[連載]ギャングスタのスターたち

死してなおヒットを飛ばす、孤高の天才・2パックの人生を振り返る

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名前からして孤高だもんね

――アメリカにおけるHIPHOP、特にギャングスタ・ラップは音楽という表現行為だけではなく、出自や格差を乗り越え成功を手に入れるための“ツール”という側面もある。彼らは何と闘い、何を手に入れたのか。闘いの歴史を振り返る!

【今回のレジェンド】
2パック

[生い立ち]
 2パックは1971年6月16日、レサンセ・パリッシュ・クロックスという名で、ニューヨーク市に生まれた。両親は60年代後半~70年代にアメリカで黒人の民族主義運動を展開していた過激派組織「ブラックパンサー」のメンバーで、彼が生まれる前に破局。シングルマザーだった母は、彼が1歳の時にイスラム教徒の黒人国家主義者ムトゥル・シャクールと結婚し、息子の名も古代インカ語で「輝ける蛇」という意味のトゥパック・アマル、名字も「神に感謝」という意味のシャクールに改名した。彼を妊娠中に服役していたほどブラックパンサーに心酔していた母は、組織の思想や教えを息子に叩き込みながら育てた。母は重度の麻薬依存症だったため暮らしは貧しく、ホームレスシェルターを点々としたり、頻繁に引っ越すなど、不安定な幼少時代を過ごした。

 感受性の強い少年だったトゥパックは、15歳で名門・ボルティモア芸術学校に入学。演劇とダンスを学ぶ傍ら、自分の気持ちを詩で表現するようになり、「MCニューヨーク」という名で詩をラップする活動を始めた。しかし、彼が学校を卒業する直前の88年6月、一家は治安の悪いカリフォルニア州マリンシティへ移動。トゥパックは、近所の悪党たちの影響を受け、食べ物を手に入れるため麻薬を売りさばくように。同年8月には継父のムトゥルが現金輸送車強盗に関わったとして逮捕。禁錮60年の実刑判決を受け、一家の絆は急激に崩れていった。

[キャリア初期]

 麻薬によって現実逃避をする母親に嫌気が差したトゥパックは、母と異父妹の元を去り、ストリート暮らしを送るようになった。そこで目の当たりにした黒人貧困層の現実を世間に伝えたいと決心し、89年3月、ラップグループ「Strictly Dope」を結成。グループは長続きしなかったが、トゥパックのラップを気に入ったクラブのマネジャーが、ヒップホップグループ「デジタル・アンダーグラウンド」のショック・Gに紹介。ショックは「まず裏方として」トゥパックを雇い、2カ月後にはダンサーへと昇格。ラップのレベルも高いと認められた彼は、ラッパーとしてグループのアルバム制作に携わることが許可される。

 大手「インタースコープ・レコード」はトゥパックの活躍を知り、契約をオファー。91年、トゥパックは「2パック」という名でソロラッパーへと転向。91年11月にデビューアルバム『2Pacalypse Now』をリリースした。アルバムは口コミで話題になり、シングルカットされた「Brenda’s Got a Baby」は「麻薬中毒の両親のもと生まれ育った12歳のブレンダが、レイプ同然で妊娠。トイレで産み落とした後、赤ん坊を捨てて今じゃ立派なジャンキーの売春婦」「ゲットーに生まれても、まともな大人になれる。でも大半がブレンダみたいになる」という過激な内容で、「アルバムのほかの収録曲もモラル的にひどい内容だ」と政治家たちから批判を受けたが、ニュースで報じられることで、2パックはさらなる注目を集め、知名度を上げていった。

 92年、2パックはアーネスト・ディッカーソン監督の青春バイオレンス・ムービー『ジュース』の主役に抜擢。続けてジャネット・ジャクソン主演、ジョン・シングルトン監督のロマンス映画『ポエティック・ジャスティス/愛するということ』に出演し、ラッパーとしてだけでなく、俳優としても絶賛されるようになった。

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