[連載]ギャングスタのスターたち

妻までダシに使われ……東西抗争に翻弄された男、ノトーリアス・B.I.G.

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『ザ・ノトーリアス・BIG ビギー・スモールズ物語』(トランスワールドジャパン)

――アメリカにおけるHIPHOP、特にギャングスタ・ラップは音楽という表現行為だけではなく、出自や格差を乗り越え成功を手に入れるための“ツール”という側面もある。彼らは何と闘い、何を手に入れたのか。闘いの歴史を振り返る!

【今回のレジェンド】
東西抗争の中心で、短命ながらもビッグヒットを飛ばした男
ノトーリアス・B.I.G.

[生い立ち]
 ノトーリアス・B.I.G.(以下、ビギー)は、1972年5月21日、本名クリストファー・ウォーレス・ジュニアとして、ニューヨーク州ブルックリンに生まれた。ほかの女性と結婚していた父は、2歳の時にビギーのもとを去り、教師だった母は女手1つで愛情深くビギーを育てた。

 しかし、ビギーは羽振りの良いギャングの暮らしに憧れるようになり、12歳のとき、治安の悪さで知られるベッドフォード・スタイベサント地区のギャングに入ってしまう。クラック・コカイン(煙草で吸引できる状態にしたコカインの塊)を売りさばいて16歳で週に20万円以上荒稼ぎするようになり、高校を中退してしまった。体格のよい彼は警察の目につきやすく、17歳の時に銃の不法所持で逮捕され、19歳の時にはノースカロライナ州でクラック・コカインを売ったとして逮捕され、9カ月間服役した。

[キャリア初期]

 ビギーは17歳の時にラップバトルに興味を持ち、暇さえあればラップをするようになった。ラップを騒音だと嘆く母に、ビギーは「近い将来、この騒音で大金持ちになれるよ」と自信満々に言い、近所のDJグランと共にデモテープを録音した。

 このデモを音楽プロデューサーのミスター・シーが聞き、アメリカ最大のヒップホップ・カルチャー専門誌「ソースマガジン」の編集者で音楽プロデューサーのマティ・Cに紹介。マティもビギーの類いまれなる才能に驚き、92年3月、「ソースマガジン」にビギーの特集記事を掲載した。この記事は「アップタウン・レコード」でインターンから幹部にのし上がった天才プロデューサー、ショーン・コムズの目に留まり、彼もまたビギーのセンスに驚愕し、すぐに契約した。その直後、ショーンはアップタウン・レコードをクビになり、「バッド・ボーイ・レコード」を設立。ショーンは前金を提示し、ビギーは「そんなに自分のことを思ってくれるのなら」と彼についていくことを決意。そして、ステージネームを、ノトーリアス(悪名高き)・B.I.G.(Business Instead of Games/遊びじゃなく、ビジネスだ)とし、「ビギー」「ビギー・スモール」などの愛称で呼ばれるようになった。

 ショーンは、ビギーを売り出すため、クレイグ・マックの「Flava in Ya Ear」に、LL・クール・Jらとフィーチャリングさせて一気に知名度を上げた後、ドクター・ドレーらが出演している映画『Who’s the Man?』のサントラ「Party And Bullshit」でソロデビューさせたのだ。そして、ファーストアルバム『Ready to Die』のレコーディングに取りかかった。

[バッシング・評価]

 『Ready to Die』レコーディング中、ビギーは西海岸のロサンゼルスで活躍していたギャングスタ・ラッパーの2パックと交流するようになる。2パックがビギーに自分のラップグループ「サグ・ライフ」に入ってほしいとアプローチをかけたのだが、契約の関係上、それはかなわなかった。その直後、2パックは映画撮影のためニューヨークに長期滞在したことで、2人は最高の友情を築くようになる。

「Big Poppa」とかいま聞いてもイケてるしね!

しぃちゃん

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