愛の理想世界における、ブス~夢見るためのバズ・ラーマン論

 非常につらい話だった先月の『サンドラの週末』からうってかわって、今日は『ロミオ+ジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』など、キラキラした華麗なスタイルで有名なオーストラリアの映画監督、バズ・ラーマンの作品群をとりあげてみようと思います。クィア批評(これが何かは後で説明します)などに触れつつ、最後は少し個人的な思い入れの話になってしまうかもしれません。

◎バズ・ラーマン監督の来歴

 バズ・ラーマン監督は1962年9月17日にシドニーでマーク・アンソニー・ラーマンとして生まれました。「バズ」はあだ名だそうです。オーストラリア国立演劇学院(NIDA)で学び、在学中に作成した短い芝居をもとに発展させたStrictly Ballroomが舞台であたります。1988年にヒット作となったこの芝居は1992年に映画化されました。これがラーマンの初監督作であり、ダンス映画として大成功をおさめた『ダンシング・ヒーロー』(Strictly Ballroom)です。これと並行してラーマン監督は舞台の演出にも取り組んでおり、同じくNIDAの学生で、のちにラーマンの公私両面にわたるパートナーとなるプロダクションデザイナーのキャサリン・マーティンと組むようになります。

 ラーマンが1990年にシドニー・オペラ・ハウスで上演したプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』は非常に高い評価を受け、DVD化されています。この後、ラーマンはマーティンと組んでさまざまな映画を撮るようになり、1996年に『ロミオ+ジュリエット』(Romeo + Juliet)、2001年に『ムーラン・ルージュ』(Moulin Rouge!)を製作しました。ここまでに撮った3本の映画は舞台芸術を重要なモチーフとしているため、「赤いカーテン三部作」(Red Curtain Trilogy)と呼ばれています。この後、2008年に『オーストラリア』(Australia)、2013年に『華麗なるギャツビー 』(The Great Gatsby)を撮り、今までに5本の映画を製作しています。

 この他、2004年にニコール・キッドマンを使って撮ったシャネルNo.5香水のCMである‘No. 5 the Film’と、10年後に作られたその続編CMである‘The One That I Want’も有名です。現在、ラーマンはネットフリックスのために、黎明期のヒップホップを中心とする1970年代ニューヨークの音楽シーンを描いたドラマ『ザ・ゲット・ダウン』(The Get Down)を準備しているところで、アメリカでは今年の夏に放送開始予定ということです。予告はこちらで見ることができます。

◎キラキラの世界とキャンプの美学

 まばゆい色彩が溢れる豪華絢爛なセットに燦然と輝く衣装の役者たちが踊り狂い、スターが登場したりカップルが恋に落ちたりする場面では音楽が鳴ってバックに花火が炸裂するラーマンの映画は、極めて人工的な世界です。もともと舞台出身のラーマンは、音楽で物語を進めるオペラを得意としていました。ラーマン作品には舞台の慣習をそのまま持ち込み、映画では不自然とも思われるような演出を平気で実行する大胆さがあります。作品のほとんどは情熱的な愛を主題にしていて、ラーマンの世界では何よりも重要なものとされているのですが、おそらくラーマンのクリエイティヴチームにとって、激しすぎる愛の歓びや苦痛を表現するには役者がただ台詞を話したり、動いたりするだけでは不足なのでしょう。愛というキラキラした爆発的な感情を観客にも感じてもらうため、ドラマティックな音楽とまばゆい色彩がこれでもかとばかりにつぎ込まれます。最初は笑ってしまうほどクサい演出に戸惑っていた観客も、いつの間にかこのペースに巻き込まれ、ロミオとジュリエットや、サティーンとクリスチャンの現世では結ばれぬ恋に心を奪われてしまうことになります。ラーマンは自分の作品を現実に似せる努力をほとんどしません。リアリズム的演出を採用しなくとも、物語や登場人物の心を観客に効果的に伝えることは可能なのです。

 こうした人工的で過剰なスタイルゆえに、ラーマン作品はしばしば「キャンプ」の美学という側面から語られることが多くなってします。ここでまずキャンプの美学、そしてそれと関連するところも多い「クィア」という概念について少しだけ説明することにしましょう。

