ドラマレビュー第35回『明日、ママがいない』

「嘘から生まれた関係は真実になり得るか」『明日、ママがいない』に流れる野島伸司の命題

2014/03/10 17:00

 批判のほとんどは、施設の描写が現実とかけ離れているという取材の甘さや、不快な要素を次から次に突きつけてくる作品の粗雑さに対するものだ。しかし、そのような現実を無視した描写は、野島伸司の作品歴を考えると、作劇上のミスというよりは、確信犯的なものにみえる。

 連ドラデビュー作の『君が嘘をついた』(フジテレビ系)というタイトルが象徴的だが、野島伸司は「嘘から生まれた関係は真実となり得るのか」と、「無垢でか弱いものこそが、もっとも強いのではないか」という2つのテーマを追求してきた。そんな、野島伸司が、こだわっているのが子役という存在だ。

 現在、野島は子役を目指すことで貧困から脱出しようとする少年を主人公にした『NOBELU‐演‐』(原作:野島伸司、作画:吉田譲)という漫画を「少年サンデー」(小学館)で連載しているが、『明日、ママがいない』もまた、子役を巡るドラマだと言える。犬や猫のように消費され、大人になれば飽きられて捨てられてしまうため、なんとか過剰適応しようとするあまりに年齢と内面にズレが生じて大人になることができない悲哀は、子役たちに得体のしれない怪物性を与える。かつて、『家なき子』に出演した安達祐実は、そんな子役たちの先達だ。

 あまりに達者な演技をするために、『家なき子』放送当時、12歳の安達祐実は、本当は25歳なのではないかという都市伝説が広まったことがあったが、本作における芦田愛菜は25歳どころか何百年も生きているかのような貫禄がある。ポストの幼い外見とは裏腹に、ハードボイルドなタフさと同時に母性をまとった存在感は、外見が子どもであるが故に、より一層、不気味な怪物性を漂わせている。

 そんな芦田が、大人になった安達と共演する7話以降の展開は、新旧子役スターの邂逅という意味において神話的な迫力を感じる。安達が演じる朝倉瞳は子どもの死という現実を受け入れることができず、妄想の世界に閉じこもり、ポストを自分の娘と思い込んでしまう。そんな瞳のためにポストは彼女の娘・愛として、朝倉家に通うようになる。

 第8話。子どもたちの元に本当の親が現れ、ドンキたちは親元に戻るかどうかの選択を迫られる。親たちは子どもたちに対し、本当の名前(例えば、ドンキならば真希)を呼びかけるのだが、それは子どもたちが現実へと帰還するための儀式のようだ。しかし、ポストにだけは帰るべき本当の親は存在しない。

 最終話で、ポストは瞳の娘・愛として生きていくのか。それとも、ポストという自分で選び取った名前で今後も生きていくのか。どちらを選んでも「嘘」だというのが、野島伸司らしいと思う。
(成馬零一)

最終更新:2014/03/10 18:49
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