【messy】

西炯子『カツカレーの日』に、アラサー女性の「ダメ出しニーズ」が見える

2015/09/30 20:00

 こんにちは、さにはにです。今月も新しい女性の生き方のヒントを漫画から探していきたいと思います。よろしくお願いします。

 今回ご紹介するのは、『姉の結婚』や『娚の一生』など、結婚や男女関係について深みのある作品を多く手がけられている西炯子先生の最新作、『カツカレーの日』(以上、すべて小学館)です。

 物語は、主人公であるゼネコン系会社員の斉藤美由紀(28歳)が、2年間同棲していた「生活力のない彼」との関係を解消し、婚活を開始するところから始まります。一部上場の優良企業が加盟するお見合い組織に参加するものの、なかなか「思うような相手」に出会えない。その心境を読書カフェのノートに書き綴ったところ、「あんたは間違っている」との辛辣なコメントを寄せてくる人物が現れるところから物語は本格的に動き出します。

 往復書簡のようなやりとりをノートの上で続けるうちに、その相手が同じ会社に勤める50代の高橋だとわかります。年齢差のある二人ですが、果たしてその関係は……? というところで、第1巻は終わっています。

 アラサーの女性に他者が強烈な「ダメ出し」をしてくるという物語の構図は、先月ご紹介した『東京タラレバ娘』(講談社)にもつながる図式にみえます。一昔前は、魅力的な主人公に読者が強く没入し、彼女の恋愛の行方を我が事のように見守りながら応援するというストーリーが人気を集めていました。これに対し、主人公の感情のゆらぎに寄り添いながら同時に「ダメ出し」を描くという『タラレバ』や『カツカレー』に見られる手法は、現代の女性の抱える「生きにくさ」とそれを生み出してしまう社会構造が反映されているように見えます。今回は『カツカレー』を題材に、「ダメ出し」ニーズを生み出す、日本の社会構造について考えたいと思います。

◎女性が結婚相手に「情緒」と「生活手段」を求める背景

 女性の抱える「生きにくさ」原因としてよく挙げられるものは、生き方が多様化したことではないでしょうか。1980年代以降、日本の女性は「社会進出」を果たし、性行動や恋愛が「自由」になり、さまざまな選択肢が選べるようになりました。それより前の日本では、女性の大学進学率が低く、性行動や恋愛も今日に比べるとかなり限定されていました。また、生き方の大部分が年齢によっておのずと決まっていたという点も大きな特徴です。

 今回の『カツカレー』に関連して注目しておきたいのは、80年代と比べて、やはり自分で働くという道が格段に選びやすくなったこと、とりわけ、結婚後に「家事育児に専念する専業主婦」以外の生活が珍しくなくなったことです。

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 図1に専業主婦世帯と共働き世帯の数の変化を示してみました。これを見たらわかるように、1980年代の共働き世帯は専業主婦世帯の半分ぐらいしかありません。しかし、専業主婦世帯の数はその後一貫して減り続け、1990年代に共働き世帯と拮抗し、2000年から共働き世帯が専業主婦世帯を上回るようになって今日に至っています。

 「働く」という選択肢を得たのは大きな変化なのですが、だからといって「嫁」や「専業主婦」という役割への期待が消失したかというと、そのようなことは起きませんでした。つまり、今の日本の女性にとって「選択肢の増加は単にやるべきことが増えただけ」という結果につながっています。

 朝日新聞デジタルで本作を評した松尾慈子さんは、「本作の主人公もしかりだが、仕事をもってバリバリ働いていても、それだけだと周囲に『幸せそうね』と認定してはもらえないし、本人もそれだけでは足りないと思っている」とした上で「女を生きるということはなんと息苦しいことであろうか」と論じています。ただ選択肢が増えただけではなく、全てをやらなくてはいけないという女性の現状を、松尾さんも本作の背景として感じているようです。「家庭か仕事か」ではなく「家庭も仕事も」手に入れないと幸せだと認めてもらえない。やるべきことの多さがプレッシャーとなって女性を追い詰めているようにみえます。

