、信次郎が信頼のおける人物であるということは、最初から描かれていました。冒頭の女義太夫が縛られているシーンで、信次郎はその光景に憤りを感じ、「楽しいことは全部悪いことかい?」と野次り、江戸の町を追い出され、駆け込み寺に身を置くことになっていたのでした。監督は、時代設定をわざわざ天保の改革にあわせたそうです。このファーストカットを何度目かに見て初めて、江戸の女性たちの置かれた状況と、天保の世の中で、息苦しさを感じている信次郎がシンパシーを感じる関係性だとわかったのです。

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