[官能小説レビュー]

女だって“勃起”する――『星が吸う水』が描く、性別を超越する女の快感

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『星が吸う水』/講談社

■今回の官能小説
『星が吸う水』村田沙耶香(講談社)

 女がただ純粋に性欲を晴らすためだけのセックスを求めようとしても、それを公衆の面前で声を大にして言うことが、はばかられる世の中である。男であれば、ちょっと抜きたくなった時、まるでパチンコ屋に行くかのように「俺、今日フーゾクに行くよ」と何の気負いなく言えるのではないだろうか。

 しかし女の場合は、そうもいかない。例えば隣のデスクに座っている同僚が「私、今日セックスしたくなったから、セックスフレンドのところへ寄ってから帰るわ」と発言したら、どうする? 私だったら、慌てて彼女をオフィスから連れ出して「そんなこと大声で言っちゃダメ!」と、彼女をたしなめるだろう。

 このように、女が性欲だけでセックスをすることが許されないという風潮が、確かにある。相手男性への何らかの“感情”が伴わなければ、セックスはすべきではないという圧力を感じるのだ。どうして女だけ……と思わざるを得ないが、いくら考えても、「だって女だから」という答えにしか行き当たらない。
 
 もちろんひと昔前と比べると、女のセックスに対する感覚も男性化してきてはいるだろう。しかし、やはりまだまだ男たちのように、女が堂々と「セックスしたい」と言える時代ではない。

 しかし女も男と同じように、セックス“だけ”をしたい夜もある。恋愛感情はもちろん、互いの立場をも邪魔だと思えるほどの、純粋に“抜きたい”と感じる時があるはず。今回ご紹介する『星が吸う水』(講談社)の表題作は、自らの性欲を“処理”として考えている29歳の女・鶴子の物語だ。

 鶴子には、二十歳そこそこの武人という恋人がいる。彼と彼女の関係性を一般的に説明すると“恋人”という呼び名が一番しっくりくるのだが、彼らの間には、一般的な恋人同士が行う、定期的なデートやセックスの前に交わし合う愛の言葉、いわゆる、男と女の心の触れ合いは存在しない。彼らのつながりは、純粋に身体の関係だけなのだ。
 
 中学3年生の冬休み、初めて本能的に“勃起”をしていることを感じ、以来自分自身の性欲に対して忠実に生きてきた鶴子にとって、何も求めずに性欲だけを解消してくれる武人は、何よりも代え難い存在だ。

しかしそのような関係性を、他人が共感してくれるはずもない。鶴子にも、巻き髪にグロスが輝く女っぷりのよい梓と、地味であか抜けなく、夜が苦手な志保という2人の女友達がいるが、「女なのに勃起する」という鶴子の性別を超越した性への欲求は、彼女達にまったく理解されない。

 特に、いわゆる一般的な男女交際を求める梓とは、考え方の相違から衝突してしまう。梓にとって、“抜く”ことを前提として武人と付き合い続ける鶴子の姿勢は、受け入れがたいものであるようだ。梓は、女を“穴”という受け身の存在と捉え、女が性に対して能動的になることに疑問を呈しているのである。

 鶴子の性欲に忠実すぎる姿勢が変態扱いされることも、また鶴子の言う「勃起」という感覚が、女には馴染みにくいことも頷ける。しかし私は、鶴子を通して、「男」と「女」という記号の窮屈さや不自然さに気付かされた。そして、その窮屈さとは、セックスをしている時ほど感じるものなのではないか、と。なぜなら女にとってセックスとは、男たちを受け止める“穴”としての存在に徹する行為だからだ。そのため私たちは、自らの性欲を封じ込め、男に求められるその日を、ただ待つことしかできないのかもしれない。

 そう考えると、一見特異な「セックス上では性別なんて無意味だ」という鶴子の姿勢こそ、真っ当に思えてくる。女もやりたいようにやればいい。性欲を介しての性別なんて、自分自身で決めればいいのである。
(いしいのりえ)

“抜きたい”夜のお供に

しぃちゃん

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