 「愛情なんて不安定なものでは家庭を維持できない。生活の安定が確保できる相手ときちんと結婚したい」と美由紀は語ります。情緒と生活手段の両方を同じ相手で達成できればよいのでしょうが、それまで同棲していた彼氏は劇団員のフリーター。「生活の安定」とは程遠い男性です。だから「生活力がない」彼氏を手放して「生活力のある」相手を婚活で得ようと行動するのです。愛情ではなく安定に今後の人生目標とする美由紀の割り切りは、女性が抱える「生きにくさ」に対するひとつの処方箋のようにもみえます。

 作中では(たぶん現実にはありえない高頻度で)収入、年齢、身長などの条件を満たす男性が次々と登場しますが、自分を見てくれない、ピンとこない、といった理由で交際に至ることもなく、美由紀はどんどん相手を変えていきます。その理由は、作中でも指摘されているように「誠実さ」や「家庭を優先してくれるか」といった「好み」を優先させている点にあります。割り切っているようにみえて、実際は情緒と生活手段の両方を結婚に求めているといえるでしょう。

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 美由紀の配偶者選択基準は、統計的に考えるとそれほど極端なものではありません。図2にしめした国立社会保障人口問題研究所の調査によれば、この20年間、結婚相手に重視する条件のトップは男女ともに「性格」です。続いて「家事能力」「仕事への理解」などが支持されていて、そこにも男女差はありません。ただしそれ以外の部分については男女間で大きな違いがあり、男性は22.9%が「容姿」を選択しますが「経済力」「職業」「学歴」などはほとんど重視していません。これに対し、女性は42.2%が「経済力」を重視するのに加えて、他の要素も男性に比べると重視・考慮する人が多い結果となっています。つまり、男性は情緒的な要素を重視しているのに比べて、女性は情緒だけではなく生活手段も要求しているわけです。

 さきほど、選択肢の増加は女性に「生きづらさ」をもたらしたが、それは単に「やるべきことが増えた」ためだ、と書きました。ではなぜ「やるべきことが増えた」のか。その背景のひとつには、やはり雇用環境の男女差があります。共働き世帯が増加したとはいえ結婚や出産を契機に退職する女性は依然として多く、女性の就労の意味する実態はパートやアルバイトに代表される非正規雇用です。女性が結婚相手に多くを求めてしまう原因は、雇用や経済的要因がセットになっていることは強調しておく必要があります。

◎「情緒」と「生活手段」も性別役割分業化されている

 しかし「大手ゼネコン」勤務の美由紀の場合、多くの女性が直面する雇用や経済的不安定さはそれほど関係ないような気がしてしまいます。産休育休も取得できそうですし、ワーキングウーマンとして腹をくくって今の彼氏と結婚すればよいのではないかなとも思うのですが、そうあっさりとは決められないようです。その原因は、どうやら美由紀の両親が、大恋愛の末に結婚したにもかかわらず、たった5年で離婚してしまったことにあるようですが、『カツカレー』で描かれる美由紀の心の揺れを「生きにくさ」という観点からもう少し掘り下げてみると、多様な選択肢は実は互いに矛盾していて、そのために困難が生じているという状況が見えてくるように思います。

 1980年代までの日本では男女が「情緒」と「生活手段」を分担して家族を運営していましたし、生き方や人間性もそれによって規定されている部分がありました。男性は外で働き、生活手段を担当する(ので、粗雑だったり鈍かったりしてもまあ許される)。女性は家庭で専業主婦となり、情緒を担当する(ので、学歴は必要ないし仕事も腰掛で良い)。つまり、情緒と生活手段は「家の中と外」「男と女」というように、今までの社会では独立した領域で担われていて、相互に矛盾する要素だと位置付けられていました。

 「やることが増えた」だけでも大変ですが、その要素が個別に矛盾しているのですから、全部を実現するのはいわゆる「無理ゲー」です。結婚をするためには最終的な決断をしなくてはなりません。では、その根拠は何なのか。ひと昔前でしたら「運命」とか「真実の愛」が動機になったのですが、そもそも美由紀の行動が愛情を不安定なものとみなすところからスタートしていることからもわかるように、今日の日本ではそういった要素が説得力を失ってきています。悩みに悩んで、結局「好きなように」やるより他ないのが実際でしょう。