 キャンプというのは美意識の一種で、なかなか定義が難しいのですが、多くの場合はナチュラルさやリアルさを拒否する過剰でわざとらしい演劇性を評価する感覚としてとらえられています。批評家のスーザン・ソンタグは1964年の有名なエッセイ「<キャンプ>についてのノート」(『反解釈』高橋康也他訳、ちくま学芸文庫、1996年に収録)で、「キャンプの見方の基準は、美ではなく、人工ないし様式化の度合い」(p. 434)だと定義し、さらにこう述べています。

 キャンプはあらゆるものをカッコつきで見る。たんなるランプではなくて「ランプ」なのであり、女ではなくて「女」なのだ。ものやひとのなかにキャンプを見てとることは、役割を演ずることとして存在を理解することである。人生を芝居にたとえるやり方を感覚の次元でつきつめていくと、こういうことになるのだ。(p. 439)

 これだけではわかりにくいので例をあげるとすると、派手なパフォーマンスで過剰かつ演劇的な「女らしさ」を演出しつつ、どうもそれだけにおさまらないというか、セクシーなのに実はそこまで「男ウケ」も「白人ウケ」もしないような一筋縄ではいかないスタイルを作り上げているニッキー・ミナージュはたいへんキャンプなアーティストだと言われています。意識的に女のフリをしている女、女の役割を過剰に演じている女、とでも言うべきでしょうか。

 こうしたキャンプの美意識というのは、ドラァグクイーンなど同性愛者のカルチャーに根ざしている部分が大きいと言われています。そこでこのキャンプを分析するにあたり、多大な貢献をしているのがクィア批評という分野です。クィアというのはこれまたとても定義しづらい概念で、もともとは「変態の」「奇妙な」というような意味の侮蔑的表現です。現在ではこうした侮蔑を逆手にとって、世間的に「正常」とされるセクシャリティにおさまらないことを「クィア」と呼称しています。同性愛やトランスジェンダーなどだけをクィアを呼ぶと思っている人もいるようですが、これは若干不正確で、いわゆる「ふつう」と違う、何か逸脱があるようなセクシュアリティに関わるものは全て包含しうる概念です。こうしたセクシャリティにおける逸脱や「何かが違う」ものをテーマに文学や芸術などを読み解く批評をクィア批評と呼びます。

 バズ・ラーマンは、ふつうなら語り尽くされた古くさい物語と思われそうなものに、人工的な様式化、人生は芝居で人は皆役者であるという感覚を持ち込み、そうすることで古い物語に「何か違うな」という雰囲気を与えて脱臼させるテクニックに長けています。映画研究者のパム・クックはラーマンについて「ノーマルだとか、自然だと思われるものを攪乱したり、転覆させたりする」点でラーマンはクィアなクリエイターであり、またキャンプなスタイルを持っていると述べています(Pam Cook, Baz Luhrmann, Palgrave Macmillan, 2010, p. 97, 拙訳)。ラーマンはキャンプの美学をとてもよく体現したクリエイターと言えるでしょう。ラーマンはある時代やある物語類型が持っている輝きを極端に抽象化してワンフレーズで言えるくらいまで切りつめた後、そこにひとことだけ残ったエッセンスを現代の観客に感じさせるためには何を用いるべきか、ということを常に考えている作家だと思います。そこで観客にエッセンスを感じさせるために用いられる強調やデフォルメが、なんともいえないキャンプな雰囲気を醸し出すのです。

◎愛と悲惨な現実

 キャンプの美学を念頭に置きながらラーマン作品を見ていくと、華麗な愛の礼賛に隠れた意外な悲観主義が見えてきます。デビュー作の『ダンシング・ヒーロー』はダンスという愛の芸術に取り組むスコットとフランという若いカップルを主人公にしています。この映画では、熱く踊る若いふたりとすっかり創造性を失ったスコットの両親を対比することで、芸術を通して、いくぶん過剰な形で愛を演じることがいかに愛の魔法を創り出すか、そしてそれがなくなった人生はいかに虚しいものになりうるかということを描き出しています。