 複数の選択肢がありながらそれが相互に矛盾していると、最終的には個人の欲望が優先される状態が結局引き起こされる。この図式は社会学では古い歴史があり、「無規範状態」と呼ぶこともあります。無規範状態は「好きなよう」にやれるという意味では「自由」と言えるかもしれませんが、反面では、共感したり一緒にがんばったりといった横のつながりを持ちにくくするとされています。ただでさえ自分の生き方に確信が持てない現代の女性にとって、これは厳しい状況です。なぜなら、自分の選択を周りから認めてもらえないだけでなく、かえって批判される可能性を広げてしまうからです。

 女性の社会進出が引き起こした選択肢の多様化は、日本だけではなく他の国でも生じています。ではなぜ日本の女性は無規範状態にさらされ、生きづらさに直面しているのでしょうか。アメリカの社会学者ロバート・キング・マートンは「あこがれ」や「夢」といった文化的な目標と、それを実現するための手段にギャップがある社会は無規範状態に落ち入りやすいと指摘しています。

 日本社会における家族や育児へのサポートがかなり脆弱なのはいうまでもありません。その証拠としてしばしば指摘されるのが家族関連社会支出の少なさです。人口の確保は国家の基盤ですから、教育や医療費、生活費など子供の育成に必要な部分について国がある程度の支出をするのは先進諸国ではよくあることです。このため、例えばフランスやイギリスなどでは、収入や仕事にそれほど恵まれていなくても子供を持つことができます(なので近年子供が増えています)。日本は家族関連社会支出の割合が少ないことで知られていて、家族や子供を持つためには大変な努力が必要です。結婚しにくさや生きにくさは個人的な生活だけではなく、社会の制度設計と大きくかかわっているといえます。

 今回は『カツカレーの日』を題材に、「ダメ出し」ニーズを生み出す日本の社会構造について考えてみました。雇用形態の不安定さを背景に、女性は情緒と生活手段の両方を結婚に求める傾向が強いのですが、『カツカレー』でも描かれているように、情緒と生活手段の両立は意外に難しい事柄です。その原因の一つに、両者は互いに矛盾する事柄と位置付けられてきたという社会状況があります。矛盾する理想を一度に実現しようとすると、そこには「生きづらさ」が生じてきます。

 これを解決するひとつの行動指針は「好きにする」ということになります。しかし個人的な欲望を行動の基準にするというのは、それ自体不安定なものです。また、今の日本では「好きにする」ための資源も自分で準備しないといけないため、「好きにする」と「生きづらさ」がますます加速される状況にあります。

 そうしたなかで、自分の立ち位置を確認できる定点となり得るのが、他者からの「ダメ出し」なのではないでしょうか。本作で美由紀に「ダメ出し」をしていく高橋は、海外で橋梁事業に携わっているという設定が示すように「外で」働く人です。粗野な言動や体型からも、典型的な「男らしさ」を体現しています。女性の生き方が多様になったことで却って「男らしさ」が必要とされるようになったという皮肉な状況は、本作の示す重要な問題提起のように思います。

 高橋と美由紀の関係が「ダメ出し」を通じた対立からある種の信頼が生まれるところで第1巻は終了しました。これが恋愛に転じていくのか、擬似的な親子関係に落ち着くのか、あるいはその両方か。今後の展開を楽しみにしたいと思います。

●永田夏来
さにはに先生。ニックネームの由来は”SUNNYFUNNY”(パラッパラッパーというゲームのキャラクター)→”さにふぁに”→”さにはに”です。1973年長崎県生まれ。2004年に早稲田大学にて博士(人間科学)を取得後、現職は兵庫教育大学大学院学校教育研究科助教。専門は家族社会学ですが、インターネットや音楽、漫画などのサブカルチャーにも関心を持っています。twitter:@sunnyfunny99

最終更新:2015/09/30 20:00
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