 『ロミオ+ジュリエット』ではラーマンは設定を完全に現代化し、ビーチの街で若者たちが血で血を洗う抗争を繰り広げつつ古典的で大仰な台詞を話すというミスマッチを生かして、独特の過剰な様式美を創りあげました。実は演劇の世界では、こうした台詞や展開はそのままで古典の設定を現代化するような演出はよくあるのですが、それをそのまま映画で行いました。結果的に、極めて人工的な世界観にもかかわらず、突っ走る若者たちの愛の悲劇が浮かび上がります。『ムーラン・ルージュ』は、貧乏詩人と病を抱えた高級娼婦の恋という『椿姫』や『ラ・ボエーム』などからそっくりいただいてきたような手垢のついた物語を、人は皆役者であり、役を演じている間こそが華なのだ、という感覚をもって語り直すことで独創的な世界を現出させています。『華麗なるギャツビー』では、ジャズエイジの輝きを現代人に感じさせるためにヒップホップなどを用い、タイトルどおり華麗ですがどこか悲しいパーティとその終わりを見せます。

 こうした作品群の特徴として、愛が幸福であるのはキャンプで過剰で演劇的な魔法が効いている間だけで、現実世界との接点があらわれると愛には必ず、不幸な結末が訪れるという展開があげられると思います。とくに『ムーラン・ルージュ』で顕著ですが、この作品では最初と最後に、ユアン・マクレガー演じるクリスチャンが、死んでしまった恋人で女優のサティーンを思いながらタイプライターを打って物語を書くという場面があります。この枠により、ふたりでショーを創りあげるという現実から離れた舞台の世界においては愛が実り多く素晴らしいものであったことが示される一方、それがなくなった現在、現実においては愛が消滅し、つらい人生が続くことが暗示されます。肉体を用いる舞台芸術が理想化される一方、文字メディアは夢の燃えかすを記録するだけで、灰色の現実を象徴するものとして消極的な意味付けがなされています。こうした作品群において、愛はいくぶん理想化され、芸術的に作られた世界でのみ幸福に存在するもので、現実に寄り添いすぎた世界ではひどく脆く、失われやすいものになってしまいます。ラーマンの作品世界において、愛が不自然なほど華麗に描かれるのは、それが現実世界ではなく、かぎりなく夢の次元に近いからでしょう。

◎ブスの夢

 ここで私がとくに注目したいのは、ラーマンの映画の世界において、ニコール・キッドマンが主演している『ムーラン・ルージュ』と『オーストラリア』以外はヒロインが――これは絶対に言ってはいけない言葉なので、使うのがはばかられるのですが、勇気を出して一度だけ言います――男優に比べるとちょっとばかりブスである、ということです。

 ラーマンのヒロインが美しくないことは既にデビュー作『ダンシング・ヒーロー』の時から注目されていました。クィア批評の研究者であるジョン・シャンペインは、タラ・モーリス演じるフランが明らかにポール・マーキュリオ演じるスコットよりも見映えのしない女性として描かれていることはゲイの男性客にはアピールするであろうが、全体的には女性恐怖が見て取れると論じています(John Champagne, ‘Dancing Queen? Feminist and Gay Male Spectatorship in Three Recent Films from Australia’, Film Criticism 21.3 (1997): 66-88, p. 81)。ラーマンの作品については、このようなクィア批評の文脈でゲイの男性客へのアピールやクィアな感性を論じるものが比較的多いかと思います。しかしながら、私はラーマンがこれ以降も美しくない女優を作品に出し続けたことは、上にあげたようなクィア批評の文脈とは違った視点から、ヒロインを中心にもう少し考える必要があるのではないかと思っています。

 しばしば指摘されていますが、『ダンシング・ヒーロー』は「醜いアヒルの子」の物語です。ヒロインのフランは、初登場の場面では本当にぱっとしない女性で、見るからにハンサムなスコットに釣り合うとは全く思えません。しかしながらフランは心のこもった情熱的なダンスでスコットの心を動かし、ダンス技術にも良い影響を与え、似合いのダンスカップルとなります。最後のフランは最初よりもだいぶ素敵な女性になっていますが、これは容姿がキレイになったからというよりは自己表現の技術を身につけ、自信に満ちた女性になったからという側面が強いだろうと思います。次作『ロミオ+ジュリエット』では、ロミオ役のレオナルド・ディカプリオが輝くばかりの美しさを誇っているのに対して、ジュリエット役のクレア・デインズはどちらかというと地に足の着いた地味な女優です。実は私がはじめて見たシェイクスピア映画はこの『ロミオ+ジュリエット』で、おそらく中学生の時にこの映画を見ていなければ今シェイクスピア研究者になっていなかっただろうと思うのですが、ジュリエットがあまり可愛くなく、自分や自分の友達とたいして変わらないかもしれないふつうの女の子なのに、うっとりするほどキレイなロミオと恋に落ち、とてもしっかりした決断をするのに衝撃を受けた覚えがあります。この二作は、現実にいそうなぱっとしない女の子を中心に現実とはかけ離れた華麗な世界がぐるぐる回る、まるで乙女の夢と妄想を描いたような作品と言えると思います。世界じたいは極めて人工的なのに、ヒロインたちはどういうわけだかそのあたりにいそうな、ひょっとすると(私たち同様)ブスとか不細工とか言ってバカにされたこともあるのかもしれないようなふつうの女の子で、現実世界に釘付けにされているように見えるのです。

 「赤いカーテン三部作」と語られることの多い『ムーラン・ルージュ』ですが、私はこの作品はクリスチャンを演じるユアン・マクレガーがハンサムなだけではなく、ヒロインであるサティーンを演じるニコール・キッドマンも誰もが認める麗人で、夢の人工世界ムーラン・ルージュの華であるという点で少々、前二作と異なっているかと思います。上で論じたように、この作品の構成じたいは芸術的な夢の世界における愛の幸福と寒々しい現実の暴力的な訪れという、前二作に見られる主題をさらに突き詰めたものと言えるでしょうが、登場人物の雰囲気は違っています。続く『オーストラリア』は、ヒロインにニコール・キッドマンを再び配し、ヒュー・ジャックマンがヒーローをつとめましたが、基本的に男女の和解で終わる物語で、前三作にあった愛の理想と現実を対比する悲観的視点がなくなっています。この作品は、ある程度の時代考証、つまりは正確性を要求する歴史ドラマとしての側面と、いつもの人工的なキャンプの美学があまりきちんとかみ合わず、うまくいっていないところも多いように見受けられました。私はここまでラーマンの作品を見てきて、この後、ラーマンはいったいどうなってしまうのだろう、もうラーマンの映画に不細工なふつうの女の子は出ないのだろうか……と不安になりました。

◎ブスの夢再び

 ところが『華麗なるギャツビー』では、また美人でないヒロインが戻ってきました。デイジーを演じるキャリー・マリガンは実力のある女優ですが、おそらくフィッツジェラルドの原作を読んで想像するデイジーに比べると華が無く、地に足が着きすぎていると感じた人もいるかと思います。一方でギャツビーを演じるのは『ロミオ+ジュリエット』で世界の女性を魅了したレオナルド・ディカプリオで、今でも計り知れないスター性を持っています(私は若い頃のディカプリオに夢中だった世代なので感覚が偏っているかもしれないと思い、念のために自分のクラスの女子学生にきいてみましたが、今の学生の感覚でもやはりギャツビー役のレオはとてもハンサムだそうです)。

 ギャツビーが、作品の語り手であるニックに初めて自己紹介し、グラスを傾けて微笑むと花火があがってジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」が流れる場面は、さながら鳴り物入りで千両役者が登場するといった風情で、ニックが言うところの「極上の笑顔」にお客もやられてしまうでしょう。こうしたカリスマ的なギャツビーが、ジャズエイジの華にしては地味な感じのデイジーに執着するという展開は、ラーマンが最初に二作で行った、ヒロインだけが現実世界にいるようなふつうの女の子で、その少女がめくるめく夢の世界を体験する、という構成によく似ています。古典の映画化としてはいくぶん反則かもしれませんが、『華麗なるギャツビー』は、ラーマンのかつての作家性が戻ってきた作品だと思います。

 現実にいそうなぱっとしない女の子を中心に過剰で華麗な作られた夢の世界が展開し、そこでのみ愛が花開くというバズ・ラーマン監督の作風は、女性客の乙女心をそそり、大きな夢を見せる一方、現実をも忘れさせないという複雑な作りを持っていると思います。一見、単純な恋物語のように見えるラーマン監督の独創性は、この悲観的な現実との接点にあるのかもしれません。バズ・ラーマン監督には、これからも乙女の夢を刺激する、はじめは楽しく、やがて悲しい世界を作り続けて欲しいと思っています。

■北村紗衣/北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科専任講師。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。

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